【-懐かしい-】
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「テメェ、ジギタリスと競り合っていたときの方が反応が良かったぞ。ポンコツを助けて腑抜けてんじゃねぇだろうな?」
ここまで必死に磨いて来た足運びも、足捌きも、どれもこれもディルには通用しなかったわけではない。手合わせをした前半は、動きにディルが付いて来ていなかった。むしろ雅の攻撃に対して、ディルが遅れて合わせて来るような感覚だった。以前までは雅が攻撃した時点でディルが防御の行動に移っていることが多かったため、これは大きな変化だと思っていたのだが。
それも中盤、後半になって来ると息を潜めた。ディルが動きに慣れて来たのだ。雅がディルと離れてから必死になって磨いて来た全てがたった十数分程度で無に帰すほどに、この男は戦闘への対応力が、適応力が高い。先手を取れていた攻撃はいつの間にか後手に回り、素早く防御に移れていたはずが、気付けばギリギリのところまで押されている。
「なんだって、そんなに強いのよ。これじゃ、いつまで経ってもディルを追い越せない!」
「俺を追い越すだって? クソガキが! 喋っている暇があんなら、そのエネルギーを体を動かすことに使えよ!」
ほんの僅かな気の緩み。そこにディルが、ディルの左目の鋭い眼光が目を付けて、疾風の如く繰り出された蹴りが雅の右脇腹を掠める。これは雅が寸前で体を逸らしたからこそ避けられた。
避けられたのだが、そこから強引にディルの足は左に動き、雅の右脇腹に触れたと思うと、そこから渾身の力でもって、蹴り飛ばされた。当ててから蹴られたため、威力は弱い。腹部に唐突に叩き込まれる蹴りよりも圧倒的に、軽い。
けれど、それでも雅の体は飛んだ。踏みとどまれず、飛んでしまった。ディルがすぐさま雅を追い掛け、着地後すぐに彼女の腹部に、走力を加えた蹴りを叩き込んだ。
女の子らしくない声が漏れ、そして一気に胃の中の物を吐き出し、雅は蹲る。
「テメェは俺に会うたびに吐いてんな。ケッパーに言わせんなら吐瀉系女子ってやつか? そんな女は御免だなぁ!」
立てよ、とでも言いたげに蹲っている雅にディルが足を掛けて来る。
「あー……」
「なんだ? さっきので脳まで揺れたか?」
「痛いし、辛いし、苦しいし、怖いし、逃げ出したいし、やりたくないのに」
「泣き言を言ってんじゃねぇ」
「こうやって、ディルに訓練してもらえることだけは、嬉しい」
感覚が麻痺しているとでも言われるのだろうが、それだけは雅の中で揺るがないのだ。
この痛みが、辛さが、苦しさに戻って来て欲しかった。周囲からは、引かれるだろうけれど。
「訓練で嬉しいだのなんだの言えて、テメェは気楽なこったなぁ」
「ディルは、暴力を振るうのが楽しいんじゃないの?」
「ああ、この上なく楽しい。だが、暴力を振るえない相手との訓練なんざ、俺は御免だね」
言い方がディルらしくない。
「ひょっとして、ディルでも負けたことがあるの?」
ちっ、と苛立ち混じりの舌打ちをされて、雅はビクッと震えつつ身を起こし、距離を取る。
「ナスタチウムとは相性が悪い」
「へ……え、嘘。ナスタチウムに、勝ったことないの?」
「うるせぇな。俺の勝ち負けをどうこう話すんじゃねぇよ。たった一回だ。たった一回、俺はあの飲んだくれに負けた。あのあと、幾度となく勝負事に持ち込もうとしたら、のらりくらりと逃げやがって…………勝ち逃げの臆病者め」
罵るディルだったが、声にはどこか懐かしさと、苦しさが混じっている。
昔、負けた。それから一度も手合わせをしていない。けれど、今、手合わせを受けてもらったとして、ディルがナスタチウムに勝てるのだろうか。きっとそのような葛藤をしているに違いない。
「ナスタチウムは自分を臆病者って言っていたよ?」
「ああ、臆病者で、弱虫で、逃げ腰の飲んだくれだ。だが、そうだったとしても、俺は負けたんだよ。狂った狂わない壊れた壊れなかった。そんなことを言い合っているけどな、首都防衛戦に向かう前の、ほんの一時だけに限っては、ナスタチウムは俺より狂っていた。狂っていると自称していた、この俺よりも」
雅にしてみれば、狂い方の違いが分からないので、ディルにはなにも言うことができない。そして、この男には慰めのような軽んじた言葉は投げ掛けない方が良い。
「休憩、終わり」
「吐いてすぐに、よくもまぁ自分から休憩を終わらせられるもんだな」
「だってディルとの訓練だよ? もう、時間が勿体無いから。ボロボロにはまだ早いよ。もっとボロボロに、ボッコボコにしてよ」
「……遂にマゾヒストの境地に達したのか」
若干、引き気味に言う。この狂い、壊れた男に引かれることは雅にしてみれば辱めを受けること以上の精神的苦痛をもたらす。
「違うわよ!」
「はっ、どうだか。俺の知らねぇ内にクソガキがマゾガキになっていても不思議じゃねぇ」
「ちょっとは不思議がりなさいよ! 私はマゾヒストじゃなくて! ええと、ほら、あれ! 傷付くことが嬉しいの!」
反論にすらなっていない自身のボキャブラリーの無さに雅は項垂れ、心の中で涙した。




