【-001-】
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男と男が木剣を打ち合わせている。どちらの動きも俊敏ではあるが、優勢であるのは圧倒的に、黒い服の男である。俊敏さの中にしなやかさを、そして柔軟さを交えながら、突飛に唐突に木剣を振り回すだけでなく、極められた体幹、攻撃に対しての恐怖を消し去った見切りも相まって、相手の刺突を避けた瞬間に、男は鋭く相手をしていた男を蹴り抜いた。それから地面を蹴り、蹲って立ち上がれないでいる男の喉元に木剣を力任せに――
「そこまで!!」
そのような声が戦闘を遮り、そして同時に木剣を突き立てようとしていた男を複数人が拘束する。この戦いに審判は居ない。そもそも戦いと呼べるものに、審判など居るわけがない。男はそう考えていたのだが、どうやら対人戦においては異なるらしい。
「ちっ……」
男は握っていた木剣をその場に落とし、これ以上、戦う意思が無いことを周囲に示すと、ようやく拘束は解かれた。
「ただの訓練だぜ?」「なんだよ、あの血走った目、こえぇ」「なんか、戦っていたときに笑っていなかったか? 気味が悪いよな」
勝ったのは、拘束されていた側の男の方である。なのに賞賛する声は無く、非難する声の方が多い。ギラリと周囲を睨め付けたのち、男は小さく舌打ちをして、その場をあとにする。
「木剣じゃ、リーチが短すぎる。鎗だったら、声を掛けられる前に仕留めることができていたはずなのに……いや、そもそも、海魔を相手にしていないんだから、人を殺すことを考えた動きは、間違っているのか?」
自問自答をしながら、男は先ほどの戦いを思い返し、自身の動きの良し悪しを評価して行く。そして、反省すべき点はすぐに反省するべく、対処法について頭の中ですぐさま考える。
男たちに与えられた世界は非情である。ゆっくりと考えている暇など、どこにも無い。
『穢れた水』が蔓延しつつある中で男は産まれ、そして育った。その最中で、決して掴み損ねてはならなかった命を掴み取れなかった過去も相まって、強さに並々ならぬ執念を燃やしている。
海魔は、なんの因果か人を襲い、喰らう。食物連鎖の頂点に君臨する人間に訪れた、驚異の捕食者である。そんな存在を軽んじ、疎み、目を背けて来た人間が恐怖するようになったのは『穢れた水』の侵攻速度も起因している。
銃弾は通じない。対戦車用の弾丸やミサイルならば穿つこともできるかも知れないが、増え続ける海魔の一匹や二匹に投じれば、当然の如く、費用がかさむ。
そしてこれは、多くの国家は金融破綻を起こす一つの結果となった。結果、人間は沖合いから離れ、浜辺から離れ、山奥へ、ただ島や大陸の内側へと逃げるしかなかった。しかし、川もまた『穢れた水』に変わりつつある中では生きられない。常に飢え、常に渇き、そして死んで行く。
そんな中、人間に目覚めた、まさに生きるための力が、『五行』であった。木火土金水。変質の力は凄まじく、海魔の皮膚を容易く貫く。硬い鱗も、いつかは引き裂くことができる。飲み水の確保ができる『水』の使い手は特権階級に立っているが、それ以外の変質を行える者は、一日の飲食を得るために海魔を狩る討伐者となった。
既存の武器の一部が使い手によって変質させられたものであっても変わらない。だから討伐者は近接戦闘の極致を強いられる。遠距離から銃を撃っても構わないが、その銃と銃弾の代金を支払うのは討伐者本人である。報酬と出費が割に合わないのだ。だから誰も使わない。使うとすれば、使い手になれなかった一般人たち。身を守るための武器を奪い合い、土地を我が物とするために東奔西走するような彼らは、討伐者や使い手以上に罪を犯しやすい。
力も持っていないと判断され、ただの労働力としてしか扱われず、真っ当な生き方さえ否定される。それでも、人間同士の争い事は大きく減ったと言える。ただし、『上層部』がなにを考え、なにをしようとしているのかは、管轄されている討伐者の誰もが分かっていない。
分かっていなくとも良いのだ。毎日を、日々を生きるためには水と金が必須となる。そのためには海魔を狩らなければならない。他のことは考えられない。自分のこと以外を考えられる討伐者は、決まって「お人好し」と呼ばれる。かつては皮肉、或いは褒め言葉になっていたそれも、腐った世界においてはただの罵声に変わった。
男が女を助けるのは、男がその女と寝たいから。
女が男を助けるのは、その男にいざというとき身代わりになってもらうため。
子供を助ける討伐者は、ただの変態か。とにかく「お人好し」には性と欲が入り乱れるような意味が込められるようになった。これが将来、元のような意味合いになるのかどうか、男には知りようがない。
海も空も、川も腐っていれば、人間の深奥もまた腐り始めている。だから腐った世界という揶揄が造語となり、これもまた一人歩きを始めている。
こんな世界でも、生き続けなければならない。世界から誰一人として居なくなったとしても、男だけは生きていなければならない。そういう約束をかつて、してしまったのだ。その誓いを、約束を、男は全うしなければならない。
「ハロー、こんにちは、話、通じる?」
男の前に出て、女が手をヒラヒラと揺らしている。こんな首都防衛戦のために用意された簡素なプレハブだらけの町の中で、女と関わって良いことがあるわけがない。男性の、我欲に溺れている討伐者ならば、必要なのかも知れないが、男には無用の長物である。
「おーい、話通じてるんでしょ? 私、これでも日本語は得意な方だし。って、おーい! 無視するなって!」
背中を追い掛けて来る女と、その声に苛立ちを覚えて立ち止まり、振り返る。
「なにか用か?」
「いやー、さっきの訓練、というか手合わせ? 凄かったなと思って。ほぼ圧倒だったじゃん?」
褐色の肌に金色と白のメッシュ、そして露出度の高い衣服を纏った女。琥珀色の瞳からはあからさまな邪念を感じ、そして、男を利用してやろうという意思を汲み取ることさえできた。こういった女は分かりやすくて良い。自身が感情を表に出しやすいということに開き直っている。だからこそ好感も、そして交流すらも持ちたくはないのだが、僅かばかり話に付き合ってやろうという気にはなる。
「吹っ掛けて来たのは向こうだ。俺はあんな弱い討伐者と手合わせなんかしたくはなかったんだが」
「でもさ、殺す気だったでしょ?」
「弱い奴は死ぬもんだ。殺してなにが悪い? ……いや、今までも殺し掛けたことはあったが結局、人を殺したことはなかったな。そういう意味では、俺はまだまだ甘いのかも知れない」
殺意は常に放っている。殺す気で掛かることもほとんどである。しかし、そのどれも殺人には至れていない。それは心のどこかにまだ、人間らしさ、そして相手に対する気遣いが残っている表れなのだろう。
「それで、用はなんだ?」
「あなたの場合、遠回しに言わなくて良いから助かるわ」
言って、女は短いスカートをたくし上げる。
「私と寝ない?」
「断る。下品で下劣な女と寝る趣味は無い」
かと言って、この女にそれほど魅力が無いかと言えば嘘になる。引き締まり、スリムな体に、相応の胸。そして扇情的に蠱惑さを秘めた表情からは、男性の欲を擽るほどの毒を秘めている。
毒を秘めているからこそ、すぐに断ることができたのかも知れない。毒さえ見せなければ、開き直っていなければ、男はひょっとするとその問い掛けに応じてしまっていただろう。それくらい、この女には他の女にはない魅力と、溺れてしまいそうになるほどの艶やかさがある。
「大体の男はパンツを見せたら興奮して応じるってのに、あなたはそうでも無いのね」
「どこの生まれだ? さっきの話からして、日本じゃないな?」
「まぁ確かに日本人じゃぁないけど、あなたにそれ以上を話す義理が私にあると思う?」
「無いな」
そこで話を切り、男は踵を返す。
「ちょ、待ちなさいよ。私のなにが不服なわけ? これでも討伐者で、あなたと同じで海魔を討つ者なのよ? 強い奴にできるだけ義理立てしておきたいのよ!」
「だから嫌なんだ。女の身代わりになって死んでたまるか。あと、容易く身売りする女は性病持ちが多いと聞いている。これは偏見なんだろうし、あんたがどうかは知らないが、とにかくそういった女と寝るのは御免だ」
「ちっ、くしょー! 性病なんか誰が持ってるか! 処女好きのクソ男! あなたみたいな奴って大抵、テクが無いか童貞なのよ!」
どこからどう決め付けたのか、最後に付け足された負け犬の遠吠えのような一言は、よけいであった。男にそんな性癖はなく、そして嗜好も無い。
ただし、女性経験がそれほどあるわけではない。強ち、童貞という言葉は間違っていないかも知れない。極端に言えば、事に及んでも果てることができない。一時――一年前に悩み、訪れた病院では心因性のもので、精神的な改善を伴わなければ、回復しないだろうと診断された。その医師がヤブ医者でなければ、男は死ぬまで男性機能を回復させることはできないだろう。思春期を謳歌することもできないこの人生には、まだまだ男に苦痛と苦難を与えて来るのだ。
「下らないな」
どうせ死ぬ命だ。子供を作ったところで、悲しませるだけになる。ならばいっそ、このままで良い。そういった欲が無いのなら、「お人好し」になることもない。女に手を出してヘマを撃つこともない。だから都合が良い。
都合良く、戦うことだけに集中することができる。
男はプレハブの町を、周囲から奇異の目で見られながらも、構わず一人で歩き続ける。




