【-降参-】
納得行かないような、そして、心の中では「負けてない」とでも言いたそうな表情で、鳴はそう答えた。雅は彼女の手元に短刀を置いて、ディルの元に走る。
「クソガキ」
「なに?」
「もっと反応を良くしろよ。遅ぇんだよ。『行けっ』って言ったなら、『い』の時点で走るくらいには動けるようになっていると思ったんだが。あと俺の教えた投擲は使わなかったな? 自分を変質した空気に突っ込ませるよりも明らかに楽だろうが。それとも走りながら変質させていたのか?」
「無茶言わないでよ! 私、あれでも人生で一番早く反応できたと思っているんだから! それに、鳴は視線集中型の変質も出来るから、短剣を投げたら防がれちゃう」
「テメェのこれまでの経験はどれだけクソだったんだよ」
信じられない。褒めてもらえるかと思えば、文句を言われた。苛立ち、釈然としない。そして納得もできない。
「ジギタリス、答えろ。ポンコツはどこに居る?」
「……ふ、ふははははっ。中央の施設の、巨大水槽さ。海竜じゃなく、人の姿に化けているのに、あの海魔はずっと生きているんだから驚きさ。それも『穢れた水』じゃない、『水使い』が変質させた水の中で、だ。やっぱり人間には程遠いね、あれは」
「テメェは一々、癪に障ることを言わなきゃ白状すらもできねぇのか!」
言いながらディルがジギタリスの腹を蹴る。
「次にもう一つ。浄化計画ってぇのは、なんだ?」
「ふ、ふふふふ、ふはははははっ。いや、悪いね、“死神”。こうして君に負かされたのはもう何度目か分からない。君の“悪”を滅せられずにいる自分自身に、笑えてしまうんだ。ああ、もう良い。どうにでもなれ」
ジギタリスは起き上がり、腹部を押さえながら歩き出す。
「水槽に案内しよう。僕の計画の全てを、暴力でぶち壊しにしてくれたお礼だよ。そこで、浄化計画についても語ってあげよう」
「付いて行っても大丈夫なの?」
雅はディルに小声で訊ねる。
「昔から、負けたあとの『正義漢』は素直なんだよ。気色は悪いが、騙されたと思って付いて行く」
ディルがジギタリスに付いて行ったのを確かめ、雅は急いで鳴の元に戻る。
「立てる? 動ける? 動けるなら、一緒に行こっ」
そして、手を差し伸べる。
「さっきまで、戦い合っていた、のに」
「でも、もう戦ってない。レジェでも鳴でも構わない。私にはあなたのことがほんの少しだけ分かるから。ほら、ジギタリスのところに行こうよ」
「……分かった」
差し伸べた手を鳴が掴み、そして起き上がる。彼女が拾い忘れた短刀を雅がまた拾い、彼女に手渡す。それを腰に収めたのを見届けて、二人はジギタリスとディルの元まで駆け出し、そして追い付く。
「『下層部』は『上層部』直属の部署だ。中間管理職とでも言っておこうか。上から下へ、下から上へ。金と水は上に、それ以外の厄介事は金を付けて下に。そういった部署はここ以外にもある。僕は主に海魔の討伐及び、討伐者の管理を任されていた。まぁ、きっと、二十年前の生き残りに重要なポストを与えるつもりなんて微塵も無かったんだろうけど、生き残りの代表として、この地位を貰った」
「はっ、なぁにが生き残りの代表だ。上のジジイどもをそう言い包めただけだろうが。まぁ、性格破綻者、人で無し、異常性愛者、飲んだくれの中じゃ、テメェが一番まともだったんだろうがな」
「確かに君たちは揃いも揃って、ネジのぶっ飛んだ輩だ。僕もまぁ、ネジがぶっ飛んでいると認めてはいるけれど、君たちほどじゃないとは声高には言いたいくらいさ」
二人の話を雅と鳴は静かに聞く。そして、四人はエレベーターに乗り、八階まで上がって、降りた。
「さて、水槽はこの階層をほとんど使わせてもらって…………まぁ、ご覧の有り様だね」
ジギタリスが肩を竦める。
ナスタチウムが水槽をぶち壊し、流れ出る水をケッパーの人形と木の根が吸収し、水とほぼ溶け合っているリコリスが丁度、リィを抱えていたところだった。
「げっ、ジギタリス。やめてー、炎を出すのはやめてー、私が蒸発しちゃうからー」
「蒸発?」
「リコリスは体が水で出来ているんだよ。言っていなかったか?」
「言ってないよ! 初耳だよ!」
だが、それでリコリスの残滓とも呼ぶべき水分がどうやって雅に連絡を伝えたか、誠が斬っても斬っても死なないと言っていたのか、その辺りの事情がようやく飲み込めた。
「僕は負けた。そこの“死神”と、“死神”の鍛えた子に負けた。いわゆる人質だ。無抵抗の僕をこのまま“死神”が殺したなら、それこそ“悪”そのものだ。そうしないで、人質に取ることも“悪”には変わりが無いが」
「どっちにしたって“悪”なんだろうが、面倒臭ぇ」
ナスタチウムが苛々しながら簡潔に纏める。
「負けたってことはぁ、一時休戦というやつかなぁ? 優しいねぇ、相変わらず。負けたら素直になる優しさ。あぁ、あぁ、そこでピンピンとしているディルに教えてやりたいくらいさ」
「黙れ」
話に花を咲かせているところ悪いが、雅はリコリスが抱えているリィに駆け寄り、顔に手を滑らせる。スヤスヤと寝息を立てているため、眠っているらしい。水槽を壊した音で目でも覚めそうなものだが、ここに捕まっている間に更に肝が据わったと考えると、怖ろしい子である。
「良かった、生きてて……良かった」
「それはディルに言うことじゃないのー、クソロリ?」
「私は別に、ディルが生きていようと死んでいようと、どうでも良かったですし」
そんな強がりを言ってみたが、ディルとジギタリスの二人以外には、まるでお見通しといった具合の反応をされてしまう。
「みんな揃っているから丁度良い。浄化計画について話そう」
「ストップ、その話は葵たちが来てからよー」
「葵さんは、みんなと一緒にアジュールに乗って、都市に向かったんですけど」
「逃げることがトラウマになっている葵が素直に引き下がるわけないでしょう? 多分、そろそろ――」
轟音と共に、八階の外壁を崩してアジュールの両後ろ脚の鉤爪が、建物に引っ掛かる。そして、そこから葵と楓、誠が降りた。最後にアジュールが人の姿へと戻り、やれやれと言った様子で頭を掻いている。
「さぁ、リィさんを助けましょう……って、あれ?」
楓が快活な声を出しつつ、周囲を見渡して口を閉じる。
「一足遅かった、ですかね?」
「どう見たって一足も二足も遅いだろ。なんでわざわざ、面倒臭いところに戻らなきゃならないんだよ」
「面倒事に巻き込まれるのはあんたの性分さ。いい加減に諦めたらどうなんだい?」
いつも通りの面々を見て、雅は肩の力を抜く。
「君たちはほんと……警備やらを考えないんだね。いつだって正面突破に真っ向勝負。呆れてしまうよ、気が滅入ってしまうぐらいに」
ジギタリスは崩れた壁を見つめて、茫然自失としている。ここの管理を任されているのだから、修理費用について、頭が計算を始めているだろう。
「テメェが撒いた種だろうがよ。ちょっとぐらいの損失は目を瞑れ。で、浄化計画ってのはなんだ?」
「……世界を洗い流す計画だよ」
「世界を、洗い流す?」
雅が問い返す。
「君たち討伐者が海魔を討つと、『水使い』が海魔の心臓を『生きた水』に変質させる。心臓が最も水を得ることができる部位だから、討伐者のほとんどが海魔討伐の証として心臓を取るのがほとんだ。そして、報酬として出される水を蓄えるために君たちは、銀行のように、水を査定所に預けているはずだ」
雅は肯き、そしてディルたちも肯いていた。
「けれど、その利用料として月に幾らか水は査定所側に回るようになっていることは知っているね? いわゆる天引きのようなシステムだけど、これが巡り巡って『上層部』に渡る。討伐者は世界中に居て、『上層部』はただの一つだけ。だから、この引かれる水の全てが『上層部』の施設に集められる。世界を洗い流せるだけの量の『水』を、蓄えるためにね。それが浄化計画だ」
「世界を、覆うって……地球全体を覆うってことですか?」
「その通りだ」
ジギタリスは葵の問いに答える。
「実際、どれくらいの量によって世界を覆い尽くせるかは分からない。けれど、少なくとも『穢れた水』を押し流せるくらいの水を、一気に大量放出する。水は循環する。だから、選ばれた『水使い』が水を更に水に、それの繰り返しを続ける。要はノアの洪水の再来さ。あれは穢れを洗い流すための大雨だったとされる。『上層部』はそれを、人間の手で引き起こそうとしている。分かるかい? ノアの洪水で生き残ったのは、一握りの生物だけだ。ノアの洪水で沈んだのは聖地。でも、『上層部』は膨大な水で豪雨ではなく、ただ洗い流そうとしている。これはね、島や大陸の模型にバケツ一杯に注がれた水を一気にぶち撒けるのと同じなのさ。模型は水では崩れない。でも、模型の上に立っていた人や、建物は、どうなる? 無論、流される。この意味が、分かるね?」
「一握りの人間だけを残して、他の精一杯生きている人間までも、動物も、なにもかも、流すってこと?」
雅にジギタリスは肯いた。
「だから浄化計画なんだ。世界は一度『水』によって流される。それで『穢れた水』は潰えはしないだろう。しかし、確実に侵攻は一旦停止する。海魔の脅威もしばらくは息を潜めるだろう。『上層部』はそう予想している。だから僕は、そんなことを起こさせないために、死した海魔を操って、生きた海魔を狩り続けることで人が死なない戦いを起こそうと、考えたんだよ」
「竜の骸を弄んだ計画を、僕は許さないよ」
「許されなくても良い。笑われても良い。けれど、それが“正義”なんだ。僕は、そう信じて疑わなかった」
ジギタリスは鳴に目を向ける。
「君をレジェと呼び続けたのも、拘りだ。君は人々の希望になる。“法”の番人になる。そういう存在だからこそ、人の名を冠していてはならないと、思った」
そう言って、男は項垂れた。
「それも間違いだったんだろう。昔からこうだ。一つのことに集中すると、周りからの声が耳に入らなくなる。ああ、そうだ。そういう男だ、僕は」
「いいえ」
鳴が首を横に振る。
「私は、あなたが私を拾ってくれたことを間違いだとは、思いません。だってこうして、生きていられるんですから。けれど……もう、レジェという名は捨てます。私は、私。標坂 鳴として、あなたに従いたいと、思いますから」
「……ありがとう」
鳴とジギタリスの関係も、これで決着が付いた。




