【-壁を構築し終わる前に-】
「さぁ、どうかな」
「そうですか。では、先ほどの手技も、恐らく偶然なのでしょうね」
レジェは揺るがない。看破されてしまったが、これに肯定も否定もする気は起きて来ない。
「あなたが変える空気を、私がこれからも変え続けさせてもらいます」
「そんなことできるわけ、」
「できるとしたら、あなたはどんな顔をするんでしょう?」
喰い気味に言い放ち、レジェが駆ける。足運びは、それほどでもない。楓の動きを見ていれば、目で追える上に対応もできる。けれど、繰り出される斬撃は重く、そして荒々しい。殺人のための刃にこれほど怯えてしまうとは雅も想定外であった。受け流せてはいるが、反撃に出る手段が無い。
短剣を振り乱し、レジェを突き放したところで右手で基点を指差す。
「一つ遅いです」
レジェは雅がわざわざ指差した箇所に自ら飛び込む。壁を――“風圧”ではなく“音圧”を蹴って、そこから訪れる真逆のエネルギーで、バネ仕掛けのように雅の元まで飛来する。
風圧と違い、音圧は刺々しい。この加速も、刺すような速度だった。斬撃を受け止めはしたが、衝撃で吹き飛んだ。
「また一手、遅い」
反射的に後ろに風圧のクッションを作ろうとした。しかし、雅がその空気に身を預けた直後、拒絶するような音圧の壁に打ち付けられた。
「ぐっ」
背中から行った。痛みはそれほどでもないが、臓器が揺さぶられてしまって、膝を折ってしまいたくなる。強く床を踏み締めて、なんとか上体を保つ。
「私はあなたよりも速く、空気を音に変えられる。あなたよりも確実に、です。目線、視線、指先、体の動き、なにもかもに注意を向けていれば、どこを基点にしようかなんて一目瞭然です。だから、あなたに絶望をお伝えしましょう」
レジェは短刀の弦で不協和音を掻き鳴らす。しかしその音圧は雅には当たらず、壁に叩き付けられる。これに対し、感情を表に出すことがほとんど無いと推測している彼女が、舌打ちをして明らかな苛立ちを見せていた。この音圧もひょっとすると、雅に当てる気であったのかも知れない。
「……まぁ、構いません。お伝えする絶望ですが、私には見えてあなたには見えない、音圧の牢獄です」
「牢、獄?」
まだ先ほどのダメージから回復し切れない雅は、込み上げる汗を拭いつつ反芻するかのように彼女の言葉を繰り返した。
「私は空気を音の壁に変える。徐々に徐々に、あなたの行動範囲を狭めるように。そして、一歩も動けないほどに狭く。最後には、あなたを音圧の壁で押し潰させていただきます」
「……地味に、嫌なこと考えるんだね。なんて言うか、性格の悪さが滲み出る殺し方じゃない?」
「いわゆる拷問でしょうか。ですが、あなたに問い掛ける言葉もございませんから、これはつまり、あなたの罪に対する罰であり、刑なのでしょう。最終的に、あなたの体は肉塊に成り果て、人の形を残すことはありません」
馬鹿げた話だが、レジェの音圧の壁に背中からぶつかったことと、リコリスの残滓が書いた『音の迷宮』を知っていると、彼女はやるつもりでいる。
時間との戦い。レジェが音圧の壁を構築し切る前に、雅が音圧の壁を擦り抜ける一手を――先手を打たなければならない。レジェよりも早く、空気を変質させておけば、少なくともそこに音圧の壁は作れない。
たった一つ、抜け道を作り出すことができたなら、レジェの策を切り崩せる。
なにが開始の合図であったかは分からない。しかし、雅もレジェもほぼ同時にその眼光を、その手を、その体を動かし始める。
切り込むレジェに対し、雅は短刀を受け流しながら空気の変質を試みる。しかし一歩遅い。レジェを弾いて、触れてみればそこにはもう壁がある。彼女から大きく距離を取って、続いてこの五角形のフロア全体を大回りに走り出す。が、嫌な予感がして、数秒で急停止し、前方の空間に触れてみる。ここにはもう既に音の壁ができている。舌打ちをして、雅は次の活路を見出そうと走り出す。
「どれだけ走っても、私の変質の速度には追い付けません。これだけは、私の才能ですから」
レジェは短刀の一つを鞘に収めて、右手で空気をなぞるように走って行く。
間違いなく、接触型の変質を行っている。それも断続的、連続的な高速の変質だ。この動きから、彼女は雅と同じく視線集中型と接触型の両方を扱える混合型であることが分かった。
だが、それで次の一手が見つかるわけではない。とにかく、そのレジェの才能に負けない速度で雅は変質を終えなければならない。空気は常に循環している。滞留している空気は既に、不可視の壁を形成しているものだ。しかし、そんなことは目で見ても分からない。触れなければ分からない。そして、激突しなければこれまた分からない。
フロア全体を全速力で駆け巡ることは難しい。人間の力は前方に壁があればセーフティが掛かる。激突を免れようと体を急停止させるか、止まれないなら避けようとする。だが、それは目に見える壁だからできることだ。不可視の壁があるとして、そこに不可視の壁があると分からずに全速力で突っ込んだなら、セーフティは掛からない。
自身の運動エネルギーによって、全身の骨が砕けかねない。
人の運動エネルギーにはそれだけの、大きな力がある。だから雅も全速力では走れない。リスクが大きすぎる。小走りで、それも前方に壁がないか確認するかのように腕を伸ばしながら進むことしかできない。
視線を動かし、意識を集中しても、そこに果たして変質を行えたか。その手応えが全く掴めない。ディルに教わっていたならば、妙な感覚でもなんでも掴み取ることができていたのだろうかと考えると、自身の訓練の至らなさに溜め息しか出て来ない。
「さぁ、どうしましたか?」
足を止めた雅にレジェが斜め後方から攻めて来る。短刀は二本持っている。また視線で雅の後ろに音でできた壁を構築するつもりだろうか。そう思うと、無駄に剣戟と斬撃を繰り出し続けるのは得策ではない。
勝つか負けるか。
このシーソーゲームにおける、雅の勝因は彼女が作り出している壁から脱出できるか否かにある。戦闘における勝利も敗北も、この状況においては関係が無くなってしまった。経験上、力の変質を行った対象が意識を失っても、変質した箇所は残る。たとえレジェを下しても、音の牢獄に閉じ込められてしまったら、あとは、一つ上のフロアからこの戦いを見下ろしている、あの男にトドメを刺されるに違いない。
壁を、作る。今、レジェは――鳴はそれに固執しているし、あの男の言葉に忠実に従っている……だったら。
雅はレジェの猛攻を凌ぎ切り、右手で基点を指差す。そして短剣を投擲する。だが、短剣は不可視の壁によって弾かれ、雅のすぐ傍に落ちた。
「無駄ですよ」
レジェの言葉を聞きながら、雅は短剣を拾う。後ろから不協和音が鳴り響く。しかし、雅には命中しない。
「くっ!」
「さっきから、その短刀はレジェの言うことを利いてくれていないみたいだけど?」
「黙りなさい」
「不協和音じゃ、狙いを定めるのが難しいみたいな、そんな制限があったりするのかしら?」
そうやってレジェの神経を逆撫でしつつ、進んでいたら不可視の壁にぶち当たった。五角形のフロアは比較的広かったが、不可視の壁であっても圧迫感を感じる。ひょっとすると、このフロアの半分以上が、既に音の壁に支配されつつあるのかも知れない。
レジェがあれだけ不協和音だけを自在に操れないってことは、きっと私の言っていることは正しい。なのにそれを使うのは、あの男からの贈り物だから、かな。




