【-アンジェリカ-】
*
焦りを雅は心の奥に眠らせる。誠との会話で、焦燥感が一気に鎮まってくれた。あの場で怒りで我を忘れて暴れ回るようなこともせずに済んだ。
あとは、坂道を登るだけ。ダムの近くにある施設にただひたすら向かうだけだ。そして、歩を進めつつも海魔の急襲にも気を付けなければならない。ダムがあるということは水があり、川があるということ。それはつまり、海魔の棲み処が近くにあるということに繋がる。開けた坂道を登っているが、この先に施設があるとは限らない。海魔の巣窟に続いていたのなら、雅は命懸けでそこを突破しなければならない。
焦りでは無く不安が込み上げる。しかし、それを飲み込む。一人で先走ったのは、誰に命じられたわけでもない、自分自身なのだ。そんな自分を不安がって、信じなくてどうするんだ、と強く心に刻む。
「ダム……初めて見た」
しばらく山道を登っていると、視界の開けたところから巨大なダムが目に映った。川の流れをせき止め、水の量を制限し、蓄え、時に放出する。この世界で治水したところでその水が使えるわけではない。土砂崩れや地滑りを制するために設けられていると考えられ、そして適切な量として排出される水によって、水力発電を行っているとも思われる。治水と利水を兼ね備えた巨大な多目的ダムであろう。
あまりにも大きく、そして排出される水の音も大きいために呆気に取られていたが、ダムが見えて来たのなら近くに『下層部』の施設がある。雅は進んだ先で分かれている左右の道の内、右を選んだ。左は恐らく、先ほどダムに通じる道だろうと方角的に読み解いたためだ。
明かりもなにもない山道を進み続けることには抵抗があった。この時間は、野宿するなら火を絶やさずにしておき、闇夜に紛れて襲撃して来る海魔に対抗するべく、常に一所に留まるか、逃げ道を確認している。今回、手持ちに周囲を照らすようなものは無い。だから、山道の一歩一歩が怖れと不安の増幅器で、心臓は運動から来る負担以上の働きで血を全身に巡らせる。そのせいか妙に暑い。冷や汗と呼ぶべきものが額から頬を伝って落ちる。キョロキョロと辺りを見回したところで、どこにも明かりは――
「あった」
後方は、自身が本当に進んで来たのかと思うほどに暗く、なにも見えないが、前方にははっきりと、人工的な明かりが見えた。その明かりを放っているのが『下層部』の施設だ。
雅は近場の木の肌を手袋を嵌めたまま触れ、水気を帯びていないかを確かめたのち、その木を登る。登り方は二日間の訓練で一緒だった楓から教わった。休憩中、ストレスを発散するかのように木を軽やかに登って行った楓に比べて、不恰好ながらもそれなりの高さまで登り切って、バランスを崩して落ちないように片手で横木をしっかりと握りながら、施設を高いところから眺める。
奇妙な形をした施設だ。五行に則った造りであることはリコリスから聞いているが、ここからでは左右の二つしか建物が見えない。中央に続くパイプ状の通路も見えるが、中に侵入できるような窓すら見当たらない。明かりが放たれているのは、施設の中央部だ。正面からではよく分からないが、空から見れば、この中央の建物は正五角形である可能性が高い。
「ここで立ち止まっていても仕方が無い、か」
来てしまったのだから進むしかない。罠が無いとも限らないが、あんな宣戦布告の仕方をした鳴が、果たしてそのような姑息な手段を用意しているだろうか。
私を誘い込む罠として、あれは適切だったけどね……あれ以外にも用意しているんだったら、踏んでやる。私から、その罠を踏んでやる。罠が正常に作動するかどうかは知らないけど。
雅は地面擦れ擦れに空気の変質を行い、そこに向かって飛び降りた。風圧をクッションにして怪我することなく着地し、体の筋の一つ一つを丁寧に伸縮させる。肝心なところで、筋を痛めてしまっては元も子もない。
「よっし……ここまで来るまでの疲れは……許容範囲内。スタミナ切れが怖いけど、そんな連戦するわけじゃないし……ただ一点突破だ」
自身がするべきことを言葉にして認識し、雅は堂々と中央部の施設目掛けて走り出す。リコリスは絶対に一人で行くなと言っていた。そして、“怖いモノ”が出て来るとも言っていた。
それでも、“怖いモノ”と遭遇するリスクがあったとしても、リィを助けたい思いが強かった。
そもそも、雅には施設の一つ一つを破壊し尽くせるような突破力のようなものもなければ、兵器だって持ってはいない。一人でできることは、限られていて、それはリィが捕らえられているであろう中心部の建物に侵入し、救い出すことだ。
左右に見える建物を越えて、更に前進を続ける。なにも起こらない。これには拍子抜けだ。境界線のようなものがあって、それを少しでも越えたならサイレンでも鳴り響くものだと思っていたのだが、周囲は不安を覚えてしまうほどに静かだ。
静かで、前方の建物だけが明るい。楓は雅を止めるときに「飛んで火に入るなんとやら」と言っていたが、まさにその如く、雅は光を求めるかのように前進を続けた。
中央の建物まで辿り着いてしまう。そして驚くことに、雅を招くかのように建物の鉄扉は左右に開かれた。ゴクリと唾を呑み、雅は建物の中へと入る。
鉄扉が閉じられ、物音一つしない広い空間に照明の明かりが真っ白な床と壁、そして天井までも照らし、暗い場所に居た雅は目が眩む。
『ようこそ、アンジェリカ』
「……アンジェリカ?」
五角形の空間の五隅に設置された拡声器から、聞き慣れない男の声がした。雪雛 雅とは呼ばず、アンジェリカと呼んだその意味が、よく分からない。
『アンジェリカはセイヨウトウキの別名であり、そして同時に“天使のような女の子”という意味合いも持つ、素晴らしい植物の名前さ』
「私が、“天使のような女の子”?」
『そうさ、まさにその通りなんだよ、アンジェリカ。君が来てくれたことで、レジェはようやく“法”を司る番人になる。そんな素晴らしき糧になってくれる少女を、アンジェリカと呼んだって、不思議ではないだろう?』
気持ちが悪い。
この気持ちの悪さは、二十年前の生き残りが特に強く持っている。声質は穏やかで優しいものであるのに、どうしてか聴覚が後味の悪いものを発せられた声のあとに伝えて来る。リコリス然り、ケッパー然り、ナスタチウム然り、そしてこの男の声然り、だ。
「レジェ? アンジェリカ? ひょっとして、私がここに来るように仕向けて、そしてあの簡単には開きそうもない鉄扉も開けたってわけ?」
『その通りさ』
見上げれば、一つ上の階層だろうか。そこから少し突き出したフロアから窓越しに、男が見えた。しかしここからでは特徴もなにも、全く分からない。ただ、二十年前の生き残り、その最後の一人であるということだけの情報しか入って来ない。
『誰にも邪魔されないように、君だけをこの広間に招いた。あとから続く君の知り合い如きに、あの鉄扉は破れない。破れない上に、相応の歓迎をこれから準備させてもらうのさ。ああ、この日をどんなに待ち侘びただろうか。法を破る者。罪深き者。それを討って、尚、立っていられたならば、間違いなく、レジェは“法”となる』
どうやら、男は陶酔しているらしい。でなければこんな理解不能なことを並べ立てはしない。
「それで、レジェって誰?」
『ああ、忘れていたね。出ておいで、レジェ』
雅の正面にあったシャッターが開き、レジェが姿を現す。そしてシャッターはまた閉じられた。
「鳴……?」
「今の私は、レジェですから」
「……なるほど、音を大事にする鳴じゃなく、この施設を守る忠実なレジェ、ってこと」
だから言葉遣いも違うのだ。性格も感情も押し殺した、レジェ。鳴がそう名乗るのなら、雅も彼女をレジェと認識しよう。
『さぁ、レジェ。この僕に、人を殺す瞬間を! 見せておくれ!』
「その要望には必ず応えて見せます」
レジェは短刀を引き抜き、構えて見せた。雅と初めて会ったときと服装は変わっていないが、短刀だけは異なっていた。峰には弦が掛けられ、刀身は灰色。そして、これは感覚的なものでしかないのだが、その刀身からは禍々しい気が発せられているように見えた。




