【-協力することの重要性-】
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「くせぇ」
「臭いね」
ナスタチウムとケッパーが同時に、似たようなことを言い出した。
「僕には分からないんですけど」
「貴様が嗅いだら、吐くだろうよ」
「喩えるなら、幾つもの香水を混ぜ合わせて、その全てを体に塗りたくったような匂い、かな」
ケッパーの喩えもよく分からない。香水の放つ匂いを誠は嗅いだ記憶が無いからだ。ひょっとすると母親が香水をつけていたのかも知れないが、そのときの匂いはもう欠片も残っていない。乞食としての人生、そしてナスタチウムとの人生が誠にとっては凄絶としか呼べない代物であったため、その衝撃が昔の記憶を塗り替えてしまったのだろう。
「敵かなにかですか?」
「ある意味で敵だね。よし、人形もどき。君、吐くのを承知でまた突撃して来てよ」
「嫌ですよ、なんで吐くこと前提の突撃をしなきゃならないんですか。そっちのヘタレに飛び掛かったのは、あからさまに弱そうに見えたからです」
「ヘタレとか言うなよ」
楓は未だに誠と打ち解けようとしない。別に打ち解けてくれなくとも構わないのだが、視線が重なるたびに舌を出され、そして生理的に受け付けないような表情を作られてはたまらない。できることなら、さっさとこの二人組とは別れてしまいたいくらいである。
溜め息をつき、大きく息を吸った刹那、鼻を衝く芳香とは呼び難い悪臭に誠は目を見開き、驚きながら口元を抑えて、その場に蹲った。両手で口を塞いでいても仕方が無い。すぐさま片手で鼻を摘まむ。
「あーあ、来ちゃったよ。ほんと、来ちゃったよ」
ケッパーが煩わしいといった具合に頭を振る。誠は楓に目を向けると、既にその場に吐瀉していた。さすがの彼女も、この悪臭には耐えられなかったらしい。
「ハロー、おひさー。元気してたかなー? 飲んだくれにアガルマトフィリアー?」
「くせぇんだよ。さっさと匂いを殺せ! 鼻がねじ曲がるだろうが!」
「ナスタチウムに賛成だ。君がこのまま、この匂いを放出し続けるって言うなら、殺さざるを得ないね。“人で無し”」
「あららー、海魔避けで放出しておいたんだけどー、あんたたちは海魔じゃなかったってことなのかしらー。会いたくないから放出して、できることなら有効範囲からさっさと出て行ってくれないかなーこのクソ野郎どもって思っていたのにー、顔を合わせてしまったんじゃ仕方が無いなー……あー、クソ。マジで腹が立つ」
言いつつ、キャップ帽を目深に被り、露出度の高い服を着た女の人差し指が天を指す。すると頭上から大量の水の粒が降り注いで来た。雨であったなら、ナスタチウムがまず雨宿りを考える。そのためこの水は、『穢れた水』ではないことを察することができる。
「……悪臭が、消えた?」
鼻を摘まんでいた手を放してみると、先ほどまで立ち込めていた悪臭がもうどこからも漂っていない。
「悪臭とか言わないのー。香水を混ぜた匂いなんだからー」
女は誠に言いつつ、腕を下げた。
「あーあ、人形もどきがゲロ吐いちゃったよ。さすがにそっちの世話はできないなー。シモの世話なら大歓迎なのに」
「こんなときに、セクハラ発言、とか、やめてください、よ」
楓はまだ口元に気持ち悪さを残しているらしく、蹲ったまま動けない。誠も、こうして声を出すことはできているが、彼女のように動くことはできない。動けば胃が驚く速度で活動し、そして口元までなにもかもが逆流して来るだろう。そんな微妙で、曖昧な、ギリギリなところで誠は堪えているのである。
「あの、大丈夫ですか?」
差し出された手の方へと誠は顔を上げる。
艶やかな黒に、白のメッシュ。雅とはまた違った綺麗さを兼ね備えた美少女に、誠は息を呑み、そして何度も手と顔の間で視線を動かす。
「近付かない方が良いよ、葵。そいつ多分、童貞だから。手と手が触れただけで興奮すると思うしー」
女の言葉に少女がスッと手を引いた。誠を気味悪がったのではなく、女の下世話な言葉に背筋を凍らせ、それが体の動きとして表れたのだろう。
「なんだ、貴様。“人で無し”の臭いにも耐えられるのか?」
ナスタチウムが少女に訊ねる。
「まぁ、なんとか。気付いたら慣れる、みたいなところでしょうか。普段から嗅ぎ続けていると、吐くのを通り越したみたいです」
「葵にも同じ成分の芳香を染み込ませていたからねー。ほぼ体臭に近い状態で、できる限りの海魔との接触を断つ。そうしている間に、慣れちゃったんじゃないかなー。ほら、自分の体臭に人間は意外と気付きにくいからー。まーでも、さすがにずっとこんなとんでもない匂いを漂わせる子にはさせたくないから、合間合間に取り除いてあげてはいたんだけどねー」
「あの、そういうの早めに言ってくれませんか? 雅さんと会ったときに、吐かれたりしたらあたし、もう立ち直れなくなっていましたよ?」
女が「ごめんごめーん」と軽く謝る様を見つつ、誠はゆっくりと上体を動かす。吐き気はもうどこにもない。どうやら胃が落ち着いてくれたらしい。
「雅さん? 君も、雪雛 雅を知っているのかい?」
「あなたも知っているんですか?!」
少し喰い気味に少女が誠に詰め寄る。
「ま、まぁ一応」
「はい、はいはい、はーい。ここにも、雅さんを知る人がもう一人、居るんですけど」
楓がプルプルと震えながら、吐き気に耐えながら片手を上げていた。少女は誠よりも楓の容態が芳しくないと判断し、すぐさまそっちへと走って行った。
「奇しくも、全員と顔見知りなのかい、あの子……よくもまぁネジのぶっ飛んだ人とばかり出会うもんだね。僕だったらやっていられないよ」
「その自分だけネジがぶっ飛んでいないみたいな言い方はやめてよね、アガルマトフィリア」
「はっ、テメェ以上にネジのぶっ飛んだ奴がどこに居るってんだよ、リコリス」
「ちょっとー、リコリスとか呼ばないでくれなーい、この飲んだくれのクソ野郎」
ナスタチウムにもケッパーにも負けないほどの存在感、そして明らかに知り合いの対話を見て、誠はこの女――リコリスもまた、二十年前の生き残りだと判断する。
「上手くクソロリとだけ合流したかったのにー。どうやら、この音の迷宮は、出口が一つしか用意されていないみたいねー。だから出口を目指していたら否応無しに出会っちゃったって感じかなー」
「見えない壁をどうやって見極めて進んで来たのか、教えてもらいたいところだね」
ケッパーがリコリスに訊ねる。
「葵は『水使い』で『氷使い』。冷気が音の壁に触れると、どうやら力の根幹が凍るみたいなんだよね。そうすると水の波紋みたいに壁が浮き彫りになるわけ」
「冷気は音を伴わない、か。凍らせ過ぎると割れるような音が出るけど、適度な冷却ならそれも無い、ってわけかい?」
「そういうこと。波紋上に壁が見えたら、すぐに冷気は抑えてもらう。すると凍った力の根幹がすぐに溶け出してまた見えなくなっちゃうけど、そのおかげで凍らせ過ぎて、大音量を響かせずには済むんだよねー……あれ、どうしたの二人とも? まさか、く……くふふふ、あはははっ、音の壁にぶつかって音を轟かせていたのって、あんたたちなの? ちょっと待って、笑える。お腹が痛くなるくらい笑いたい」
言いながらリコリスは狂ったように笑い出す。そしてそれでは飽き足らず、地面で笑い転げてみせた。
「相変わらず、ぶん殴りてぇ女だな」
「暴力は行けないよ。こういう女とは、関わらない。これが一番さ。こうして会った時点で、それも叶わなくなっちゃったけれど」
そこでケッパーが妙案を思い付いたのか、ポンッと手を打った。
「根を張って、勘を頼って、水の流れを指標にする必要も無いなぁ、これ。ナスタチウムの人形もどきは薄っすらと音の壁を見ることができる。リコリスの人形もどきは力の根幹を凍らせることができる。そして僕の人形もどきは、その壁を砕くことができる……できるよね、人形もどき? できなきゃ、君、明日から全裸だから」
「全裸は……全裸は、勘弁願い、ます」
楓はケッパーの無茶に応えるかのように起き上がった。
「砕けるんですか?」
リコリスの少女――葵が訊ねる。
「力の根幹が見ることができれば、できると思います。というか砕きます。全裸とか嫌なんで、全力で砕きに行きます」
楓は、臨戦態勢に入ったかのように冷静な言葉を発し、精悍な顔で誠を見る。
「力の弱いところ、見抜いてください。お願いします」
そして楓は誠に頼み込む。全裸が嫌であることも加えて、いい加減にこの音の迷宮から抜け出したいという切実な願いを誠は受け取る。
「分かった。作られた出口をわざわざ目指さなくても良いってことだろう。これ以上、疲れずに済むんなら、非常にありがたい話だよ、これは」
言いながら誠は瞼を閉じた。
「薄っすらと音の壁が見えるってさー、なに? 飲んだくれの連れている子は、なーんか違うの?」
「ちっとばかし、覚悟を知って勇気を振り絞り、残酷な贈り物を得た。おかげで、少しばかりはマシになったってだけだ」
「それはそれは……なら、僕の人形もどきに勝るとも劣らない価値を、見定めさせてもらうよぉ」
瞼を開いた誠の視界には、薄っすらと音の壁が見える。
「爬虫類のような目……? これは、とんでもない子が居るもんだね」
ケッパーの言葉に動じては行けない。集中しなければ、音の壁の、力の巡っている弱い部分を見出せない。丁寧に、薄っすらとしか見えない壁の一つ一つを竜の瞳で舐めて行き、壁の一つを指差す。
「ここだ」
「りょーかい。葵、一ヶ所だけだから、力はセーブして」
「はい」
葵がスゥッと息を吸い、そして吐き出す。彼女を中心に大気が乱れ、その乱れに手を突っ込んで、彼女の人差し指に冷気が乗り、誠の指差した音の壁に音も無く、触れる。
壁が凍て付き、水の波紋のような力の巡りが視認できるようになる。
「人形もどき、君は全力だ」
「分かっていますよ。いつだって私は、全身全霊の、全力投球です」
金属の短剣を引き抜き、手でクルリと回して順手で握り、勢い良く楓が地面を蹴って、波紋の中心部にある力の根幹に金属の短剣を突き付ける。切っ先から紫電の光が迸り、音の壁の一枚がひび割れを起こして、ガラスのように崩れて行く。この崩壊音を周囲の音は反響させて轟音には変えない。変質の伝達がそこまで行き渡っていないのだろう。つまり、この音の迷宮を作り出した使い手は、目視できない音の壁を崩されるような、あり得ないことを想定していなかったということだ。
「お見事。いやー、飲んだくれとアガルマトフィリアはこの際、置いておくとして、良い感じに力の使い方を教え込んだじゃん? 葵はディルの傍に居たんだけど、でも、ディルと一緒に居たときよりも、私的にはずっと良い感じに育てたつもりだけどねー」
リコリスは言いながらキャップ帽を僅かに動かし、崩れた壁の向こう側の都市に目を向けていた。そこから垣間見えた表情は、非常に気味が悪く、そして気色が悪い。ケッパーとナスタチウムと同じものを感じた。
「……一つ、疑問なんですけど」
歩き出したナスタチウムに誠は問い掛ける。
「僕の力なら、ひょっとして突破は容易だったんじゃないですか?」
「確かに、光は音より速いな……だが、そういった独りよがりの挑戦ってのを、俺はテメェに教えたくはなかったんだよ、餓鬼」
「というと?」
「人を頼り、仲間を頼り、力を頼れ。さっきのは、テメェがディルの餓鬼やドラゴニュート以外と初めて行った協力ってやつだ。それも足りない物を補い合う方法だ。それはきっと、これからの人生において大切な糧になる」
「ナスタチウムたちが非協力的なのにですか?」
イヤミを誠は口にしてみる。
「俺たちは、二度と協力なんてことしねぇだろうな。するとしても利害関係が一致したときだけだ。頼るのも頼られるのも、命令するのもされるのも、生き続けていると疲れて来るもんだ」
ナスタチウムは頭を掻き、水筒に入れている酒を呷った。
「協力、か……」
グレアムの死を見て、ようやっと討伐者としての覚悟を身に付けた誠にとって、その言葉はとても意味深で、心に響くものがあった。
ただし、それを戦闘において確実なものにするのもまた難しいと感じている。お転婆な楓、真面目そうな葵。この二人と力を合わせる未来が、いまいち想像できないでいた。




