【-純然たる意思-】
♭
音叉を叩き、耳に近付ける。極めて純音に近いその音色に気分を昂ぶらせつつ、それらをあの人の部下に預ける。あの人の部下はそれを受け取って、逃げるように部屋を出て行った。
『準備は万全かい、“レジェ”?』
男は鳴のことを、決して苗字でも名前でも呼びはしない。ただ、出会ったときからずっと、『レジェ』と、そして『君』と呼ぶ。
本当は名前で呼ばれたい。甘く、「鳴」と囁かれたい。しかしそんな鳴の願は届かない。
何故ならば、男は二十年前にそれを落として来たからだ。大切な大切な心の欠片を落としてしまったのだ。だから、鳴には恋も愛も向けてはいない。それどころか、人とすら思ってはいないだろう。ただ必要な道具、駒、自在に動いてくれる機械。
だとしても、構わないと鳴は思う。それで、あの男の傍に居られるのなら、それが存在意義になる。そして存在証明にもなる。
「問題ありません」
呼吸を整えて、鳴は――レジェはゆっくりと瞼を閉じる。開始の合図を待つ。始まるときの、音を待つ。
『じゃぁ始めるよ。無事に生き延びると信じてはいるけれど、くれぐれも死ぬような無茶はしないでおくれ』
そんなありがたい言葉も、ただ形式的に向けられたものなのだと、レジェは最近になって知った。言葉の節々のどこにも、感情が載っていないのだ。
だから、男が時折、見せている感情の矛先を憎む。“死神”の噂や話を訊いたとき、いつもあの男は感情を表に出し、そして言葉にも感情を載せるのだ。自分には決して載せられない感情が、載る。そんな相手を殺したいほどに憎む。
「今日は、良い音を出してくれる?」
鳴は呟きつつ、鞘から短刀を引き抜く。それは、この実験及び訓練以外では決して使ってはならないと、男に言われている代物だ。刃は灰色、そして峰から平までは加工が成されており、強靭な竜の髭を結わえて作られた糸が連なっている。鳴はその日本の短刀の峰を重ねて、試しにとばかりに引くことで、糸と糸が擦れ、音を響く。
「今日も、良い音は出してくれないね」
この音色は使えない。鳴が必要とする音は限りなく純音に近い――まさに音叉が発するような音色だ。それを発しないのなら、鳴がこの場で使えるのは、自分自身の発する声、そしてこれから相手をする者たちの叫び。戦闘において生じる衝撃音。
ただ、これはいつもの手段で、特別なことではない。いつもそうして来ている。だから不安もない。むしろ、この不協和音しか奏でない短刀を扱うことすら億劫である。しかし、男が自らのために用意してくれたこの短刀を使えないことを、気取られたくは、無いのだ。
そんな鳴を一つ上の階層から、彼女の居るフロアへと突き出るように造られた研究室で、男は計器類をチェックし、パソコンの操作を行う。
「さぁ、僕に“希望”を見せてくれ」
ボソリと呟き、男はレバーを引いた。ゴゴゴゴゴッという重低音と共に、鳴の居るフロアにあった三つのシャッターが開かれて行く。
「さすがに無茶ではありませんか?」
「問題無いよ。レジェとは、異国では『法』を意味する。だから僕は彼女にそう名付けた。いずれ成る『法の番人』が、弱いわけがないんだ」
「ですが、あの子はまだ成人していません。幼さの残る少女なんですよ?」
「僕の前に現れたレジェは、討伐者として生きる道を選んだ。そんな言い訳は通用しない。それよりも、よく見ておくんだ。法はいつだって絶対であると。その目に刻み込め。そして、二度とレジェを過小に評価なんてするんじゃない」
男は研究員の一人に詰め寄り、嬉々とした表情で語り出す。
「どれほど悪が蔓延ろうと、どれだけの罪が世界を包み込もうと、法は絶対であり、そして“正義”なんだ。悪は必ず“正義”の前に破れ、罪は法の前では無力だ。“正義”を体現するこの僕、そして“法”を体現するレジェ。僕たちが居れば、この世界から悪も罪も、そして罰すらも消える。そうは思わないかい?」
赤色の瞳は研究室の照明を浴びて爛々と輝き、研究員に恐怖を与えて来る。その微笑みは柔らかく、とても澄んでいるように見えるのに、ただその、瞳の赤さだけがどす黒く、ヘドロのような感情をこの男が持っているのではないかという疑いを浮かばせる。
「君もまた、僕のこの瞳に怯える一人か。レジェは怯えなかったよ、この瞳に」
「ジギタリスさんの目が、赤いのには理由が?」
「ううん、特に理由なんてないんだ。ただ、二十年前のあれを味わってから、瞳から色素が失われて行った。結果、先天性白皮症でしか見られることがない、血管の赤が、血液の赤が瞳を満たすことになった。ストレスでそうなることなんて無いだろうから、これはきっと、変質の力がもたらす人体への影響の一つなんだろう。リコリスの人を捨てると同時に髪の端は白く染まり、ケッパーの背骨は歪み始め、ナスタチウムの皮膚の再生力は人を超越しつつある。だが、細胞分裂が多いということは、寿命が縮まるのも早いことに繋がる」
男は苛立ち混じりに近場の壁を殴る。
「“死神”はその症状を、見せない。目が潰れたのはセイレーンの奇襲だ。顔の右半分の皮膚がケロイド状になっているのは、ナスタチウムのように皮膚を変質させたは良いが、深くまで浸透させた結果だ。変質の力は同様に二十年前から体を蝕んでいるはずだ。なのに、あの“死神”は、体のどこにどのような変化が及ぼしているのか、一切、見せはしない。一体、どうしてだ。“正義”は僕にある。なのにどうして“正義”たるこの僕が、あの“死神”のように、症状に怯えずに生きることが、できないでいるんだ?」




