【-残滓-】
誰かがリコリスに化けているのだろうか。そんな予測も立てたが、雅は大声を上げることも、切り付けることもやめて、短剣を鞘に戻す。するとリコリスのような何者かは安心したらしく、次にボディランゲージで、紙とペンを持っていないかと示して来た。どうやら話すことができないらしい。
雅はウエストポーチから手帳とはまた異なる、山間の町で使い切れなかったメモ帳を取り出して、そこにペンを添えてリコリスらしき者に手渡す。
それを持って、彼女が歩き出したので雅は静かに付いて行く。人気の少ないオープンスペース――ホテル側が提供している場としては、奥にありすぎて人目に付かない、そして誰も使おうとしない、建設後に発覚したであろうそこは、ホテル側の荷物で一杯だった。ひょっとすると『関係者以外立ち入り禁止』の立札に気付けなかったのかも知れない。
リコリスらしき人物は、そこに座り込み、床でメモ帳にペンを走らせる。
『この子は私の残滓。要するに各地の街、町、都市に置いている探知機の一つ。残念なのは視覚が無いことと、話すことができないこと。分かるかな、クソロリ』
自身を「クソロリ」と呼ぶ人はリコリスしか居ない。誰かが化けていたのだとしても、そんな言い回しまでは知ることができないだろう。だからこの時点で、雅はメモに書かれていたことを完全に信じた。
「なら、私は喋った方が良いってこと、ですか?」
『その通り。聴覚は辛うじてあるからねー。あなたの声が聞こえたから、後ろからセクハラしてみたけど、触覚が無いのがざんねーん』
メモ帳であっても口調そのものを崩さないリコリスには、どう考えても常識が無い。ディルやケッパーであったなら、筆談では少しばかり言葉遣いが大人しくなる。筆談に言葉遣いや口調といったものを持ち出している雅も雅であるが。
「リコリスさんは、今、どこに?」
『あなたのすぐ近く。ずっとずっと近くに来ているんだよ。理由は分かる?』
「……海竜」
『その通り。海竜が捕獲されたなんて、それであのクソ男が黙っているわけがない。山間の町であのクソ男が死んでいないなら、きっと『下層部』に喧嘩を売りに行くでしょー?』
「は、い。というか、そこで起きたことも知っているんですね」
『だから、私は情報収集が得意中の得意なの。訪れたところには、一応、こんな風に残滓を置いて監視する。三年間、あの戦艦前から動けなかったけど、それより前には結構、色んなところを回っていたからねー』
「……ディルは、生きていると、思いますか?」
『思わなきゃやってられないでしょー。あのクソ男はそう簡単に死なないよー』
リコリスの残滓は、目深に被られたキャップ帽を僅かに動かし、頬を緩ませて雅に安心であることを伝えようとして来る。
「『下層部』はダムの近くにある施設、なんですよね? そこに行こうと思うんですけど、合流できますか?」
『んー、それがちょっと時間掛かりそう』
「葵さんが、嫌がっている、とか……私に、会いたくない、とか?」
不安げに訊ねると、素早くリコリスの残滓がペンを動かす。
『それは無い。一番会いたがっているのは葵だから』
雅はその文字を見て、目が潤んでしまった。まだ、葵とは繋がっている。それが、とてつもなく嬉しかった。
「じゃぁ、合流できない理由は?」
『一つ、その都市を中心にして、音の迷宮が展開されている』
「音の迷宮?」
『空気に干渉して、音の壁が出来ているんだよー。弱ったことに、触れたら触れた音を何十倍にも大きくして跳ね返して来る。これのせいで、碌に近付けないし、壁にぶつかることもできない。私たちは慎重に動かなきゃ鼓膜を破って病院行きになっちゃうねー。まー私は、強引に突破しても良いんだけど、葵がその場合、大変だからさー』
リコリスの残滓は不敵に笑う。そう、この笑い方こそが、リコリス特有のものだ。ネジの外れた、壊れた性格の人物だけが見せる、狂気と正気の境界線ギリギリの表情こそが、リコリスであるのだと、雅に信じさせてくれる。
『まー時間は掛かるけど、突破できないわけじゃないから安心してー。まー、音を変質させて空気に滞留させて壁にするなんて、間違いなく“異端者”の『使い手』だから、注意しなきゃならない。これが一つ目の理由ねー』
「はい」
『二つ目、『下層部』は警備が厳重。五芒星のように施設が建てられ、中央に通路で繋がっている。一人で行けば間違いなく拘束される。それに中も複雑になっている。それに、何者かの侵入があると、“怖いモノ”が出て来る。元は水族館のような、水と科学の研究所だったんだけど、それも今や昔、ってねー』
「通路が中央に繋がっているということは、中央部分が一番大切な施設ってこと、ですね?」
雅は生唾を飲み込みつつ、訊ねる。
『勘が鋭いねー、クソロリ。でも、そんなの絶対に駄目よ。“怖いモノ”が現れる。それに、そんなのは『正義漢』が黙っちゃいない。必ず、なにかしらの手を打って、侵入なんてさせてくれないわ』
ダムの近くにある施設としか知らなかった雅にとって、五芒星を模した施設という情報は非常に有益になった。形の分からない施設を探すよりも、形の分かった施設を探し当てる方が簡単である。
『絶対、一人で行っちゃ駄目よ。私たちが合流するのを待ちなさい。この程度の音の迷宮は簡単に抜け出てみせるから。死に急いだら、あのクソ男も怒るわよ、クソロリ?』
「……分かりました」
一人では心許ないと思っていた。なによりリコリスの残滓は一向に“怖いモノ”の正体を明かしてはくれないのだ。それがリコリスなりの気遣いであるのだとすれば、その“怖いモノ”は警備員やそういった、人間的なものではないのだということを察することができてしまう。
『それと、クソロリ? あなた、アガルマトフィリアと飲んだくれに出会った?』
アガルマトフィリア――偶像性愛。人形に性的嗜好を向ける人の通称。それは間違いなく、ケッパーのことだろう。そして飲んだくれは、ナスタチウムに違いない。
「はい。お世話になりました。というか、残滓を置いているリコリスさんにはお見通しなんじゃないんですか?」
『へぇ、分かってんじゃん。はー、でも、アガルマトフィリアと飲んだくれも、この音の迷宮に入り込んじゃっている感じなのよねー。こうなっちゃうと、否応無しにどこかで遭遇することになりそう。ああ、吐きそう。糞の臭いでも嗅がせて気絶させている内に出口を探すことができたら良いけど』
「そんなこと、許しませんから。ケッパーには楓ちゃんが居ます。ナスタチウムにも、チキンが居ますけどそれは別に良い……いや、良くないです。楓ちゃんや、チキンに、そんな酷いことをしたら、私は言い付けを守れません」
『このリコリスに、そういう賭けを持ち掛けて来るんだ?』
「ディルの、クソガキですから」
雅がそう言い切ってみせると、リコリスの残滓は満足したように奇妙な笑みを浮かべ、そして最後にメモ帳に文字を書いて行くと、水と化して、そのまま絨毯に染み込んで、消えてしまった。
『強くなったね、クソロリ』
メモにはそう書き残されていた。
「次に会ったら、痴漢めいたことはしないでって言わないと」
あんなことを唐突に、それも後ろからされてしまえば、悲鳴を上げてしまう。あれをコミュニケーションだとリコリスが呼んだとしても、雅は認めない。
やや水気を帯びたメモ帳とペンを回収して、雅はランドリーエリアに戻る。乾燥機は思ったよりも早く仕事を終えていたらしく、雅は熱を帯びた衣服と下着等をバスタオルに包んで、部屋まで戻った。
ベッドに倒れ込み、いずれ至るだろう激闘の時をただ待つのも、落ち着かない。しかし、かと言って練習相手も居ない稽古は気が引き締まらない上に、そんなことで怪我でもしたら、肝心なタイミングで『下層部』に行く機会を逃してしまうかも知れない。
「海魔を狩るために討伐者になったのに……なんで人と争うような、こんなことに」
間違っている、と思いつつも、雅は海竜――リィのために戦うことしか想像できなかった。




