【-価値観の相違-】
「私は海魔を殺さなきゃならないと思っている。でもそれが、人を殺している感覚と似ているなんて思ったことは一度も無い。だってそれは、違うから」
違う。全然違う。
不本意ながらに、殺してしまったときのことと海魔を討伐したときのことを比べてみても、明らかに違う。
命を刈り取るという意味では同意ではあっても、そこには大きな隔たりがある。人であるか異形であるかの差だ。
「それは、道徳的な言葉。優等生が優等生らしく振る舞うときに、“正義”を振りかざすときに口にするもの。私たちの根底にはもっと、別の概念があります」
敬語が僅かに混じる。葵も査定所で働いていたからか、雅に敬語を遣っていた。それにつられて、雅も葵にだけは敬語を用いてしまっていた。
だから、鳴には敬わなければならない相手が居るからに違いない。
「別の概念?」
「人を殺してなにが悪いんですか? 罪を犯してなにが悪いんですか? 心のどこかで思ったことはありませんか? 軽い罪、重い罪に関わらず……罪を犯した人を、“羨ましい”と思ったことは」
……この子は危ない。
自身の中にある危険信号のランプが点灯している。感覚の相違という言葉では片付けられないほどに、危ない方向に偏っている。
「けれどそれを危ないと思うことを私は間違いだと思うんです」
サイコロステーキを食べながら、鳴は続ける。
「だって、人は産まれたときから罪を背負っているんですから。アダムとイヴがエデンの園から追放されたそのときから、ずっとずっとずっと、産まれて来る人間は全員が、そのアダムとイヴの犯した罪を償うために生きて、いるんですから」
「聖典の話を持ち出されたって私は、納得しないよ」
なにやら一人で話を完結させようとしている鳴に対して、雅は断言する。
「産まれたときから罪を背負っている。だから罪を犯して良い? そんな等式はあり得ない。罪を償うために生きている? 違う。私たちは生きたいから生きている。罪なんてものを、産まれたときから背負っているつもりなんて毛頭無い。人を殺して良いことには繋がらない。なにより、それを理由に人を傷付けることを私は、許さない。過ちを犯した人を羨ましいと思ったことなんて一度も無い。私は常々に思うよ? 『捕まって当然だ。ざまぁみろ』って」
そして、こんな世界だからこそ、罪を犯した者には相応の罰が下る。それが人の手に限らず、海魔によって行われることもあるのは、なんとも言い難いことではあるが。
でも、その理論だと楓ちゃんにも相応の罰が下るってことになっちゃうんだよなぁ。
ケッパーに言われていたとはいえ、楓は強盗をしていた。海魔狩りも並行していたようだが、人を殺さずに金銭と水を強奪していた。それに相応しい罰が、彼女にはいずれ訪れるということになってしまう。
雅は首を小さく横に振る。自身の振りかざしているものは“正義”ではなく『偽善』である。罪や罰を言葉として並べ立てたところで、どれもこれもに心は込められてはいない。しかし、決して、鳴の考えに迎合するわけではない。楓のやったことは確かに罪ではあるが、その罪を彼女は理解し、そして跳ね除けるだけの溌剌さ、快活さ、能天気さを兼ね備えている。ケッパーやディルの言うところの“麒麟児”が、自身の罪深さを思い知り、苦悩し、跳ね除けていないわけがないのだ。
凡人の雅がずっと人殺しを引きずっているように、天才の楓だって、同じく悩む。悩んだ果ての答えが、同じものだったからこそ、二人はリザードマンを討伐できるほどに意気投合することができたのだ。
「根本的に、根幹的に、私とあなたは違うみたい」
鳴は皿に盛った料理を平らげて、トレイを持ちつつ立ち上がった。
「どうするの? あなたはその、意味も無い道徳心を振りかざして、『下層部』が捕まえている海竜を、助けるとでも言うの?」
「その言い方だと、鳴は『下層部』側の人間なんだね」
もう見抜いていることだが、確認のために一応、訊いておく。
「そう。そして、あなたや、あなたと似たような愚かな行為に及ぶだろう討伐者を、排除しろと、ジギタリスに言われている」
ディル、リコリス、ケッパー、ナスタチウムはハーブの名前だ。しかし、ジギタリスは強心薬として知られているが、その実は毒草である。その毒草の名称を、鳴の慕う相手は名乗っている。それだけで、他の四人とは明確に違う“なにか”があるのだと、分かってしまう。
「今、ここで?」
「ここじゃない。だって、それはとても、面白くないから」
鳴はにへら、と嗤って続ける。
「みんな、まとめて始末する。それが私の使命、なんです。相手があなただけなんて、そんなのはジギタリスが認めてくれませんから」
狂信的に慕っている。
それは、雅も楓もチキンですらも、持っていなかった。恐らく、リコリスと行動を共にしている葵ですら、持っていないはずだ。
雅はディルに反抗し、楓はケッパーを毛嫌いし、チキンはナスタチウムに反発していた。それは真っ当な精神とぶっ飛んだ精神が相容れないからだ。ネジが外れた人たちの物言い全てを鵜呑みにはできない。
なのに、鳴はなにもかもを呑んでいる。崇拝している。雅には、表情を崩して嗤う彼女を見て、そう感じることしかできなかった。
「私、人は殺さないよ?」
「構いません。私が殺しますから」
「……それは、無理だよ。私、死なないから」
牽制し合い、昂ぶる感情を抑えながら、雅は残っている料理に箸を伸ばす。鳴はそれを見て鼻で笑う。
「ねぇ、鳴? 本当のあなたはどっちなのかな?」
雅は負けじと攻勢に出る。
「ハキハキと、言葉の一つ一つを大切にする鳴。そして、敬語を用いて流暢に物事を客観的に語る鳴。本当のあなたは、どっち?」
このとき、雅には鳴に初めて感情というものが顔に表れたような気がした。にへら、と嗤ってはいたが、それは彼女自身が能動的に見せた顔になる。しかし、この驚きに満ちた顔は雅の言葉によって受動的に、表れたものだ。
鳴は俯いて、なにかボソッと言葉を零したが、雅の耳には届かない。なにを言ったのか訊く前に、鳴はその場を立ち去ってしまった。
大きく息を吐く。同い年であるのに、鳴が放つ威圧感にたじろいでしまうところだった。
死なない。
殺さない。
そして、リィも助け出す。
この三つこそ最低限、雅が果たさなければならない事柄である。一人でこなせることとは到底思えないが、やらなければならない。
『下層部』に捕らえられているリィがなにより重要だ。なにせ、リィの居る場所には必ずディルが来る。
生きているかどうかも分からない。ひょっとすると死んでいるかも知れない。そんな男をそれでも期待してしまう。
「死んでいるのに死んだことを認めていない、みたいな……一種の精神病だよね、これ。それかもしくは……それは、考えたくないや」
恋。
そんな言葉を、ディルに向けるのはどうにも気恥ずかしかった。
頬も耳朶も、自然と赤くなり、ボーっとしていたが、しばらくして我に返る。それから急いで皿とお椀に残っていた料理とご飯を口へと運び、完食した。荷物を身に付けて、トレイに載った皿とお椀を指定の場所に返却し、デザートとして楽しみにしていたケーキをその場で、味わいつつも素早く食べ、更にリンゴを手にしてレストランをあとにした。
こうなってしまってはジッとはしていられない。もっと自分自身を高めなければならない。だから、食事後のデザートにまで舌鼓を打ってはいられなかった。実に、未練タラタラである。
リンゴを齧りつつ、ランドリーエリアに行き、止まっている洗濯機の鍵を外して、中から洗濯物を取り出して、一緒に洗濯したバスタオルで包む。齧っていたリンゴをここで食べ終えて、残った芯を近くのゴミ箱に捨てる。濡れて重くなった洗濯物を両手で抱えて、今度は乾燥機に掛ける。これにも時間が掛かりそうなので、同じく鍵を掛けてランドリーエリアを出る。
「ひゃっ!?」
廊下に出て、乾燥機が止まるまでどこかで時間でも潰そうかと思っていた雅の背中に、何者かが張り付いて、胸を撫で回す。痴漢に違いないと、その腕を振り払いつつ短剣を抜き、半回転しながら問答無用で切り付けようとした、その寸でのところで雅の手が止まる。
「リコリス、さん……?」
目深に被られたキャップ帽、金髪に白のメッシュ。その容姿は、数ヶ月前に出会った“疫病神”を彷彿とさせる。しかし、彼女特有の、ケラケラとした笑い声は出て来ない。代わりに人差し指を口元に当てて「静かに」と声にならない指示を示して来た。




