【-雅はマゾヒスト?-】
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「準備万端、かな」
とは言いつつも、予定よりも準備が遅くなってしまった。集合時間にはまだ余裕はあるものの、集合場所に遅れてしまったらそれだけで迷惑が掛かる。
これだけの表現であれば、まるで遠足や旅行に行くようだが、実際には楽しみも喜びもそこには無い。
ウエストポーチを着け、海魔討伐専用の手袋を嵌めて、できる限り肌を露出しない格好を選び、自室を出た。
「二人揃って、だっせぇ格好だな」
家を出ようとする雅と葵をディルが貶す。
「あなたがこっちの方が安全だって言ったんでしょ」
「まぁ、腐った水を浴びせられて死ぬ確率は減ったな。レイクハンターは前にも言ったが、カメレオンのように擬態して、遠距離から攻撃を仕掛けて来る。ヘッドショットに気を付けろよ」
欠伸をし、まだ寝たりないといった具合だった。その顔に一発、お見舞いしたいところだが、これだけ隙だらけであってもディルを殴れた試しが無いので、作り上げた拳をスッと降ろした。
「あたしたちが生きて戻って来られたら、ちょっとはご褒美をくれますか?」
「ああ、くれてやるとも。死ぬとしか思えないがな」
「……言いましたね? 女性のご褒美がどれほどの額になるか、覚悟しておいてください」
葵はニヤリと不敵な笑みを浮かべて、雅より先に集合場所に向かって歩き出した。
「あのウスノロ……くだらねぇことに金を使わせる気だな……マジで死ね、と信じたこともねぇ神様に懇願してみるか」
「あんまり不遜なことを言わないで」
「……注意すんのはテメェも同じだぞ、クソガキ」
「レイクハンターの遠距離射撃のことでしょ?」
「それだけじゃねぇ。フィッシャーマンはともかく、ストリッパーは人に擬態していたな? それも八割近くも擬態していた。ついでにレイクハンターも形は違うが景色に溶け込むように擬態する。この町は前々から、こうも“擬態”に拘りを持つ海魔ばかりだったか? 二等級海魔討伐の一覧表を眺めても、どれもこれもやたら“擬態”の習性を持つ海魔ばかりだ。ここまで偏るは、どうもおかしい」
「私にはその偏りがそもそも分からないんですけど」
「どんな海魔であれ、一つの箇所に似たような拘りを持った海魔が居るのはおかしいんだよ。海魔にもテリトリーがある。似た種は排除しようとする。ところが、俺があのゴミ箱に放り込んだ討伐依頼の書類の諸々を改めて記憶した程度で思い出してみれば、ここには“擬態”に拘る種が多すぎる。そしてそのどいつも、互いのテリトリーに踏み込まない絶妙な行動範囲の元で活動しているんだよ。討伐者によってどれくらい減ったかは分からないが、遭遇場所や移動経路、活動時刻が噛み合わないようになっていた。だからストリッパーも八割も擬態した状態で動けていたんだろう。普通は似た種の妨害に遭って、不可能だ」
ディルの記憶力に脱帽するあまりどのような言葉を発して良いのかしばし悩んだ。
「それは、えっと、つまり」
唾を呑み込んで、不安そうに雅はディルの言いたいことを代わりに告げる。
「何者かがペットみたいに海魔を動かしている?」
「ペットみたいに、とは言い過ぎだが、故意に海魔の手助けをしている節がある。このレイクハンターも、上手く活動範囲を調節されて人間を狩っている。こいつもどうも怪しい」
「だからリィに心臓を奪わせようとしているの? 何者かが海魔のテリトリーを操作しているなら、なにかしらの動揺を見せると考えて」
合点が行ったとばかりに雅はポンッと手を叩いた。
「え、でもなんでそんな話を私にするわけ? そんなの、喋ったことなかったじゃん」
半ば詰問気味に訊ねると、ディルは心底、面倒臭いといった風な顔と態度を取る。
「誰か一人でも知っておかねぇと、リィが心臓を抜き取ったあとの罵詈雑言を浴びながら耐える役がいねぇだろうが」
「……え、だから話したの?」
「テメェはどれだけ罵っても挫けないどころか、それを快感と捉えるマゾヒストらしいからな」
「なんでそういう風になってんの!?」
顔を真っ赤にして、雅は抗議する。それに対して、「やっぱりか」と視線を逸らしながらディルは続ける。
「レイクハンター討伐時、或いは討伐後に思ったことがあったなら俺に報告しろ」
そうは言いつつも「もっとも、そんな猶予を与えて来るかは別だが」と呟いたのを雅は聞き逃さなかった。
「分かった、そうする」
「急に素直になったな。気味が悪い」
「場数を踏んでいるディルが怪しいと思うんなら、場数を踏んでいない私でも、もしかしてとは思うじゃん。行こっ、リィ」
ディルの黒い外套を掴んで離さなかったリィに声を掛け、手を伸ばす。渋々と言った感じでリィはその手を取った。
「言ってはおくが」
元々、野太かったディルの声色が一気に低くなる。
「リィになにかあったら、俺はテメェも、あっちのウスノロも許さねぇからな。あとは…………まぁ、良い。そうなってから、言ってやる」
ディルはまだ言いたいことがあったらしいが、これ以上、話し込むと葵との距離も開く上に集合時間にも間に合わなくなってしまう。そういった、僅かばかりの気遣いによって雅は解放され、リィと共に葵に追い付くため足早に歩を進めた。
「珍しい」
「なにが?」
「ディルが他の人に、考えていることを伝えるなんて」
「……そうなの?」
「滅多に無い。それも、お姉ちゃんだけに」
うわ言のように「珍しい」と続けるリィの横で、雅もまた心境の変化でもあったのかと考え込む。あの男が自分を信用してくれている可能性はまず除外する。疑心暗鬼に溺れて、汚泥に塗れたヘドロのような目は、もうきっと誰も信じないことをヒシヒシと伝えて来ていた。
だから、あの男は私を利用するつもりなんだ。
疑念に思っていることを解決するために用いる道具。どうやら、そういう認識でもって、自分に動いてもらいたいのだろう。散々、人のことを人とも思わないようなことをされて来たが、遂に物扱いにまで達したらしい。
だが、それはそれで良いと雅は結論付ける。物扱いされているのなら、その道具らしい立ち振る舞いを見せてディルの鼻を明かしてしまえば良いのだ。
逆転の発想、又は開き直りにも近い思考で、雅は気楽に乗り切ることを決めた。
「ディルさんとなにか話し込んでいたんですか?」
そうこうしている内に葵に追い付き、普段と表情の異なる雅を見て、なにやら感じ取ったものがあったらしく、彼女は首を傾げつつ訊ねて来た。
「特になにも。さっさと死ねと言われただけ」
「……雅さん? こう言うのもなんなんですけど、『さっさと死ね』と言われて、そう気楽そうな顔をされていらっしゃると、その、なんと言いますか、マゾヒスト? にしかあたしには思えなくなるのですが」
「違う! 違うから!」
それほどまで顔に出ていたらしい。決して物扱いされていることが嬉しい、喜ばしいわけではないのに、表情が綻んでいる。確かにこれではマゾヒストと思われても仕方が無い。
「私! どっちかって言うと、サディストだから!」
「サディストと仰る方の中にはマゾヒストである場合もありまして、公では痛め付けることが大好きと語りながら、気心の知れた相手の前では途端、痛め付けられることに快感を得る、みたいな方っていらっしゃいますよね……」
どこか葵の目は雅ではなく遠くを見ているように思えた。
「SとかMとか、そういう話はしたくない!」
自分が痛め付けられるのが好きなわけがない。罵詈雑言を浴びせられて喜べるわけがない。むしろ怒りを蓄える方だ。いつか仕返ししてやると願ってやまない方だ。何故だか分からないが雅はそう自分に言い聞かせていた。
「お姉ちゃんがサディストだったら、ディルはもっとサディスト?」
リィにこの手の話をするべきではないと雅と葵は互いに目配せして確認し合い、適当な話でその後は誤魔化した。




