【-問答無用-】
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「ちっ、想定外にも程があるな、これは」
ナスタチウムは忌々しそうに辺り一帯を眺めている。景色は一切変わっていない。真っ直ぐ進めば、そこに雅が入った街に到達できる。
そのはずなのだが、不可視の壁に拒絶されて、まともに前に進むことができない。
「あ、そこ行き止まりですよ」
「餓鬼は見えてんのか?」
「僕自身の、ではなく、竜眼のおかげだと思います。薄っすらとですけど、膜のような壁が見えます。見えるってだけで、どこをどう進めば、あの街に到達できるのかさっぱりわかりませんが」
手を当ててみると、当てたところから膜が波紋のように揺れ、そして手を当てた際に発せられた音を、何十倍にも高めた音が耳を劈く。
「触ってんじゃねぇぞ、餓鬼が! 学習してねぇのか!?」
「再確認しただけですよ」
ナスタチウムは不可視の壁を、触れる前から見抜いていた。曰く「景色が揺らめいて見える」らしく、それをぶち破るために岩の拳を叩き付けた。
そのときの爆音のせいで、まだ耳鳴りがしている。そして、誠のようにできる限り音を出さないように、不可視の壁に触れても、爆音とまでは行かないが非常に不愉快なレベルでの音が発せられるのだ。
「フィッシャーマンとやり合っている最中に合流すべきだったな、これは」
「あの女の子、どうにも怪しかったですからね。海魔を討伐している最中に、このよく分からない壁を展開したんだとしたら、あの女の子は相当の手練れですよ」
「弱腰で逃げ腰な餓鬼が、よくもまぁ海魔と戦っている様を目を逸らさずに見届けられたもんだな」
イヤミを言われるが、本当のことなので誠は言い返すことができない。フィッシャーマンが現れた際には思わず悲鳴を上げそうになった。そしてその後、目を離すことができなかったのは雅の戦い方が以前にも増して高められていたからだ。目を逸らすことさえできないくらいに、軽やかで華麗だった。見惚れていたからこそ、視線を逸らさずに済んだとも言える。
「目を逸らせなくても、こうして相手の術中にハマっている以上、どうしようもありませんよ」
「違いねぇ」
ナスタチウムは豪快に笑うが、誠は「豪快に笑っている場合かよ」と心の中で呟きつつ、大きな溜め息をついた。
「当たらずに、通り抜けるのは至難の業ですよ? 僕でさえ、薄っすらとしか見えなくて、ナスタチウムには景色が揺れて見える程度なんですから」
「そして、膜にぶつかれば、音が何十倍にもなって響くってか」
言うなれば、音の迷宮である。不可視の壁は恐らく、全てが音に反応するように変質が加えられた空気だ。音を固めるという観念は理解の範疇を越えているが、音が空気を震撼させることで発せられるものだという観点から推測すれば、空気が音に敏感になるように変質させて、滞留させているのだという仮定ができる。雅が変質させた空気は、本人は未だよく分かっていないのだろうが、変質させたとはいえ流動的な空気を留め置くことができている。この音の迷宮もまた、然りである。だとすれば、雅と同じか、或いは雅の力によく似た使い手の力の可能性が高い。
「アジュールに一つ前の街で留まっておいてもらって正解でしたね。なんでも焼き払おうとして、その音が何十倍にも高められていたら、鼓膜が破れて三半規管がぶち壊されていたかも知れませんし」
「クソなくらいに厄介だな。飛び越えれば良いってもんでもなさそうってのがよけいに厄介だ」
「どこまで変質が行われているか定かじゃない以上、無理して飛び越えようとして体を膜にぶつけて、それで大音量を浴びせられたらもう、最悪ですよ」
誠は前後左右、そして上下も見渡しながら、膜の位置をなんとなく把握しながら少しずつ、音を立てないように歩を進める。
「そっちに行くと、街から離れることになるんだがなぁ」
「けれど、街までの道路は膜でガッチガチで固められていて、こっちの道に入ってもやっぱり膜があって、一筋縄じゃ行かなそうですけど」
少し道を逸れたところで、薄っすらと見える膜が無くならない。音の迷宮という喩えは、正しいらしい。既に誠もナスタチウムも、のっぴきならないところまで入り込んでしまい、戻ろうにも戻れず、進もうにも遅々としてしか進むことができない状況に陥っている。
「風の流れる方向で……あぁ、面倒臭ぇ。酒が足りなくて頭が回らねぇなぁ」
普通は逆だろ、と心の中でツッコミを入れつつ、誠が歩を進める。
「止まれ、餓鬼。なにか、クソ面倒臭いことが起こりそうだ」
「へ?」
誠がナスタチウムに制止するように呼び掛けられて、足を止めた直後、もう一歩ほど体を前に進めていたら、恐らく至っていたであろう箇所の地面に鉄の矢が突き刺さっていた。
「見つけたぁあああ! この迷宮を作った主ですね!?」
叫びながら少女が誠に向かって突き進んで来る。それも足元に突き立っていたはずの鉄の矢は鉄の糸によって引き抜かれて少女の手元に戻り、金属の短剣に形を変えた。
問答無用。
そう察した誠が光を束ねて、左手で光の盾を展開させる。
「は?」
猪突猛進。その四文字熟語の如く突き進んでいた少女が化け物染みた足運びで、左右に姿をブレさせる。それだけではなく、光の盾を確認した少女は曲芸の如き跳躍力で誠の後方まで回ってしまう。
「どこの誰かは存じませんが!」
短剣を両手で携えながら、少女が翻る。
「ちょっ!?」
翻った最中に短いスカートが風を受けてなびき、下着が丸見えになった。それに動揺している誠に少女は明らかな殺気を放ちながら誠の腹部に短剣を突き立てようとしている。
たかが下着だ。それ以上が見えたわけじゃない。
よく分からない理屈で自身の動揺を殺し、誠が光の盾をそのまま全身に展開させる。陽光を媒介にした光の鎧は斬撃に強い。少女の刺突では決して貫くことはできないだろう。
だが、誠の本能が受けることを良しとしない。ただの突貫ではない。そう訴えている。だから誠は受ける直前で、身を捻らせて、少女の突撃を避け切り、距離を置く。
「なんなんだ、君は」
「名乗るほどの者でもありませんので」
「遣い方が違う」
呟きつつ、軽快な動きで誠を攪乱しつつ、どうにか短剣を突き立てて来ようとする――いや、当てて来ようとする少女に、遅れを取るわけには行かない。こんなところで負かされていたら、ナスタチウムに笑われてしまう。
「本気で行くけど、襲って来たことを後悔しないでくれよ」
陽光の剣を作り上げ、誠は天に切っ先を向けたのち、右下へと振って剣礼を終える。
「本気でも私の勢いを止めることはできませんよ。お命頂戴致します」
だから遣い方が違うだろと思いながら誠が前進を開始する。
「待て、餓鬼」
「殺さないようにはしますよ」
「待ちなよ、人形もどき」
「分かってますよ。電流を浴びせて気絶させるだけにします」
「ちげぇっつってんだろ、餓鬼!」
「ちょっと人の話を聞いてくれないかな、人形もどき!」
ナスタチウムと、少女の背後に見えた男が同時に苛立ち、膜を叩いた。その場に居た四人全員が爆音に鼓膜を揺らし、全身が痺れ、脳が震える。誠はその場に膝を折り、少女は地面に突っ伏して動かなくなっている。ナスタチウムは何事も無かったかのように誠の横まで歩き、そして少女の後ろに居た男も何事も無かったかのように歩いて、少女の傍まで歩いた。
「相変わらず、ぶん殴りてぇ顔をしてんなぁ……ケッパー」
「酒に溺れた臆病者が威勢の良いことを言っても、聞こえないんだなぁ……なに、ナスタチウム? 邪魔だからさっさと退いてくれない?」
猫背で両目に隈を作り、両腕をブランと垂らしている、不審者然としている男の物言いが、ナスタチウムを知っていること前提の代物だったため、誠は顔を上げて様子を窺う。




