【プロローグ 02】
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「んー、そろそろ、ダム近くの街に着くはずなんだけどなぁ」
雅は独り言を零しつつ、地面に広げた地図を眺めながら草陰で下着を履き替え、付け替える。
「縮尺、のせい? それとも道を間違った? ううん、そんな古典的な方向音痴じゃないし。方位磁石の通りに進んでいるんだから、間違うわけないはず。うん、もうすぐ着くはず。非常食も小瓶も、もう一食分しかないけど、水筒の水はまだたくさんある。最低でも三日は歩いて行ける。問題無し」
そう結論付けつつ、白を基調にし、水色のラインが入った上下で揃えた服とズボンを着て、頬を軽く叩く。
ナスタチウムに言われた通り、街は二つ越えた。あとはその先にある目的の街に辿り着くだけだ。しかし、その道のりが思ったよりも長い。一つ目は三日で到達し、二つ目はそこから二日で到達した。けれど、目的の街は四日経った今でも、まだ見えて来ない。地図を改めて見てみれば、その距離には歴然とした差があるわけだが、縮尺によって、それほど差が無いように見えてしまう。
決して、自身が地図を見る能力に疎いということは認めず、雅は黒を基調とした服と、先ほどまで身に着けていた下着をワンショルダーバッグに詰め込み、襷掛けで背負う。続いて非常食と小瓶の数がやはりもう一食分しか無いことを再確認し、これにはガクッと項垂れつつ、それらを詰め込んでいるウエストポーチを腰に装着した。そして大切な腕時計を身に付け、鞘に入った二本の短剣を左右に一本ずつ差す。
「よっし、今日は絶対に辿り着いてやるんだから」
そう意気込みつつ、雅は地図を拾い上げて、草陰から道路に出る。着替えを草陰で行ったのは、こんな道路のど真ん中で全裸になれるほど肝が据わっていないのと、そのような露出癖は持ち合わせていないからだ。雨が降ったのも一昨日だったので――これに伴って、移動距離がその日だけは激減してしまったことも、時間の掛かっている要因の一つにもなっているのだが、とにかく草木が『穢れた水』で湿っていないことは入念に調べてから着替えに移ったので人体になんらかの痛みや影響が出ているということはない。
靴は四日前に立ち寄った街で新調した。目的の街に到着するまでの間に靴底が擦り減って、駄目になってしまうようなことも避けられるだろう。
あとは海魔との遭遇に気を張らなければならない。なにせ一人旅であるから、夜もまともに眠れてはいない。山間の街を出る前に火種となるライターを持ち物の中に加えたが、これのせいで立ち寄った二つの街では未成年でありながら煙草を吸っているのではと疑いを掛けられて、査定所で一時、動けなくなってしまったことがある。しかし、夜に火起こしをして、その火を絶やさないように起きては眠り、眠っては起きてを繰り返すためにもライターは必須だったので、そして潔白であることも証明できたので、その程度の拘束時間はさほど苦痛では無かった。
眠っては起きて、起きては眠っての一人による火の当番も、ディルが贈ってくれた腕時計のアラーム機能を上手く使うことで寝ぼけつつも、火を消すことなく勤め上げることができた。
しかし、やはりディルと一緒だった頃に比べれば、自身に掛かる負担が大きすぎてやっていられない。
出費が激しくなって来たのもここのところの悩みの種である。選定の街からの撤退戦では心臓の回収もままならなかったため、報酬無し。
がめつく、強欲に、業突く張りにもっと生きなければならない。少女一人での旅というだけで舐められるだけでなく、査定所でも軽くあしらわれることが多い。一つ前の街に到着するまでには三等級海魔を二匹ほど倒したが、それの査定も低く見積もられた。強く抗議し、果てには短剣を抜かんばかりの威圧感を放出したところでようやく査定所の『水使い』は折れてくれたが、ああでもしなければ舐められた態度で見られてしまうのは耐えられない。
人を脅すことも得意ではない。そして、本当に短剣を振るって相手を傷付けることもないのだが、黒白の短剣を脅しの道具として用いることにも後ろめたさを感じてしまう。
プラスマイナスの収支は選定の街から出れば、僅かにプラス。けれどそれも雀の涙ほどのプラスである。だからといって、一人では限界がある。三等級は安定して狩り切れるようになって来たが、二等級に関しては手を出せない。海魔と遭遇した際には、直感的に狩れるかどうかを判断する。
だが、二等級や一等級、そして特級の海魔はそれぞれのテリトリーを有している。三等級や四等級、そして五等級ともなれば、そのテリトリーから追い出される。そして追い出された等級の海魔の中で、更に縄張り争いが行われ、最終的に人目に付きやすい場所に現れるのは等級の低い海魔となる。五等級は勿論のこと、最高でも三等級である。ディルと初めて会った頃には三等級すらまともに一人で狩ることもできていなかったが、今は一対一なら、ほぼ勝てる。それもこれもディルの教えと、黒白の短剣の賜物である。ナスタチウムに会ったときには鈍った体を叩き直してくれた。おかげで、余裕ではないが命の危機に瀕するような瞬間に遭遇する率も下がった。
「それはそれで駄目なんだけどね……いつも気を引き締めて掛からないと。でないと、突飛な行動を取る海魔を見つけたときに反応し切れないから」
自戒とばかりに独り言を零す。
そうやって、突っ立っていても仕方が無い。地図を片手で持てる程度まで折り畳み、自身の居る位置に大体の目星を付けつつ進むべき方角にアタリを付ける。荒れてしまっている道路を歩き、移り変わる景色をそれなりに楽しみながら、時折、立ち止まって地図と周辺の景色を交互に見やる。辛うじて残っている標識に書かれていた住所で現在地を確実なものとし、方角もしっかりと合っていることが分かり、それだけで胸を撫で下ろす。
こうして、標識や電柱の成れの果てに目を向けることも多くなった。住所が書かれていることが多いので、地図を片手に歩く場合はとても役立つ。自身が方向音痴であるなどという気持ちは毛頭無いが、確実な情報があった方が目的地が決まっている旅では頼りになる。
「おい、人様にぶつかっといて、謝罪の言葉もねぇのかよ?」
こんな道中で人と出会えるなんて珍しい。それはそれで喜ばしいのだが、どうやら五人ほどの男が女の子一人を逃がさないとばかりに囲っているらしい。
強盗、窃盗、物盗りに乞食。そういった人たちとはしばらく会ってなかったのになぁ。
幸先が悪い、と雅は深い溜め息をつく。この道を通れば、間違いなく自身にも突っ掛かって来るだろう。そして、女の子を見過ごすわけにも行かない。
「やめ、」
「能無しに、謝罪するつもりは、ないから」
一つ一つに区切りをしっかりと付け、女の子はボソッと呟いた。しかし、遠くに居る雅にすらその声は、ハッキリと届く。また勝手に『風使い』としての力が発現して、声をこちらまで持って来ているのだろうか。
だとすれば、そろそろこの力の制御にも着手したいところである、と雅は思う。
真空による不可視の刃を使えるようになったのは山間の街を抜けてからのことだ。それまでは人を傷付ける可能性があるから、そして自身のトラウマから絶対に失敗していたその力の使い方が、洞穴を抜ける際に強く刃のイメージを作ってから空気を変質させたら発現させることができた。それからは、同じように強いイメージを練ってからの変質によって真空の刃を生じさせることを覚えた。
しかしこれは、周囲に人が居らず、海魔しか居ないときだけに使える限定的な力の使い方だ。『バンテージ』と戦った際に使えたのは、誠の『光使い』としての変質について理解していたからだ。使う際の躊躇いは一切無かった。それでも、まだトラウマと自分自身が戦っているらしく、『バンテージ』の体勢を崩すことしかできなかったのだが。
それでも、少しずつ自分の力に幅を利かせられるようになるのは良いことだ。だから、意図せずして発現する“意識している対象、言葉、名称についての声を風に乗せて耳に運ぶ”というこの力も制御しておきたい。そのせいでセイレーンの歌が耳に入ってしまったのだから。
だが、それどころではない。女の子は五人の男に対して、穏便に済ます様子は一切無く、むしろ挑発的な態度を取ってみせたのだ。
助けた方が良いの、かな。
強引だが、風圧で吹き飛ばして、その隙に女の子の手を引いて逃げ出せば、ともかくも彼女を五人組から解放することができる。
「良いの? 五人じゃ、私、止められないけど?」
掴み掛かろうとした男の一人から身をスッと引いて、逃れる。重心の移動と、身のこなしが一般人の比ではない。
「あの子……討伐者だ」
そうでなくとも、なにかしらの使い手である。これまでの経験から、見るだけで使い手か使い手じゃないかの違いは分かる。
「逃がすなよ!」
女の子が通り抜けようとした先を男が阻む。
「だから、五人じゃ、止められないよ?」
一つ一つの言葉にしっかりと力を込めつつ、女の子が途端、足を左右に動かしながら、前方に進み、阻んでいる男の一人を蹴り飛ばした。それから流れるような動きで、もう一方の男に裏拳をお見舞いする。残り三人が一斉に彼女へと押し寄せるが、腕という腕を全て擦り抜けるようにかわし切り、一人一人の足を払い飛ばす。転んだ一人に続いて飛び乗り、顔面を拳でぶん殴り、腹を蹴って起き上がろうとしている二人目に近寄ると、顎に掌底を打ち込む。そして最後の一人に腰に差していた短刀の一本を引き抜いて、その刃を喉元に当てた。
「どっちが、邪魔をした?」
刃を当てられている男は口をパクパクと動かしているが、声になっていない。女の子は不敵な笑みを零したのち、短刀を一度離して、手元で回したのち男の背後に回ってうなじに峰打ちを叩き込んだ。
こうして、あっと言う間に五人の男は女の子一人によって全員が気絶させられた。




