【-海魔の怨讐-】
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怒りに身を任せてからもはや、どれほどになるのか。
己はそれすらも分からなくなっていた。
歩む大地、進む道程。
どれに関しても全て曖昧で、ただ心の中にはずっと怒りという名の炎が燃え続けている。
その怒りは、妹を殺した者を全て始末しなければきっと消えないだろう。己の手でぶち抜き、肉を裂き、骨を砕き、肉塊にするまでこの怒りは消え去らない。
後悔の念もある。あのときどうして、妹の姿を見失ってしまったのだろうか、と。どれほど探しても見つけられなかった己を、ただただ悔いるのだ。
しかしそれで、妹を殺して良い理由になどはならない。だから己は、怒りの炎に身を任せることにしたのだ。
最初に怒りのまま人を殺したとき、里の長より言われた。「貴様を追放する」と。すると己の体を同胞は拘束すると、己の背中より生えていた翼を全て切り落とした。
翼無き者。
奴らは己を嘲笑い、外界へと追放した。これは己だけに与えられた罰ではない。規範を犯した者、この世の理を乱した者に等しく与えられる罰である。己は同じように翼を切り落とされ、外界に放り出された同胞をもう何人も見ていた。よって、追放されたときの衝撃はそれほど大きくはなかった。
たかが翼を失い、帰るべき故郷も失っただけに過ぎない。その悲しみなど、妹を喪ったときの悲しみに比べればあまりにも生温い。
しかし、ともすれば己はこうなることを望んでいたのかも知れない。
外界に追放されたならば、思う存分に人を殺せるではないか、と。
己の中の悪が――今ではもう悪と呼べるかも分からないそれが囁いた。だから己は追放されたそのときから、狂ったように喜んだ。
戒律などどこにも無い。己には自由が与えられた。ようやっと、ようやく、憎く禍々しい己の中の怒りを放出することができる。
そうやって己は、人間という種を殺し続けた。竜になるまでもない。拳は人間の体を貫き、蹴り飛ばせば全身の骨を砕く。頑強なる肉体一筋で、己の中にある怒りをぶつけ続けた。
自然と体は熱を帯び始めた。己は炎竜の血など引いてはいないが、妹が死んだことによってこの世に二つとない竜の血を引いている。体内にあるその血が、糧が、怒りの炎によって熱を帯び、体外へと溶け出しているのだろうと、己は考えている。
己の屈強なる肉体を前に、数多の人間が立ちはだかった。そのたびにその全てを屠り続けた。中には己に一太刀浴びせる者も居たが、どれもこれも烏合の衆に他ならない。しかし、数をこなせば己の骨にも異常は走る。よって、己は指や足に布を巻き付け、固く縛った。
いつしかそんな己を見て、忌々しい人間どもは『バンテージ』などと呼ぶようになった。
『殺意の発散にもならねぇな。出直して来い、殺す価値もねぇ』
その頃、ただの一度、己は人間に負けた。その男は己にトドメを刺さず、いずこかへと立ち去った。
それを己にとって、初めての恥という感情だったに違いない。その恥は払拭せねばならない。だからこそ己は、その男を見つけ、二度目の拳を交えた。
『ちっ、査定所の連中め。テメェが現れたことを周辺の討伐者に伝えやがったな。勝負はお預けだ。折角、一対一で殺し甲斐のあるテメェと戦っているってのに、他の連中に横槍を入れられてたまるか』
二度目は引き分けだった。男との一騎討ちはまさに拮抗状態にあったが、どうやら己の存在を聞き付けた人間どもが、高尚な命のやり取りに茶々を入れようなどと考えていたらしい。だから己は男を見逃し、男もまた己を見逃した。
「未だ貴様との命のやり取りは終わらんな、鬼よ。しかし、気配が濃くなった。今度こそ、貴様のその心臓を、この拳で打ち抜いてくれる」
己は溶けた鱗を零しながら、地を歩き続ける。




