【プロローグ 03】
「倒した、のかい?」
「……近寄らないで」
起き上がりながら訊ねた少年に対して少女は強い拒絶を見せる。
「あなた、討伐者よね? なんで海魔から逃げていたの?」
「そりゃ……死ぬかも知れないからだよ」
「討伐者は死と隣り合わせなのが当たり前。それで死ぬかも知れないから逃げた? あなた、なんで討伐者になったの? 信じられない」
激しい侮蔑を浴びせられて、少年は言葉を失う。
生きたかったから逃げた。それのなにが悪いのか。少年には分からなかった。確かに自身は討伐者だ。しかし、海魔と戦うために討伐者になったかと問われれば、怪しい。ただ生きたいから討伐者になった。大男が討伐者になれと言ったから。ただそれだけで、強い意思などどこにも介在していないのだ。
「あと、この海魔の報酬は私だけが貰うわ。あなたは、なにも助けてくれなかったから。ただ見ているだけだったわよね? それで討伐者だなんて、私は認めない」
言いながら少女は、逆手で持っていた短剣を用いて海魔の背中を切り裂く。そして手を突っ込み、海魔の心臓を取り出した。それを汚物を扱うかのような手付きで、さっさと袋の中に詰め込んだ。
海魔の死体から降りて、少女はゴーグルとマスク、フードを外して、街に向かって歩き出す。
「街に行って、どうする気、なんだい?」
唾を飲み、少年は少女に訊ねる。
「あなたには関係無い」
「……そっちにある街は、駄目だ。もう、終わっている街なんだ」
「言わせてもらうけれど」
少女は踵を返して、少年に間近まで迫る。綺麗な黒髪と、整った顔立ち、そしてスリムながらも美しい体型。なにをされるのかと一瞬、期待してしまう。
「あなたの方が、終わっているわ。きっと、街の方がマシ」
そう言って、少女は少年の足を強く踏み付けたのち、再び踵を返して町に向かって歩き出した。少年は体中から力が抜けて、その場にへたり込んでしまう。
「……なんなんだよ、なにが悪いんだよ。僕の方が終わっているって、どういうことだよ」
見えなくなった少女に向かって愚痴を吐き、しかしそんなことが全て無駄に終わっている虚無感に苛まれ、全身に力を込めて少年は立ち上がる。そして、いつの間にか手放してしまっていた酒瓶を拾う。幸いなことに、割れていない。少年は胸を撫で下ろす。
ただし、少年は少女の言葉がいつまで経っても理解できないでいた。
少年――小野上 誠は傍にあった小石を蹴り飛ばし、大男の元へと歩き出す。
しばらく街道を歩いたのち、登山用のツェルトが見えて来る。その付近が大男のねぐらであり、誠が身を寄せているところでもある。街の民宿を利用したことは一度も無い。
いや、あの街の民宿に泊まったら、それこそ命取りだ。
誠は首を横に振り、雑念を振り払う。大男に暴力を振るわれることもあるが、それでも骨が折れたり顔が腫れ上がったりするほどの力を振るわれはしない。だから、このツェルトで晩から朝、そして昼間の訓練を乗り切ったあとに眠ることが誠にとっては唯一の心の癒しである。今日は愚痴を吐くタイミングを失ってしまったものの、そんなことに比べれば僅かでも眠ることのできる場があるだけまだマシだと思えてしまう。ツェルトまで失ってしまったら、誠はそれこそ気を休めることすらできなくなってしまうだろう。
「今日はいつもよりおせぇじゃねぇか」
「海魔に襲われたんです」
誠はボヤくように言って、酒瓶を大男に向かって投げた。
「へっ、襲われたクセに生きてんだな。どうした? 討伐者として、戦えたのか?」
「違います。道中で出会った女の子が倒しました」
酒瓶から大男が口を離す。
「女に助けられただぁ? それも、餓鬼が“子”を付けるってことは、そいつも餓鬼なのか?」
誠は追及の言葉に逆らえず、視線を外しながら肯く。
大男は腹を押さえて豪快に笑い出す。
「ハッハッハッハッ!! 男が女に助けられるなんて、みっともねぇなぁオイ! 男の尊厳すらねぇのかよ、テメェはよぉ!! ホントに股間に男の象徴をぶら下げてんのか怪しいくらい女々しいよなぁ!!」
「初めて海魔に出会ったんだ。逃げ出して、なにが悪いんですか!」
大男は真顔になり、唐突に誠を蹴り飛ばす。
「酒はちゃんと運んだじゃないですか! どうして蹴るんですか!?」
「うるせぇ、餓鬼が。討伐者が海魔と対峙したんなら、シーマウスみてぇな大多数と相手取らない限りは立ち向かうんだよ。テメェが逃げ切ったあと、誰がその海魔を始末するんだ? なぁ、オイ! 今回は、その女に助けられて良かったよなぁ。逆だったなら、その女で童貞捨てられたかも知れねぇのに勿体ねぇ」
下品なことを言う大男に、誠は心底、嫌そうな表情を浮かべる。
「そういう下心、僕は持っていません。あんたとは、違いますから」
大男は再び酒瓶から口を離す。
「そんな言葉が逃げ出した言い訳か? クソだな、餓鬼。海魔と出会ったなら、戦えよ。俺は散々、そういう風に体に叩き込んで来ていたはずだが? それでなんにもできなかったじゃぁ、立ち向かった餓鬼の方がよっぽど討伐者として育ってんじゃねぇか。どこのどいつが女の、しかも子供に、そんな奇特なことをしたんだろうな。この俺みてぇに頭がぶっ飛んでいる奴には違いねぇが。で、その餓鬼はどこに行った?」
言ったところで、訓練は訓練。実戦は実戦だ。ナスタチウムを相手にするのと、海魔を相手にするのとでは天と地ほどの差がある。この大男は自身を殺さないが、海魔は自身を殺しに掛かって来るのだ。だから怖くなって逃げ出した。
とにかく誠は、逃走を正当化しようと精神内でも必死であった。
「街に向かいました」
「そりゃ、面倒だ。外野があの街の中を引っ掻き回したら、一気に釣り合いの取れている天秤が傾くぞ」
酔っ払い特有のしゃっくりを発し、ナスタチウムは飲み干した酒瓶を遠くに放り投げる。そして、なにを思ったかツェルトを留めていた杭を外し、骨格も抜き取って片付け始める。
「なにしてるんですか?!」
唯一の安らぎの場を片付けられては、誠の心の拠り所が無くなってしまう。
「言っただろ。外野にあの街を引っ掻き回されたら困るんだよ。こんなところで野宿なんかしてねぇで、街に行く」
ツェルトを畳み、大男は自身と同等に大きなリュックサックにそれを収納して、背負う。
「あの街で泊まるより、外に居た方が安全だって、言っていたじゃないですか」
「俺に逆らう暇があるんなら、股間にぶら下げているモンが本物だという証拠を見せるだけの勇気を持ちやがれってんだ、餓鬼」
千鳥足で男は街へと向かって歩き出す。
このような屈辱には耐えられる。この大男に体を辱められたわけではないのだ。しかし、プライドは捨てたつもりであったのに、“男”としての存在価値を否定されていることだけは、我慢できても苦しいものがあった。
「で、餓鬼? テメェの代わりに海魔を仕留めた餓鬼は、どんな討伐者だった? 俺にとっちゃ、男だろうが女だろうがみんな餓鬼だ。見分けが付かねぇから、テメェが見た力と、テメェが見た容姿に頼らせてもらうぜ?」
酔っ払いながらナスタチウムは歩を進める。蹌踉めきながらも倒れはしない。この大男は酒に酔ってはいても、どのような衝撃を受けても絶対に倒れはしないのだ。
「僕よりも、その女の子の方が気に掛かるんですか?」
「ああ。どれほどの腕前か見てみたいくれぇだ。テメェよりも強いのか、そこんところも知りたいしなぁ。俺の見立てでは……テメェの方が強いはずなんだが」
なにせ臆病者だしなぁ、と言ってナスタチウムは豪快に笑った。




