【-才能が有るかどうか-】
「クソガキ、狙ってやったんなら上出来だな。だが、そうなったストリッパーをテメェで捌き切れたらの話になるがなぁ」
穢れた水を跳ね返したことには意図がある。あのとき、咄嗟に飛び退いても恐らく浴びることはなかったそれを風圧で押し戻した理由は、たった一つしかない。
ストリッパーの体は穢れた水で溶けないが、ストリッパーが被っている人の皮は溶けるのだ。よってこのとき、ようやくこの海魔の本来の姿が浮き彫りになった。
焼け爛れて落ちて行く皮膚とボロボロの服から放出される悪臭よりもずっとずっと鼻に衝く、異形の生命独特の異臭である。
フィッシャーマンよりも人に近く、しかし人と呼ぶにはあまりにも掛け離れた姿だった。魚と人間、更には両生類をそれこそ、ごちゃ混ぜにしているのではと思うほどに、どこにもそれと思い付く海洋生物の特徴が見える。しかし、それらを自在に扱えているかどうかはまた別である。この特徴はフィッシャーマンにもあったが、フィッシャーマンはただ長い舌と粘液を釣り糸のように応用することしかできていなかった。そしてこのストリッパーは脱皮した際に硬質化するヒレの刃しか使えていない。
「ボーッとしていると、テメェらの立てた作戦の前に死ぬぞ」
ディルの声が、何故だか綺麗に耳に飛び込んで来た。そのおかげか、雅は自身が被っていた皮を台無しにされて激昂しているストリッパーの剣戟を避けることができた。できたものの、ストリッパーは構わず空を掻き切って、更には地面すら切り裂いた。ただ力任せに抉り取ったようにも見えるが、それはあのヒレの刃が地面に打ち勝つほどに鋭く、そして硬いことの証明でもある。あんなものを直接、受けたなら間違いなく骨ごと体が切り裂かれる。
「短剣で受け止められると思うなよ。キレてなかったから受けられたんだ。キレたストリッパーは筋肉の限りを尽くして、対象を粉微塵にしようとする」
言われずとも、その粉砕力を目の当たりにしていたのだから、短剣で受けようなどという考えは浮かばない。
「葵さん、まだですか!?」
山肌に向かって姿を消した葵に届くように力強く雅は問い掛ける。しかし、答えはまだ返って来ない。
葵は多少、声も小さく、どもり気味に声を発するがこちらの質問に対してはしっかりと答えてきた。よって、このときに返事が無いのは未だ準備が整っていないためだと雅は判断する。逃げ出した可能性も無きにしも非ずだが、葵は自らディルに戦い方を教わろうとしていた。ならば、その機会を失うかも知れないこのときにおいて、我が身恋しさで逃げ出すわけがない。
そう信じなければやっていられない。なにせ、そう信じることでしか雅はこのストリッパーの兇悪なる剣戟を捌く術は無いのだ。
回数制限は無い。ただ、どこまで集中力が持つかである。幸い、ストリッパーの剣戟は一度しか見てはいないものの、皮を被っていたときよりも短絡的に見えた。
「複数箇所の変質は、まだできてないから……右か左か、左か右か」
呟きながらストリッパーの接近に注視する。
「右!」
剣戟は雅から見て右側。そう判断した刹那にはもう、空気の圧縮は完了し、そしてストリッパーの剣戟も到達していた。尋常ではない圧縮された空気の拒絶により、彼の者の片腕が吹き飛んだ。が、もぎ取るまでには至らない。ディルはこれを使い手としての力で対処することで威力を減衰させていたが、ストリッパーは人外の筋力と超常の筋線維によって持ち堪えたのだ。弾き返し、凌ぐことはできたが、これではまだ両腕が残っている。
もっと圧を加えなければならない。空気にもっとストレスを与えるイメージを湧かせるのだ。
けれど、そんなことを考えている内に、左からの一撃が襲い掛かる。イメージを形にする前に処理しなければならず、これも右からの攻撃と同じような対処しかできなかった。やはりストリッパーの腕はもぎ取れない。
次は右か、左か?
考えている雅に対し、ストリッパーが少しばかり訝しむような、まるでなにかを考え込んでいるかのような間を生み出していた。
防がれたことに対する疑問。切断するはずだった獲物の肉が断ち切れていない違和感。それらが海魔の、人間以下ではあれ動物並みにはある学習能力が待ったを掛けたのだ。
「私をどうやって切り裂こうか考えてる……の?」
雅の疑惑に答えるように、ストリッパーは小さく呻いた。
と、彼の者の中で一つの答えが出たのかストリッパーはニタリと気色の悪い笑みを浮かべて、奇声を上げて突貫して来る。
ストリッパーは断続的に剣戟を繰り出す。右に左に縦に横に、とにかく両手に持っている刃を自らの筋力で振るえるだけ振るい、雅の隙に刃を滑り込ませようとしている。
無論、易々とそんなことをさせるわけはない。右から来れば右の空気を変質させ、左から来れば左の空気を変質させる。前方からなら前面を、左右の斜めや下からの剣戟も全て対応して行く。
空気に触れれば弾かれるように腕が振るわれた方向とは逆に吹き飛ぶ。どれだけの速度でもってストリッパーが剣戟を繰り出そうが、初手さえ凌げば剣戟のスピードには付いて行ける。ただし、防御一辺倒になってしまう。なにせ、防ぐことに全神経を注がなければ死んでしまうのだ。だから防御に厚くなる。防御だけに集中してしまう。それではストリッパーを疲労させることしかできない。
もっとも、海魔に疲労の概念があるかどうかも雅には知ったことではないのだが。
剣戟がやんだ。ストリッパーは後方に下がり、雅は頬を伝った汗を拭う。精神面では既に限界に達している。極限の緊張感に胸が張り裂けてしまいそうだ。何度も自覚することになってしまうのだが、動作に誤りがあれば死ぬのだ。死ぬ、死んでしまう。ただそれだけが怖い。常に付き纏って離れない。だから攻勢に出られない理由でもある。
「なに、してるの?」
両手に握る刃を大きく左右に振りかぶる。
動揺する。ストリッパーは縦横無尽に刃を振るったところで、雅の空気による反射は突破できないと踏んだらしい。
だから両手で雅を抱き込むように、左右から刃を奔らせようとしている。
気付くのが遅かった。もう少し早くに気付けば、体を捻らせるなり回避するために後方に下がるなり、幾らでも手立てはあった。
だが、気付いたこのとき、この距離ではストリッパーの剣戟は両方精確無比にほぼ同時に雅へと到達する。到達点を予測して一点の空気を変質させることも、この数瞬に検討したが、抱き込むように腕が動いている以上、その到達点とは雅の胸の中心部になる。そんなところの空気を変質したところで、どうにもならない。腕は切られ、胸部まで刃は喰い込む。いや、喰い込むどころか上半身と下半身に断裂させられる。
泳ぐ視線は、ディルに向く。雅の目は明らかに助けを請うものだった。しかし、ディルは一向に動かない。動く気配は、無い。
絶望の中で、雅は両手を左右から押し寄せて来る刃に向ける。
「両方だ、両方ったら両方だ!! 私はこんなところで、死にたくない!!」
瞬間、ストリッパーの刃が空気の圧力に跳ね返される。右だけではなく、左だけでもない両方の刃が同時に、彼の者が加えた力とは逆方向に吹き飛んだ。
「でき、た……?」
行ったことに驚く。だが、ストリッパーの両足は踏み込んだところから動いていない。弾かれた両腕をしならせて、一気に雅の元に戻して来る。
「忘れもんだ、ストリッパー」
ストリッパーの右肩から先が、ディルが投げ付けたものによって切り落とされた。合わせて、左から雅を狙う刃の軌跡がズレる。更に雅自身が重心を後ろに下げることで、刃は完全に空を切った。
ディルが投げ付けたのは、ストリッパーが熱さに怯えて落とした、ヒレの刃だった。それを全て燃やし尽くしたのではなく、サーベル状にして残し、投擲したのだ。
切り落とされた傷口から腐臭と穢れた水を撒き散らしながらストリッパーが悶え、苦痛の叫びを上げる中で、雅は「どうして?」という視線をディルに向けていた。
「テメェはとことん、異端だな。能力の発生には、視線集中型と接触型の二つがあるが、テメェはさっき両手で触れた空気を圧縮して跳ね返した。要するに、混合型だ。羨ましいねぇ、つまらねぇくらいに、羨ましいねぇ」
「それが分かったから、助けたって言うの? 利用価値がありそうだと分かったから?」
「俺は海魔に襲われている奴しか助けねぇよ」
まだストリッパーは苦しんでいる。襲い掛かる節は無い。だから雅はディルとの会話を続ける。
「私が死ぬかも知れないから助けたってこと?」
「さっきのはもう、襲われている奴にしか見えねぇ状態だったからな」
「ディル、素直じゃない」
リィが呟いたのを雅は聞き逃さない。
「どういうこと?」
「これは訓練。お姉ちゃんがディルに頼んだ、才能無しを連れても、邪魔になるだけ。だから、ここで試した。ディルが面白いと思えるくらいの才能が、有るかどうか。結果、有った。だから助けた」
そうでしょ? と、リィはディルに首を傾けつつ同意を促す。
「知らねぇな」
素っ気なくディルは答えた。
この男は、本当に分からない。
雅は疲労の最中、ディルの本性を、その心の奥底を垣間見ようと努めたがやはりできなかった。そうこうしている内に腕を一本切断されたストリッパーが怒りを露わにして雅へと飛び掛かる。
左手で振り回される刃を空気の反発のみで対処して行く。先ほどまで二つに注意を払わなければならなかったものが一つに減った。それだけで緊張感はあれど、なにかとんでもない過ちを冒すようなミスというミスは無くなったと言っても良い。それほどまでに雅は冷静に対処できていた。
「雅さん! 準備、完了です!」
泥だらけになりながら葵が山肌を転がり落ちるかの如く飛び出した。ストリッパーの剣戟が止まり、その魚眼は葵に向く。
ディルは獲物の対象外であり、リィもまた敵わない相手だとストリッパーは認識している。そして、雅と葵を獲物と決めた。だが、簡単に仕留められると踏んだ内の一人である雅がこれほどまでに頑丈に、頑強に自身の攻撃を凌いでいる。その理屈を彼の者は恐らく理解していないが、苛立たしいに違いない。
腕を一本切断された中で、更に雅を仕留めることが困難となったこの状況で、狙いが雅から葵に移るのは簡単に想定できる彼の者の行動だった。
「ヘイトが移った。今度はテメェが時間を稼いでみせろよ? でなきゃ、そこのクソガキが凌いだこの時間全てが無駄になるんだからなぁ」
クククッと笑いながら葵に語り掛ける。しかし、葵は動じることなく息を整えて眼前まで迫ったストリッパーの左の刃に、自らの右手を振りかざす。
金属音ではない、衝撃音。耳を劈くこともない小さな音。それだけで、葵の手袋、その指先から展開されている水の爪がストリッパーの刃を受け止めたことを知るには充分だった。
「これ……切ることができません」
「当たり前だ。水圧は時間を掛けて物体を切る電ノコだ。高速で切ることには特化してねぇよ。だが、テメェのそれはそこのクソガキが得物にしている短剣よりもよっぽど頑丈だ。クソガキが最後の仕上げをするまでの間、その十本の優位性で凌いでみせろ」
「は、はい!」
腕を一本切断されたストリッパーの動きは単調で、鈍重である。初見のときに見せた身軽さが嘘のように、怒りに我を忘れて一心不乱に刃を振るっている。それを、幾ら全ての動きに鈍さが見える葵であっても、見極められないわけがない。なにより、彼の者の刃を凌げる武器を葵は十本も携えているようなものなのだ。これで受け止められないわけがない。
親指が外しても、人差し指の爪が凌ぐ。人差し指の爪を外しても中指の爪が凌ぐ。水の爪の長さは葵のそれぞれ五本の指に対応してそれぞれ異なる長さではあるが、このように一本一本を細かく扱えば、それだけでストリッパーの刃は凌げるのだ。
「それどころじゃ、なかった」
呟いて、雅は駆け出す。最後の仕上げを葵が凌いでいる間に済ませなければならない。ここに戻って来た葵は「準備が完了した」と言っていた。つまり、あとは衝撃を与えるだけだ。
けれど与える箇所にも幾つか考慮しなければならない。大地に根強く張った木々を狙うのは少し抵抗があったが、勝つための秘策そのものが野蛮なのだから、そんなことに心を痛めている場合ではない。
葵が転がり出て来た山肌を眺め、木々の一つ一つに視線を送る。どれもこれもが強く逞しく育っている。けれど、その中でも突出して異常に成長する種というのは、絶対にあるものなのだ。特に植物は根がどれだけ栄養と水を吸い上げることができるかで全てが決まる。即ち、大きく育っているものほど根を張り、その場に留まろうとする強い力を秘めている。
「フィッシャーマンのときの応用だ。反射じゃなくて加速。風圧を自分にではなくて、自分の見ている方向に……」
あのときには角度を付けることで反射を応用させたが、雅が試みようとしているのは変質した空気に触れた物質を、自身が指定した方角へと加速させて撃ち出すことだ。あの土壇場で出来て、この土壇場でも複数箇所の変質を成功させた。
ここまで来れば、もう自信に変わる。
加速は二段。撃ち出したものを更に加速させる空気の塊を感覚ではあるが、変質させることに成功したことを確信する。
「葵さん! 惹き付けて!!」
「はい!」
水の爪でストリッパーの剣戟を受け止めながら、葵が雅の方へと後退する。この時間が酷くもどかしい。だが、焦ってはならない。あの海魔にも本能はある。本能的に危機を感じられては、全て失敗に終わる。ただ、腕を一本落とされた中で、そのような本能が働くはずもない。ストリッパーは自身が誘き出されているとも知らないまま、葵の水の爪を砕こうとただひたすらに片腕だけの刃を振るい続けていた。
「そこ。私の合図で一気に飛び退いて!!」
「はい!」
その前に、することがある。ディルが散々、口にしているヘイトだ。注意関心、或いは怒りの矛先。そういったものをヘイトと言う。
要するに、ストリッパーの関心を葵から外すために雅が注意を惹かなければならない。その方法は怒らせることができるのならなんだって構わないだろう。
だから雅は葵しか眼中にないストリッパーの右脇腹に短剣を突き立て、抉りながら引き抜く。どれほどの痛みを与えたかは分からないが、奇妙なほどにストリッパーの首が曲がって雅を捉えた。
そこからはもう、葵への攻勢が逸れて雅に向いた。振られる刃を下がりつつ回避し、ある一点で真横に跳びながら握り締めていた短剣を投擲する。
ストリッパーに短剣は当たらない。その頭脳は恐らく、獲物が攻撃を外したのだと考えるだろう。しかし、そのストリッパーの与り知らぬところ――後方で短剣は変質された空気の塊に触れて加速して撃ち出され、更に前方で変質された空気の塊に触れ、更に加速。到達点にある木の根元を、抉るようにして山肌ごと穴を空けた。
地鳴りがし、続いて地響きとなり、ストリッパーが何事かと後ろを見る頃、雅は葵と共に大きくその場を離脱していた。
ストリッパーに木々の保護を失ったことで緩くなった山肌の一部分がゴッソリと、怒涛の如く押し寄せる。彼の者にその大量の土砂を防ぐ術は無く、これは間違いないと言い切れるほどの海魔の悲鳴を上げて、土砂の中に沈んだ。




