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【討伐者】  作者: 夢暮 求
【-第四部-】
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【プロローグ 02】


 ぜぇぜぇと荒い呼吸で肺に酸素を送っているのが分かる。足をひたすら前へと動かしているため、筋肉が悲鳴を上げている。それでも足を止めてはならないことは、本能的に分かっている。


 少年はひたすら走り続ける。もうすぐ男の待っている場所まで辿り着ける。ただそのときまでは、生きていなければならない。男のところに行き着けば、今、自身を追い掛けている海魔を殺してくれる。


 だから必死に逃げる。汗を流しながら、息を切らしながら、脇目も振らずに走り続ける。


 酒を買いに行く道中だった。近道をしようなどと考えてはいなかった。決められた街路を歩いて、いつものように帰っていた。

 なのに、海魔は街路のすぐ傍から、草むらから姿を現した。最初はそれを海魔だと認識するのに時間が掛かった。なにせ少年にとって初めて海魔を見た瞬間だったからだ。

 話に聞いていただけの海魔。耳にしていただけの存在。死体を見るだけだった異形の生物。少年にとっては、御伽噺(おとぎばなし)の中にだけ出て来る空想上の産物なのではないかとすら思っていた存在である。


 今まであったことが走馬灯のように脳内を駆け巡る。


 産まれた頃より、裕福な家庭に育てられた。両親は共に討伐者であったが、少年は二人に甘えてずっと豪邸の中から外には出なかった。帝王学の一部を学ばされ、本来ならば立身出世の道を歩いているはずだった。


 そう、運は良かった。良かったはずなのに!


 両親が死んでから全てが変わった。家中の家具がありとあらゆるところに売り捌かれた。場合によっては盗られてしまったものもあった。しかし、豪邸から出たことのなかった少年にとって、一体、家の中でどのようなことが起こっているのか全く分からなかった。

 分からないままに家は売りに出され、そして裕福な家庭に産まれ、将来を有望視されていた少年はこの腐った世界に一人、放り出された。まだ成人すらしていない少年にとって、そして家の中だけで育てられて来た少年にとっては地獄のような日々の始まりだった。まず、手元に食べ物が無い。続いて、水も無い。


 そうして少年は金銭というものを知り、水を得るためには海魔という生物を殺さなければならないということも知った。この世では水がなによりも貴重であり、海魔を殺さずに水を得る方法は、ただ一つしかなかった。即ち『水使い』の才能があるかないか。

 しかし『水使い』の才能は無かった。続いて『土』、『木』と特権階級の次に重要視される変質の力の審査も受けたが、通らなかった。そうして少年は、使い物にならないと判断されて、査定所からも放り出された。


 日に日に少年は痩せ衰え、街に住み着く乞食の子供たちと同じように日々、水と食料を求め続けた。渡されるのは一欠片のパンと、地面に零されるだけの水。それをありがたがって少年は食べ、そして零れた水で濡れた地面を舐めて生き続けた。


 死ぬことだけは嫌だった。この世に生まれたからには、天寿を全うしたいと願っていた。だからどのような屈辱であっても耐えるだけの精神力があった。たとえ裕福な家庭で育てられていたのだとしても、世間知らずのお坊ちゃまであったのだとしても、ここまで至ったのならば地位などもはやどうでも良かった。肩書きに興味は無く、プライドは家から放り出された瞬間から捨てていた。

 しかしながら、男娼ばかりはやれなかった。乞食の少年が下品で気色の悪い男や女に身を売って行く様を見ていて、それだけは心の底で「嫌だ」と叫び続けていた。それが微かに残されていた少年のプライドであり、絶対に崩すことのできない最後の牙城だった。


 だから、その男に凄まれて「はい」と肯いたときには、心は虚ろな色に染まった。自らは遂に体を売ったのだ。これからなにをされるのか、そして果たして生きていることができるのか。どうせなら生きていたい。なにをされても、辱めを受けるようなことがあっても、生きていたい。少年は男に引きずられながら、涙を流した。

 だが、少年が感じていた絶望とは真逆に、男は食事と水を与えて来た。それも一欠片のパンでもなく、地面に零された水でもない。それは真っ当な食事であった。豪勢とは言えないが、とにかく少年はそれを(むさぼ)り、そして水を飲み尽くした。それを見ていた男の目が、笑っていないことに気付いた。


 手懐けようとしているのではないか。そのような不安が少年の全身を満たした。しかし、これだけ喉の渇きも、腹も満たされたのだ。これから先、どれだけの苦悩が待ち受けていても構わない。そう思い、少年はある種の覚悟を決めた。

 男は少年の髪を掴み、それを嗅ぐと、「くせぇ」と言って大衆浴場に少年を連れ出した。体中を綺麗に洗うように言われ、続いて美容院で髪も整えられた。豪邸に住んでいた頃はずっとお坊ちゃまな髪型であったが、そこで酷く伸びていた髪を整えられたときには、そのような髪型にされることはなかった。


 ああ、これも準備のためか。少年はそのように思っていた。


 しかし、全てが杞憂に終わった。男は服も着替え終えた少年の胸倉を掴み、眼前まで引き寄せると「この世界が憎いか?」と訊ねた。

 少年は何故だか首を横に振った。確かにここまで凋落(ちょうらく)したのには色々な要因がある。両親の死、使用人の逃走、豪邸の売り飛ばしなど様々な、少年がこの世界を恨んでも等しいくらいの理由はたくさんあった。けれど少年は首を横に振った。

 その答えが正しかったのか、男は凄みを()かせた笑みを浮かべて「だったら、俺がテメェを鍛えてやる。そこまで堕ちたテメェが尚もこの世界を憎いと言わないのなら、この世界で生きていられるだけの力を、テメェに与えてやるよ、餓鬼」


 それから男は少年を「餓鬼」と呼ぶようになった。少年にしてみれば、自身をどう呼ぶかなどは些末なことに過ぎないのだが、それ以上に厄介なことがあった。男の酒癖の悪さには気が滅入るものがあった。毎日ように酒を飲み、そして毎日のように男は少年に暴力を振るう。そうして夜中から朝になって酒が抜けた頃、ようやく少年に安息が来るかと思えばそうではない。


 それから朝から晩まで、戦闘訓練が行われた。海魔を狩るための体術、足運び、そして自らが持っている力の扱い方。ありとあらゆることを叩き込まれた。少年は『水』でも『土』でも『木』でもなかったが、取り敢えずの力があった。査定所では使い物にならないと鼻で笑われた力であったが、男に言われるがままに発現させてみれば、思いのほか、形にはなっていた。

 そして戦闘訓練が終わる頃、少年に休息が与えられる。時間はまちまちである。そして、休んだかと思えば日は沈み掛け、その頃になると大男は「酒を買って来い」と言って、少年に酒を買いに行かせるのだ。

 それがほぼ毎日のサイクルである。少年は大男に感謝こそしていたが、この一切の休息を与えてくれない日々に不満を感じ、忠誠心は一切抱くことはなかった。

 大男から解放され、酒を買いに行き、そして帰るまでの道中。その時間は少年が愚痴を零す時間でもあった。


 そうして今、少年は唯一の一人切りで居られる安らぎすらも奪われて、海魔に追い掛けられている。

 どうしてこんな目に遭っているのか。少年は酒瓶を抱えながら、必死に考えていた。考えていても、答えなんて出るわけもないと分かっていながら。

 ふと、街道だけを見ていた視線を上へと向けると、少女が街道の中央に立っていることに気が付いた。行きしなには見掛けなかった。だから、街へと向かっている間にこの少女はどこかからやって来たのだろう。そうして帰りしなに偶然、出会ったのだ。つまり、少女は街へと行こうとしている。


「駄目だ。今、海魔に追い掛けられているんだ!」


 少年は少女に向かって叫ぶ。しかし少女は自身のウエストポーチから取り出した手帳を眺めていて、まるで聞こえていないかのような素振りを見せている。

「早く逃げるんだ。このままだと海魔に殺されてしまう!」

 少女は手帳を閉じ、ウエストポーチに戻したのち、道に向いていた(こうべ)をもたげて、ギラリとした眼光で少年を睨み付けた。


「うるさい」


 一言だけ零すと、少女は横を通り過ぎようとした少年の背中を、身を回転させて遠心力を加え、力一杯、蹴り飛ばした。一瞬、なにが起こったのか分からず、それから背中から訪れる鈍痛に呻き声を上げたのち、地面に倒れ込んで、痛みを紛らわせるために転がる。しかし、手から酒瓶を落とすことはなかった。これを落とせばどのような仕打ちが待っているか、少年は知っているからだ。

「なにをするんだ……早く逃げないと!」

「あなた、討伐者?」

「そ、れは……そう、だけど」


「だったら、海魔に背を向けて逃げるな。そんな女々しい男は大っ嫌い」


 毒を吐いたのち、少女が追い掛けて来た海魔に視線を合わせ、両腰の鞘から短剣を引き抜いた。少年は上半身を起こして、手と足を使って立ち上がらないまま後退する。そもそも、腰が抜けて、立ち上がれない。足が痛くて、歩くことさえきっとままならない。だからこうして、少しでも距離を取って恐怖から逃れ出ようと少年はしていた。

 それを首を動かし、横目で見た少女が「邪魔臭い」とまた毒を吐く。そんな少女に海魔が一直線に飛び掛かった。

「三等級海魔、フロッギィ。ほんと、蛙みたいな顔。フィッシャーマンより蛙っぽい。とっても、気色が悪い」

 呟きながら少女がフロッギィが両手で掴み掛かろうとしたところを容易く避ける。素早く彼の者の横を取って、手に握る短剣を脇腹に突き刺す。

 フロッギィが呻き声を上げて、口元から腹部に掛けて空気を吸うことで大きく膨らんだ。少女は構わず短剣で切り裂こうとするが、ゴムのように跳ね返されて、剣戟が通らない。

「やっぱり、駄目だ」

 少年は弱気に呟く。

「ウザい。さっさと私の見えないところに行って」

 呟きが耳に入ったのか少女はやはり毒づいて、右手で握っていた短剣では無く、左手で握っていた白の短剣を踏み込みながら勢いよく膨らんだフロッギィの腹部に突き立てた。弾かれていたはずの短剣が、今は深々と刺さっている。更に少女は雄叫びのような声を上げて、力強く真横にフロッギィの腹部を引き裂く。その際、聞いたこともないような生き物の(いなな)きのようなものが少年に耳に入ったが、この場には少年と少女、そしてあの海魔しか居ない。だとすれば、あの白の短剣から発せられた音なのだろうか。


 ヘドロのような血を避けるために少女は飛び退いて、続いて白の短剣に目を落としていた。海魔の血で汚れた白の短剣は、紅に刃を染まっていた。柄頭にあった装飾の帯すらも紅に染まり、それが少年には血に飢えた刃のように見えた。


 フロッギィは腹部の袋を破かれても尚、生きていた。それどころか凶暴性を増したのか、先ほどよりも明らかに動きを速めて少女を掴み、そして骨ごと粉砕しようとしている。しかし、どれだけ彼の者が腕を振るっても、少女が捕まる気配は無い。足を上手く動かし、重心を移動させてギリギリのところで避けている。

「あなたたちみたいな、脳の足りない海魔を相手にするのはそれほど苦痛じゃない」

 少女は「フフッ」とおかしな笑みを浮かべたのち、大きく後退して距離を取った。それも少年が居る場所まで下がった。

「……まだ居たの? 邪魔だからさっさと居なくなってくれない?」

「海魔……フロッギィ? なんでそんなこと、知っているんだ。君は一体、誰に、教えてもらったんだよ」

「……はぁ、ウザい」

 少年の質問に少女は答えない。少女が短剣を握ったまま右手を上げて、なにもない場所を指差した。続いて、左手の指先が少女の前方の空間をそっと叩く。それだけを済ませると、少女は短剣と紅の短剣を握り直して、一方を思い切り、自らが触れた空間に投げた。

 突風が巻き起こり、そこから発せられた風圧によって角度を強引に変えられて射出された短剣がフロッギィの首元に突き刺さる。それを見届けたのち、少女は上着のフードを被り、そしてウエストポーチからゴーグルとマスクを取り出して装着すると前方へと走る。


「で、っぁああああああああ!!」


 叫んで、一点を指差していたそこに跳躍して、蹴り抜いた。少女の体が風圧によって強引に動きを止めているフロッギィの方へと向き、そして紅の短剣を、彼の者に近付くと同時に突き出した。

 紅の短剣がフロッギィの両目の合間――頭部に突き刺さる。凄まじいほどのヘドロのような鮮血が噴出するが、それらを少女の素手になった左手が阻止するように開かれて、全てのヘドロのような血液が彼女の体に降り掛かることなく、右側の草むらへと迸って行く。

 フロッギィは頭部に乗っている少女の体をどうにかして振り切り、そして両手で掴もうとしているが、少女は一切、短剣から手を離すことはなく、また振り落とされもせず、捕まえられることさえなかった。


「死ね!! ここで死ね!!」


 呪いの言葉を強く浴びせながら少女はより一層、短剣を深く突き刺す。フロッギィが奇声を上げ、やがて両目から生気が抜ける。少女は紅の短剣を引き抜いて、倒れ行く彼の者の体を蹴って、距離を取ると共に着地する。

「……っ、はぁ……はぁ、はぁ」

 少女から汗が噴き出し、緊張の糸が切れたかのように荒い呼吸を繰り返す。少年のような逃げることに必死になって出る荒い呼吸とは掛け離れた、勝者の生きた証とばかりの強い呼吸だった。


 動かなくなった海魔の喉元からもう一本の短剣を引き抜き、ウエストポーチから取り出した紙で白の短剣の刃に付着した海魔の血を拭き取る。紅に染まっていた刃はゆっくりと、静かに白くなり、帯もまた純白に戻った。

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