【エピローグ】
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「……はい……はい…………いいえ、『クィーン』の死体は、見つからない。討ち損じた、みたい、です」
少女は言葉を一つ一つ、丁寧に、そして大切にしつつ、手に持っているトランシーバーへ声を伝える。一昔前の代物である上に、範囲は狭く双方向の通信は不可。少女の師とは連絡を取ることすらできないが、周辺を共に探索している討伐者とは情報を密に共有できる。海魔に遭遇した際も助けを呼べる、そして助けに行ける。それだけでも、トランシーバーの利用は、少女たちにとってはデメリットよりもメリットの多い通信装置である。
「はい。死者はまだ、数え切れて、いません。少なくとも、街は全て、セイレーンに――ベロニカの歌声で、壊滅した、と思います。引き続き、生存者を探しますが…………はい、“死神”は見つけ次第、始末します…………海竜は発見して、運び出している最中です。では、通信を一度、切ります」
少女はトランシーバーをやや大きめのポシェットに入れて、辺りを見回す。
街はセイレーンによってほぼ壊滅状態。そして洞穴の崩落も相まって、この辺り一帯の地形が大きく変化してしまっている。軟い部分を踏めばそのまま洞穴の中に落ちてしまいかねないので、足元だけは石橋を叩くかの如く、何度も踏み締めてから一歩、そしてまた一歩と進んで行く。
「…………なに? 違う音が聞こえる」
少女は呟いて、また草木を掻き分けて、ゆっくりと違和感のする音の方向へと歩みを進めた。
そして、木々の合間に挟まっている男を見つける。
襤褸の黒い外套、右の義眼。ケロイド状の皮膚。そして背格好。どれもこれも師から聞いた通りの男が動く気配も無く、そこに倒れている。
「“死神”……死んで、いる?」
呟き、もしものときのために、短刀を腰から抜いて身構えながら少女は男に近付く。
どうやら違う音の正体は、この男の呼吸音らしい。
「生きて、いるなら……始末、する」
「やめておけ」
短刀を倒れている男へ突き立てようと振り上げたところで、どこからともなく声がした。“死神”は動かない。ならば今は、動くかも知れない“何者”かを優先することの方が重要である。声のした方向を注視してはいるが、近場の木を背にして、警戒を続ける。
「よく見てみろ。その男に手を出していたなら、お前は死んでいたかも知れないぞ?」
草木を掻き分けて、倒れている“死神”の前に少年が姿を現す。
前髪は長く、相貌を完全に把握することはできないが、その奥にあるあまりにも黒すぎる、漆黒の瞳はジッとこちらを見つめている。そして同時に、その瞳はこの澱んだ世界に対する強い諦観を訴え掛けて来る。なにせ、この少年は瞼を半分閉じてしまっているのだ。寝惚け眼というわけでもなく、ただ醜い世界をしっかりと見つめたくないという拒絶の表れにも感じられた。
「あなたは、誰? よく見ろ、ってどういうこと?」
「答える義理は無い」
「……邪魔をするなら、殺す」
「別に構わないが、俺に触れると“七倍”の復讐がお前に襲い掛かって、死んでしまうが、それでも良いのか?」
「なにを、言っている」
「だから、“よく見ろ”。お前の今の言葉は、俺の精神を苛立たせた。物理的な“七倍”に限らず、精神的な“七倍”の復讐がお前を襲うぞ?」
ジャラジャラと音を立てて、少年の前方に銀色の鎖が現れる。鎖の先端は尖っており、それらが一斉に少女目掛けて駆け抜ける。
刹那、銀色の鎖は少女の眼前で停止し、力無く地面へと垂れ落ちた。
「……ああ、そういうことか。良かったな、“七倍”の復讐を受けずに済んで。どうやらお前の中にはとんでもないものが飼われているみたいだ。それともお前が飼われているのか? どっちでも構わないが、その力でもこの男に触れるのはやめておくんだな」
少年はなにかを察していたが、少女には少年の言っていることが一つも分からなかった。とにかく、少年の手元には武器と呼べる物は見当たらない。先ほどの銀色の鎖も、気付けば視界から消えている。
しかし、少女はその場から動くことができず、言われた通りに、倒れている“死神”をよく観察する。
「倒れているわけじゃ、無い……?」
よく見れば、男の全身を風が覆い尽くしている。そして風がずっと男の周囲を循環している。
男は土にも落ち葉にも草木にも、どこにも触れていない。地面擦れ擦れの中空に漂っているのだ。男の呼吸音だけでなく、この音もまた先ほどから耳に入って来る草木の音色とは異なる音の正体だったらしい。
少女は試しに小石を拾い、それを男に向かって投げる。風がそれを阻み、物凄い速度で少女の真横を突き抜けて行った。ただ放り投げただけで、異常な速度となって跳ね返る。そんな『風』の加護を受けている男の息の根を止めることは現状、できそうにない。
そして、この強力な『風』の力を男に掛けたのは一体誰なのか。少女には分からない。しかし、いずれ少女の前に立つ者に違いないということだけは、分かった。
「分かったか? 分かったらなさっさとどこかへ行け。悪いが、お前が見えなくなるまで俺はここを離れるつもりはない」
「あなたは、この『風』の変質を、知っているの?」
「本人から聞いたことはある。そして、見知ってはいるが、親しい間柄ではない」
少年の心臓の鼓動に耳を研ぎ澄ます。しかし、それも束の間、再び音を立てて銀色の鎖が少年を守るように展開する。
「俺の気に触るようなことをしたな?」
「あなたの言ったことが本当なのかどうか、調べようとしただけ、なのに」
「俺の言葉に疑問を持った。そして、なにかしらの判断材料を用いて虚偽か真実かを調べようとした。それが俺の“気に触った”。だから、この銀色の鎖はお前のその調査を拒んだ」
少女は本能的に、この少年にこれ以上の追究はやめた方が良いと感じ取った。銀色の鎖は自身を貫きはしなかったが、あれが変質の力なのか、それとも全く別の代物であるのかすら分からない。その未知なる力に手を出せば、死が待っているかも知れない。
“死神”を見逃すのは惜しいが、しかし、少年が見張っている以上、こちらにも手を出せない。
しかし、見たところ“死神”はかなりの衰弱状態にある。
「……こんなところで、野たれ死にすることを、私は、認めない」
言いながら少女は大きめのポシェットから水の入ったボトルとドライフルーツのパックを取り出して、“死神”の傍に投げやった。
「私のところに、来たとき、私が殺す。殺すまで、あなたが死ぬことは、許さない」
少女はそれだけを告げて去って行く。
そうして再び静寂が訪れた頃、男を包み込んでいた風が時間の経過と共に霧散して行く。
瞼を開き、男はギョロリと左目を動かして、そこに転がっている水のボトルと、ドライフルーツのパックを手で掴み取った。
「ちっ、もう少し巻き上げられなかったのか?」
「無茶を言うなよ、“死神”」
「テメェとしてやった契約を破棄してやるぞ」
「救われたのはどっちだ? よく考えて物を言え。雪雛家の忘れ形見を連れ回しているクセに、死に掛けたな。それでも、“死神”と呼ばれる討伐者か?」
「はっ、ウゼェな。その雪雛家の忘れ形見とやらを気に掛けて、ずっとストーカーしてやがる変態には言われたくねぇなぁ。あと、テメェの“七倍”の復讐は“眼”を継いでいる俺には通用しねぇ。“眼”は使えねぇが」
「……それで、雪雛家の忘れ形見はどこに行った?」
「知らねぇなぁ。なんなら、ここらで契約を切るか? 俺のあとを付いて行ったところで、あのクソガキのところに着くとは限らねぇからな」
「今回のように扱き使われるのは、甚だ面倒だ」
少年はゆっくりと“死神”の元から去って行く。
「ポンコツは『下層部』から奪い返すとして……テメェだけで、どこまで行けるか見せてもらおうか、クソガキ。言っておくが、『飲んだくれ』は二十年前の俺が唯一、勝てなかった男だ。その男すら丸め込んで、味方に付けると言うのなら……それはテメェの才能だ。そうして至る先が、再び俺と一致したなら、褒めてやるよ」
“死神”は水を飲み、そして続ける。
「まぁ、こんな『風』の変質を使えるクソガキが、期待外れにもどこかでくたばっちまうようには、思えねぇがなぁ」
【第三部 終了】→【第四部 開始】




