【-勝利の女神-】
「楓ちゃん!」
その叫びで、どこまで察してもらえるか。ここに雅は賭ける。
ケッパーに体術を叩き込まれ、武器の扱い方を教えてもらい、戦いの基礎を見てもらい続けた楓という少女に、雅の考えている意思を、呼び掛けだけで伝わったことを切に願いながら、雅はリザードマンに立ち向かい、振り回される爪を右手で空気を変質させて跳ね返しながら、自らが変質させた空気に目掛けて、紅の短剣を投げ入れた。
壊れないでよ……!
それは紅の短剣に向けての物でもあり、そしてこの空洞が崩落しないことへの祈りでもあった。戦いに運があるというのならば、これもまた一つの大きな賭けだ。
一つに触れて加速、二つに触れて更に加速、三つに触れて更に更に加速。そして四つ目に触れて、紅の短剣は音速の如き速度でもって、リザードマンの背中に突き刺さる。
リザードマンが悲鳴を上げる。しかし、あれだけの速度を伴わせたというのに彼の者は形を保っているだけでなく、短剣の突き刺さった勢いで吹き飛びさえしなかった。彼の者は足裏にある吸盤と、尾の吸盤を地面に張り付かせ、体を支えていたからだ。硬い鱗を貫いたものの、短剣は貫通せず、背中に突き立ったままだ。
突き立っていることこそが、重要であるのだが。刃が折れていない。まずこの賭けに勝つ。
そして、リザードマンの吸盤による体勢の維持は、この場この時に限っては雅にとって僥倖であった。これで空洞が崩落する心配もない。二つ目の賭けにも勝つ。
「こんな一撃で我を討てるナドと思うな、この愚か者どもガ!」
その罵りに対し、雅はニヤリと笑みを零す。
「あなたの言葉は私の心をちっとも揺り動かさないわ。それに、怒りで我を忘れるなんて、まだまだ、あなたなんかじゃ人間は越えられない」
普段から罵声の数々を浴びているからこそ、どんなことを言われても動じない。そして、この会話は時間稼ぎであり、雅へとリザードマンの意識を集中させるものでもある。
「そして、私は私自身の力に賭けてなんか、いない。ただ、あなたのたった一人で誰かを守ろうとする強い意思だけは、尊重してあげるわ」
「なにヲ勝ち誇ってい……っ!?」
勝利の女神は――リザードマンの死角に入っていた榎木 楓は彼の者に気付かれたことを察しながらも、そのまま足を止めることなく鋭く跳ねた。そして、振り返り掛けたリザードマンの背中に跳び付き、突き立っている紅の短剣の柄を両手で握り締める。
「私は頭があまり良くない子なんで、絶縁体やらなんやらはさっぱりなんですが、あなたは自分の皮膚をゴム質と言いましたね? けれど、“皮膚の内側”については、一言も仰っていませんでした」
爛々と楓の両手が輝く。
「中身も電撃を通さないかどうか、確かめさせてもらいます!!」
楓の全身から紫電の輝きが迸り、その全てが紅の短剣へと注がれる。白竜の骨と牙の粉をまぶした短剣ではあれ、それの元は金属である。つまり、その短剣には確実に楓の電撃が通る。
バチィッと耳を劈く音が二度、三度、四度も続く。その度に紫電の輝きが目を晦ませるほどに楓の手元から発せられ、同時に肉の焼ける臭いと、腐臭が鼻を衝く。
「……女、王よ……申シ訳、ありまセ、ぬ。激昂こ、そが、我……敗、北……」
「まだ生きてる!」
雅は楓に向かって叫ぶ。
意思を持っていようと、そして死に際の言葉を放とうと、容赦はしない。
海魔は人間ではないからだ。人を襲い、人を喰らい、人に害をなす最大にして最悪の脅威であるからだ。死に際の言葉でなかったならば、この油断を最大のチャンスとばかりに、この海魔は暴れる可能性がある。
だから人語を解することがあったとしても、完全に討つまで、隙も油断も見せはしない。
楓の放つ電撃が更にリザードマンに注がれ、紫電の輝きが三度空洞を包む。やがてリザードマンから声は発せられなくなり、全身から黒い煙が上がって、腐臭と肉の焼けた臭いが更に辺りを包む。もう動かない。しかし足と尾の吸盤からリザードマンは全く倒れる気配が無かった。そのため、まだ討ち取ったという感覚が掴めない。
雅は火を消すために投げた短剣を拾い上げて、彼の者の胸部にそれを突き刺してみる。驚くほど簡単に肉は裂け、そして中からドロリとしたヘドロのような液体が零れ出す。それでも彼の者は動かない。どうやら、緊張を解いて良いらしい。
リザードマンは立ったまま絶命した。死しても尚、倒れないその強い意思に、僅かばかりの敬意を払う。
「……海魔に敬意を払うなんて……おかしな話。私、いつもそんな風に思ってばっかりだ」
雅は小さく呟き、自戒する。
「ふぁあああ、どうにかこうにかって感じでしたね」
立ったまま絶命しているリザードマンの背中から紅の短剣を引き抜いて、着地する。
「私の考えていたこと、分かった?」
雅は短剣でリザードマンの胸部を丁寧に裂いて、そこからズドッと地面に落ちた心臓を拾い、ウエストポーチから取り出した袋の中へと入れた。
「私の名前を叫んでくださったときに、大体は。あれですよね? 要するに『短剣をなんとかして突き刺すから、そこから電撃を流して』みたいな。刺さる箇所は分からないから私が判断しろ、みたいな」
「当たり」
力無くその場に雅は座り込んだ。全身から力が抜けた。リザードマンの爪を何度もかわしていたとは言え、僅かに服は裂け、皮膚も裂けて、傷口から血が滴り落ちている。けれど、これは掠り傷程度だ。
「楓ちゃんは大丈夫?」
「はい。動けるんで、骨はなんとか大丈夫みたいです。あとで診断してもらったら骨の一本や二本ぐらい折れていそうですけど、今は平気なのでお気になさらずに。さすがに尾で岩肌に叩き付けられたときは、意識が飛び掛けましたけど、意地で持ち堪えました」
そんな痛みなど一切無いような、軽やかな動きで紅の短剣に飛び付いていた。この少女には、自身は体術でなにもかも劣っている。そしていざというときの気合いでさえも、教わってしまった。
悲観することじゃない……私がそれを身に付けて行けば言いだけだ。
雅はそう考えることで劣等感から逃れ出ようと試みる。
「敵いませんね、雅さんには」
落ち込んでいる雅に、楓が呟く。
「私にはあんな度胸はありません。私は、真正面から挑むのがいつも怖いから、身軽に動き回ることしかできないんです。私に向かって、石鎗や爪をリザードマンが振り回しているときは、なんで私なんだって、思ってました。でも雅さんは、そうなったとしても、そういうことを考えずに、立ち向かっているんですよね? 最後の一撃も、雅さんが布石を打ってリザードマンの行動範囲を狭めることだけじゃなく、短剣を加速させて撃ち込むことを考えた一撃。それも、角度も考えてしっかりと短剣が刺さる位置に誘い込みました。あんな、自らを囮にしてでも勝利を得る戦い方は、私には怖くてできません」
「……考えすぎ」
雅は、はにかみながら楓の額を小突いた。
「怖くて震えて、動けないことだってある。でも、戦わなきゃ死んじゃうから。倒さなきゃ死んじゃうから。だから、生きるために飛び込む。きっと、爪で切り裂かれていたらもう動けなくなっていたよ……私。それに比べて、岩肌に激突しても、諦めずに立てた楓ちゃんを私は凄いと思う」
「……雅さんに褒められると、物凄く嬉しいんです。なんかこう、ケッパーはずっと私のことを貶してばっかりですから」
「それは私も同じ。ディルに褒められることなんて滅多に無いから、楓ちゃんに言われるとむず痒くなる」
互いに「えへへ」と笑い、続いて楓は雅に紅の短剣を返す。
「これ、白にはどうやったら戻るんでしょう?」
「洗えば、良いのかな。手入れは大切だし。でも、あれだけ硬い鱗を貫いたのに、刃毀れ一つしてないのは凄いよね」
「リザードマンは竜を穢した、って言っていましたけど……あー、難しいことはあとで考えましょう」
そうだね、と雅は口から零し、二本の短剣を鞘に収め、リザードマンの心臓が入った袋をウエストポーチに強引に詰め込む。焦げていたこともあって、血液もほとんど凝固してしまっているので、ウエストポーチから漏れ出す危険性も無い。
「報酬はあとで山分けってことで」
「はい」
そこまで話をつけたところで、ガタッという音がして雅たちはすぐさま音のした方向へと振り向いた。
通路からリィが這い出して来て、雅に抱き付く。続いてケッパーが人形のあとに続いて現れ、最後にディルが通路から姿を現した。
「散々な遠回りコースだったねぇ……リザードマンは洞穴の通路全てを把握していたのかな」
ケッパーは呟きながら、雅と楓を眺め、続いて立ったまま死んでいるリザードマンに目を向ける。
「倒せたの?」
楓が首を縦に振った。
「ふぅん、僕は少しだけ、君たちを過小評価していたみたいだ。リザードマンを二人掛かりで倒す、かぁ……やれやれ、ちょっと強く育てすぎたかな」
そう呟くケッパーに対して、ディルはなにも言って来ない。
「……なんだ、その目は? 褒めろなんて言うんじゃねぇだろうな?」
「そんなこと考えてないし!」
「顔に出てんだよ! はっ、クソガキにしては良くやった方だな」
「死ぬかと思ったんだから!」
「大抵、そういうことを言う奴に限って死なねぇんだよ。そもそも俺は、テメェが死ぬと思って、ここに来させてなんかいない」
ディルからそのように言われるだけでも、雅にはご褒美だった。リィをゆっくりと地面に降ろし、続いて呼吸を整えた。




