【-運を味方につける-】
「竜ノ牙か!」
突如、リザードマンが雄叫びを上げる。
「許さぬぞ! 我ラ同胞が崇メル竜を、このような形で辱メテいるとは!」
彼の者の左腕を僅かに裂いた傷口は、隆起した筋肉によって塞がれた。そして、リザードマンは石鎗を捨てて、両手両足を用いて腹這いとなり、恐るべき速度で壁を伝って行く。そして天井付近で再び威嚇するかのような呼吸音を放ち、口が顔の大半を占めるように左右に裂ける。その合間から見えるのは、あまりにも強靭で鋭い牙の数々であった。
「喰らうてやる!! 竜を穢シタ愚か者ドモニ、流儀など見セル必要も無イ!!」
天井からリザードマンが降って来る。尾で天井を叩き付けることで落下の速度を上げてる。雅と楓が左右に避けるが、リザードマンの着地後に地響きが起こり、重量によって地面は凹み、そこにあった礫を尾で払うように回避した二人へと打つ。
雅は両手を前方に出し、礫を風圧で跳ね返す。跳ね返した礫を受けてもリザードマンはビクともしていない。楓は跳躍して礫をかわし、軽い動きで彼の者に近付き、短剣から鉄棍へと変質させて、自身の回転も加えた遠心力による一撃を見舞おうとするが腹這いのまま彼の者は素早く移動してこれを避けてしまう。
避けながら、体を回し、尾で楓の体を打ち飛ばす。雅が空気に干渉する暇も無かった。鋭い打撃を受け、楓の体が吹き飛び、岩肌に激突する。
「竜を穢したのハ貴様か!!」
楓が倒れつつも微かに動いているのを遠目で確認し、近寄ろうとしたところにリザードマンが介入して来る。大きく口を開き、唾液が飛散する。しかし、それらは雅の体にも服にも一切付着しなかった。続いて両腕にある鋭い爪で彼の者が地面を擦る。
火花が火種となり、雅と彼の者だけを包む炎のサークルが作り上げられた。
空洞の広さを利用して避けていたのだが、炎で動ける範囲を限定されてしまっている。
「殺ス! 必ず喰い殺す!」
トカゲ――むしろもう、獰猛なワニである。それも巨大で、硬い鱗を持ち、生半可な動きでは先回りされてしまう俊敏性を兼ね備えている。あの口で噛まれれば顎の力でもって、骨ごと体は粉砕されてしまう。
火は風で消せる。けれど、火を上回るだけの風でなければ、火種に風を送るが如く、ただただ火力を上げるだけになる。
そして、火を消すこと以前に、このリザードマンの攻撃を雅は避けなければならない。一撃必殺。拘りではないだろうが、激昂している彼の者の力ならば、きっと一撃で死ぬ。
ディルは常々に、海魔と戦う場合、一撃を貰ったら死んだと思えと言っていたけれど……。
そう教わって、そうならないように訓練をして来た。そして楓との手合わせにおいても、一撃を浴びないことだけに拘って立ち回った。
しかし、このリザードマンは二足歩行をやめ、半ば野生へと帰化したかのように四足歩行へと転じた。こんな海魔との戦い方は、学んでいない。
思考よりも行動を優先しなければならない。なにせ、今まさにリザードマンの顎が雅の足を噛み砕こうとしていたのだ。飛び退り、しかしすぐ後方に感じる炎の熱に全身から汗が噴き出る。
果たして熱だけでこれだけの汗が出ているのか、それとも不安から汗が噴き出ているのかも分からない。
リザードマンが跳ねる。口を開き、両手の爪を構え、雅に抱き付こうとしている。拘束し、爪で引き裂き、顎で噛み砕く。その全てが容易に想像できたため、両手を左右に広げて、空気の変質を行う。リザードマンの両腕が風圧によって弾かれ、その後、正面を睨むことで変質を終えた空気に彼の者が接触し、雅とは逆へと吹き飛んだ。
石鎗を捨てたのなら、必ず接触を狙って来る。ならばそれは、ストリッパーとの戦いの応用でなんとかなるかも知れない。あの海魔も両手に硬質化したヒレの皮を持って、雅を切り刻もうとしていたが風圧で全てをいなすことができた。
それに比べ、石鎗は厄介だった。あのリーチの上に、リザードマンの武芸が合わさって変質した空気を避けながら振り回されていた。だからこそ雅にはサポートに回っても、勝算と呼べるような隙が見つけられなかったのだが、石鎗を捨てたのなら、そして臭いで分かると言っていた空気の変質に真正面から突っ込んで来るのなら、まだなんとかなる。
『風』の変質に迷いなく飛び込んで来るのは、力で捻じ伏せる方向へと戦い方を変えたからだ。雅の集中力が切れたならば、そこでリザードマンに軍配が上がる。
雄叫びを上げたリザードマンが跳ねて、天井に張り付き、次に大口を開けて雅を丸呑みするためか頭上から降って来る。前方に走ってかわすが、続いてすぐさま体勢を整えた彼の者の爪を。振り返り様に短剣で受け流す。
怖ろしいのは、速さである。四足歩行になったかと思えば、途端に二足歩行を開始して爪を振るって来るのだ。跳躍力も危険極まりない。
そして、最も注意しなければならないのは爪による連撃を受け流している最中に視界外から回り込んで来る尾である。姿を変えてから、尾も伸縮するように変化している。そのため大きく振るわれれば鞭のようにしなる。当たれば、骨が砕けかねない。ただ、即死するほどの威力は無い。それは炎の向こう側で楓が蹌踉めきながら立ち上がったことで証明できている。
「雅さん!」
「来ないで!」
楓が来てしまえば、集中できない。爪を短剣で弾き、顎での一噛みは風圧で弾く。左、右と縦横無尽に振るわれる爪をここまでいなすのは、ストリッパーと戦ったとき以上に集中力を必要とする。
会話している暇は無い。とにかく今は、リザードマンの攻勢を凌ぎ切るしかないのだ。
リザードマンはもう言葉を発しない。武芸を捨てて、野性に戻ったかのように荒々しく雅を攻め立てる。そこには松明を「礼儀」と呼んだ海魔の姿は無い。黄色い三白眼からも、意識は読み取れない。さながら狂戦士の如く、猛り狂っている。
紅の短剣なら鱗を貫ける。筋肉も裂ける。けれど、ここまで変貌を遂げたリザードマンにその刃は突き立てられるのだろうか。出血すら筋肉を隆起させて止血させてしまうのだ。それほど硬く、そして鱗も邪魔をする。
左右に体を逸らし、時に跳ねてリザードマンの爪をかわし、反撃とばかりに剣戟を繰り出すもこれを爪で制される。制されたところで、尾が飛来する。すぐさま足元の空気を変質させて真上に異常なほど跳ねる。
天井擦れ擦れまで跳ね、降下する雅を追い掛けるようにリザードマンが跳躍する。中空で彼の者と交錯し、振られた爪を短剣で防ぐも、力任せに押し飛ばされて雅の体が地面に打ち付けられた。リザードマンはそのまま天井に張り付き、四足歩行で素早く方向転換を済ませ、狙いを定めて大口を開けて降って来る。
痛みに呻いている場合ではない。体を右に転がして、降って来るリザードマンの顎から逃れた。しかし、頭から地面に突っ込んだはずなのに、この海魔はすぐに四足歩行で体勢を整える。
「当たれっ!」
起き上がった雅に、同じく二足歩行で立ち上がったリザードマンが追撃とばかりに爪を振り下ろそうとする、その瞬間に、彼の者の頭部に鉄の矢が命中する。
刺さりはしない。硬い鱗に阻まれて、ただ弾かれる。しかし脳が揺れたのか、リザードマンは僅かに体を揺らめかせて、倒れる。雅が急いで距離を取った。
弓の射撃なら威力は人間の刺突を上回る。ただし、雅は楓がまだ弓の扱いに慣れていないことを知っている。たまたま当たっただけだ。動いていない相手にも滅多に当たらないと言っていたのだから、先ほどの援護射撃はまさに運任せの一射だったに違いない。ただし、その運任せの一射に救われたのもまた事実なのだ。
……そうじゃない。私はディルみたいに強くない。確実な勝利をもぎ取れるほどにこの海魔を圧倒はできない。そんな私の戦いは、いつだって運任せに決まっている。
楓は運を味方につけた。それは楓自身が、賭けに臨んだ結果得られた恩恵である。賭けからそもそも逃げようとしている雅にはいつまで経っても、幸運など降り注がない。
「だから、私は!」
雅は踵を返し、正面にリザードマンを捉える。右手で指差し、基準を定める。リザードマンは雅が変質させた空気を嗅ぎ分けて、大きく回り込みながら移動する。
構わない。
雅は回り込んで来るリザードマンの行く手を塞ぐように更に空気を変質させる。これで二度目。そして三度、四度と繰り返すことで彼の者の移動範囲が限られて行く。
業を煮やしたリザードマンが天井に張り付いた。真上から雅を丸呑みに、そして噛み砕こうとしている。
雅は前方に走る。そして自らが変質させた空気を避けつつ、翻る。リザードマンが落下するより地点に、リザードマンが着地するより先に空気を変質させる。
落下を始めた彼の者には、中空で軌道を逸らす方法は無い。雅の変質した空気に真上から接触する。刹那、空気が収束し、そして風圧となって彼の者を天井へと鋭く押し返した。
「まだだ!」
雅は燃え上がる炎のやや上の空気を二箇所、変質させる。そしてそこに短剣を投げた。
一つ目の空気に触れて短剣が加速して射出、そして二つ目の空気に触れて、更に加速した短剣が射出された側へと戻される。そのときに生じた強い風の流れが燃え上がる炎の一端に僅かな空間を作り出した。雅はその僅かな空間に飛び込んで、炎のサークルから脱出を果たす。
リザードマンが雄叫びを上げ、地面に降り立つ。そして炎を物ともせずに雅へと襲い掛かって来る。
だが、布石は打った。
あとは、その布石でもって運を引き寄せ、勝利をもぎ取る賭けに出るだけだ。




