【プロローグ 01】
「な、んで! この海魔の報酬がこれだけなのよ!」
納得の行かない報酬の提示に、思わず我を忘れた少女が声を荒げた。その後、周囲がシンと静まり返っていることに気付いた彼女は耳朶を赤くして、恐縮するかのように身を縮こまらせた。しかし、胸の内では未だ怒りの炎が燃え上がっており、今にもカウンター越しに査定を淡々と済ませた男に掴みかからん勢いを目に宿らせていた。
「どのような罵詈雑言を浴びせられたところで、こちらは査定をやり直すつもりはございません。これ以上、この場で騒ぎ立てるようでしたら、然るべき対応を取るだけですので」
男の肝が据わっているのか、それとも燃やす怒りに気付いていないだけか、淡々とした言葉は尚更に少女の神経を逆撫でする。
「女性一人――十六歳少女一人が今日を過ごすには充分な量だと思いますが?」
その言い方が鼻に突く。
「女だからって見縊ってるんじゃないでしょうね?」
少女は身を乗り出し、カウンター越しに佇む男にカマを掛ける。
「あなたは――雪雛さん。雪雛 雅さんですね?」
手元の資料とおもしき紙の束を機械のように素早く捲り、男に確認を求められた。少女としては反抗の意思を明確に見せるために沈黙を貫き通したいところであったが、やがて歯軋りを交えながら「ええ」と返事をする。
「今日、こちらに持って来られた海魔ですが、等級で言えば五等級。言わせれば下級の中の下級、最下級です。我々は五等級海魔の討伐に対して、相応の報酬を提示しているだけであります。五等級の海魔討伐者に与えられる報酬は、およそ一般的な生活を送っていれば足りる程度の水、と決まっております」
「たった一日分の?」
「たった一日分の、です。手元の資料によりますと、海魔の討伐回数は十回。内、五等級が七回。七回もこちらで査定を受けているのであれば、この査定が妥当であることはご理解していただいていることではありませんか?」
むしろ、と更に男は付け足す。
「たった討伐回数十回で、更には等級も最下級の海魔を寄越しておいて、一日分の水で満足できないなどという妄言を吐かれては、こちらが憤慨すべきところです」
「もしも、五等級じゃなかったら?」
「我々共の査定の正確さを疑うのですか? でしたら、他の査定所へどうぞ。どこに行っても、五等級の査定は覆らないと思いますが。その前に海魔が腐って、一日分の水すら報酬として出してもらえないかも知れませんが」
そこまで言われては少女は黙り込むしかない。男はその沈黙が納得の意を表しているのだと勝手に決め付け、海魔の回収を担当者に任せ、カウンターに水の入った容器が二本、報酬として出される。一本は少女の体重に合わせた最低限度の補給用の水。そしてもう片方の一本目と比較すればとても大きな容器は生活用水である。その両方をカウンターからずり降ろし、台車に二本の容器を載せる。
「そのように不服そうな目を向けるのなら、あなたも『水使い』だったら良かったんですよ」
鶏冠に来る言葉だった。少女――雅は鋭く男を睨め付けたのち、容器を台車から伸びる紐で固定したのち、査定所を出た。
途端、海からの風に乗って悪臭が鼻に至る。呼吸を続ける前に、気管支が悲鳴を上げ、唐突に咽てしまう。
この世界の海は腐っている。海に限らず、大地に囲われた淡水もまた腐っている。空より巡る雨粒も、雪の結晶もなにもかも、いずれ水に変わるであろう液体の全てが人体に害を成すほどに、穢されている。いつから、どのようにして、一体どんな要因があってそうなったのかは未だ判然としていない。ただ、唐突に水は飲む前に吐き出してしまうほどに舌と喉を傷付け、同時に脳を溶かし、狂人と化す。これは噂や都市伝説としてあるのではなく、実際に穢れた水を飲んだ者が、その様子を見ていたほぼ全ての人間を異常なまでの膂力でもって殺戮の限りを尽くした事件から発覚している。人間に限らず、全生物もまた然りだ。実験動物として名高いマウスやモルモットが飲めば、獰猛な野獣の如き雄叫びを上げて、同胞を喰い殺すらしい。
だからこそ、この世界に現存する全ての水は飲むことができないどころか、降って来る雨粒でさえも、まともに浴びることさえ許されない。
「くそ、小馬鹿にしたような顔! ムカつく!」
文句を垂れながら、台車を押す。容器に入れられている水の重量が両腕に相応の重さを伝えて来るが、台車さえスムーズに動き出してしまえばこの程度の重さは苦にならない。問題はここから自宅まで遠いことだろうか。どれだけ早く帰宅しようとしても、三十分近くは台車を押し続けることになる。平面であれば台車も軽快に走ってくれるだろうが、下り坂や登り坂があることを含めるならば、体力が尽きる前に辿り着けるかは五分五分である。しかし、自分は少なくとも海魔の討伐を十回は成功させている。体力には自信がある。以前よりも難なく家には辿り着けるはずだ。そんな一欠片の自信だけを頼るしかない。
「特権階級だからって、良い気になりやがって……!」
全ての水というべき水が穢れても尚、人間が生き残っていられるのは、海魔の査定を行う一部の特別な人間のおかげである。
進化論は多くの科学者から顰蹙を買い、嫌われて来たジャンルであるが、それでもこうして人間として生きていられるのはまさに進化論にそぐわぬとも遠からずの要因によってもたらされた奇跡である。
全ての水を飲むこともできず、それでは真っ当に生きることもできず、人はただ渇くに耐えられず死ぬのみだったあるときに、雅が言うところの「特権階級」と呼ぶべき存在は現れた。水が穢れた要因は分からない。そしてこの不意に現れた存在もまた、どのような過程を経て産まれ出たのかは定かとなっていない。ただ、この「特権階級」の連中は雅たちと違って、穢れた水ではなく「生きた水」を生成する力を持つ。
技術ではなく力だ。触れた物体――なんでも構わないが、特に穢れた海や水辺に潜む生物が最も効率的に飲むことのできる水を生成することができる。通常、海魔に触れる際には手袋やグローブの着用が義務付けられるのだか、彼らは素手で触り、解体し、心臓に触れて少しばかり経つと大量の「生きた水」を搾り出す。手にあった心臓や臓器は水の生成と共に形を崩して行き、やがて塵と化して消える。
こうして、人間が生きるために必要な水は彼らの力に委ねられる形となった。いわゆる『水使い』の誕生である。
それはかつて西欧で盛んに行われた錬金術が実証されたかのような興奮があった。「特権階級」として居座らなければ、全人類にとっては救いの神だ。
『水使い』として目覚めた人間は、或いは産まれ持って得た『水使い』はそのほぼ全員が査定所及び水の生成に関わる仕事に就く。金銭面で困窮することもなく、更には渇きに困る心配も無い。彼らが触れれば、たちまちどのような物質でさえ、水に変貌を遂げるのだ。
水とくれば次に必要なのは飢えを凌ぐための食物である。穢れた水は当然のことながら土壌を汚染させ、土で育てる野菜類は全て食べられない。ただし、ここにも水使いの次に属する「特権階級」に居座る『土使い』が居る。そのほとんどが汚染された土壌を肥やし、耕し、食べられる野菜や果物を育てる農家として働いている。『水使い』と『土使い』は絶対的な関係によって結ばれており、そこで行き交う金銭や食材のやり取りは一般的な生活を送る人間にはあまりにも眩しすぎて、眩暈すら覚えるほどだ。しかしながら、『水使い』と比べて『土使い』は強い拘りを持たない。広く多くの人間に生きていてもらいたい。そういった思いからか、安全な食材や加工品は市場に出回る。『水使い』と『土使い』の作り出した餌と水しか摂取しない牛、豚、鶏などの主だった肉もまた高額ではあれど、市場には置かれている。
ただ『活きた水』だけ、『水使い』が独占している。
しかし、雅は憂うことしかできない。こうして「生きた水」を得られるだけでもありがたいことなのだ。
かつて西欧では魔女狩りが流行したと雅は、中学生の頃の授業から記憶している。それは戦争不安が呼び起こした一種の集団ヒステリーに近しいもので、密告に次ぐ密告によって、列を成して女性に限らず男でさえも様々な拷問の末に死んで行った。
それがまさか、現代に至ってまた行われたなどと誰が思うだろうか。
この世界に、無能は居ない。正しくは、力を持たない人間は根絶やしにされつつある。昔から木火土金水という陰陽五行の思想があった。雅の力はその五行のどこにも属さないものであるのだが、人間はこの五行に則って力を持つべきだという思想が、最初に『水使い』が現れてから世界中に至った。
『物質に触れ、自らが持つ力に準えてその物質を変容させる力。そんな突拍子もないような力を持つ者だけが生き残らなければならない』
誰が言ったかは雅はもう覚えていない。それからは激動の数年間だった。力を使うことのできない人間は老若男女問わず、各国の機関によって殺されるか独房へと送られる。独房に送られたところで、待っているのは死刑である。これに伴い重大な罪を犯し、独房に入っていた日本の囚人の大半は一斉に淡々と死刑が執行された。その後、力のない人間が今も尚、粛清という名目で、殺されている。
雅の母は連行されたのち、帰って来ることはなかった。後日、機関より死亡した旨の書簡が届けられた。父はなにかしらの力が使えたのか、今も手紙を送って来るが雅の元に戻って来ることはない。
故に、雅は中学を出てすぐに自ら糧を得る活動を行わなければならなくなった。それこそが海魔討伐である。水を得るためには海魔を討伐しなければならない。海魔でなくとも構わないのだが、海魔であった方が得られる水の量は多い。ただの物体や石ころを持っていったところで、出される水は紙コップ一杯の水ぐらいだ。それでどうにか渇きを癒すこともできるだろう。しかし、金銭についてはどうしようもない。海魔以外では査定所は報酬として水と、等級に合わせた額のお金を出してはくれない。お金が無ければ食材を買うことは叶わず、飢えは凌げない。だからこそ、『水使い』にも『土使い』にもなれなかった人間は否応無しに海魔討伐者に身を窶すしかないのだ。
雅の討伐数は十匹。七匹は五等級。二匹は四等級。そして一匹は一等級だ。けれど、この一等級に関しては死に掛けの――どこぞの力の使い手が死闘を繰り広げたのちに逃がしたか、或いは全滅した果てに浜に打ち上げられていたものだ。査定所に持ち込み、一等級に見合う金額と「生きた水」を確保し、恐らく二年は節制に努めれば暮らせるだけの富を得たのだが、月日が経つたびに当然ながら水は減り、お金も減る。水は月日が経ち、澱もうがそれを査定所に申告すれば『水使い』が横柄な態度を取りながらも新鮮な水へと変貌させてくれる。そうやって節制し続けて一年。しかし、あと一年で貯蓄は尽きる。一日、二日と経つたびに減って行く水やお金を見るたびに、自らに宿っている命の時間すらも、減らしているような錯覚に陥る。体内時計が刻む秒針の音すら幻聴のように聞こえてしまうほどに、それは凄まじいまでの不安感を雅へと突き落とした。
だからこそ、一ヶ月前より海魔討伐を再開した。討伐に関しては特に条件も無く、資格も必要ではない。ただ、生存率については考えたくない。五等級であっても、死ぬときは死ぬ。現に雅は同じく浜へと出ていた海魔討伐者が惨殺される姿を目撃している。人間を殺したあと、海魔がすることは分かり切っているため、雅は死体を回収する余裕も無く、全速力でその浜から逃げ出した。
トラウマにもなりそうな事態に遭っても尚、雅は浜や水辺に出なければならない。生きる糧を得るためには、命すらも賭してあのおぞましき生物の命を刈り取らなければならない。そのためにはまず、他人のことよりも自分のことを優先するべきだ。
なにも考えたくない。そういった意思の表れか、雅は徐々に頭を下に向けていた。自宅まではまだ真っ直ぐ進んで問題ない。道中に阻むものもないはずだ。
しかし、視線を落としていても人影が行く先を阻んでいるのがハッキリと分かった。滴る汗を拭い、雅は顔を上げる。
数人の男が行く手を遮っている。
「退いてもらえませんか?」
雅は台車を止めて、高圧的な態度で男達に求める。言葉が伝わった様子は見られない。男達は下卑た目で雅を見つめ、続いて口を開いた。
「お嬢ちゃん、水を分けてくれたらその台車を押すのを手伝ってやっても良いぜ?」
「はぁ?!」
素っ頓狂な声が出たことに、雅自身も驚いて口を両手で塞ぐ。
食べ物を恵んでくれと市場で媚びる者はほとんど居ない。飢餓に至るよりも先に、喉の渇きが訪れるからだ。だからこそ、乞食は食べ物よりも先に「水を分けてくれ」と媚びる。
しかし、前方を塞いでいるこの男達は乞食ではない。屈強で恵まれた体格を持っているが、顔はどこをどう見ても悪人面である。人相で決め付けてはならないが、“手伝わせること”が正解だとはどうしても思えない。
この手の輩が査定所近辺をうろついていることがある。要するに、手伝う風を装って、その実は「生きた水」を奪おうとしている。こういったことはままあることで、査定所でも気を付けるようにと注意喚起がされていたが、まさか自身がターゲットにされるとは思わなかった。
「大事な物を、見知らぬ男に預けたりなんてすると思ってるわけ?」
「……あー、痛い目を見たいってか? 素直に水さえ寄越してくれりゃ、その可愛い顔がズタボロになることも、服も引ん剥かれることもなかったのになぁ」
ジリジリと、雅を囲うように男達が動く。前方に二人、後方に二人の合わせて四人。恐らく、素っ頓狂な声を出した直後から動いていた。ここには横道も無い。けれど、台車を力任せに押し飛ばして、諸共、右に広がる浜辺に転がり出ることぐらいならできる。
ただし、それが正しい選択とは限らない。一見、安全そうではあるが浜辺は海魔のテリトリーだ。腐った海から様子を窺い、油断している人間をすかさず喰らいに来る。なにより穢れた海水をもしも体に浴びるようなことがあれば、生きていられるかも定かではないのだ。
「退いてもらえませんか?」
先ほどよりも更に高圧的な態度でもって、雅が前方の男に求める。
「退くわけねぇだろ。こっちは喉が渇いてんだよ。ついでに、その体で遊ばせろよ」
この男達はどうやら水だけに限らず、雅の体すらも蹂躙するつもりであるらしい。先ほどの下卑た視線の意味を知り、震え上がる。この身に油断すれば訪れるかも知れない結末を想像できてしまった。それもこれも、直感的に分の悪さを察してしまったためだ。十六歳の少女が屈強な男を四人も相手取って、勝てるわけがない。
勝ち筋があるとすれば、ここは強行突破しかない。
覚悟を決めて、雅は台車を押す腕に力を込め、全体重を預けるようにして前方へと駆け出す。一度、止めてしまったために充分な加速を得ることができない。それでも立ち塞がる二人のどちらかにぶつけてしまっても構わないという突撃に賭けた。
「よっと」
思っていたよりもすんなりと男が道を開ける。その間を通り抜けたところで、重々しくも走り出していた台車の車輪が悲鳴を上げた。前輪が道路から隆起した岩に引っ掛かり、弾け飛んだ。傾いだ台車に釣られて、全体重を預けていた雅もバランスを崩し、そのまま前のめりに倒れ込んでしまう。
「なに、して……」
「『土使い』でも、職にありつけないこともあんだよなぁ。やっぱ仲間を放っておくわけにも行かねぇし、しょうがねぇだろ」
起き上がろうとしたところで背中を踏み付けられた。だが、頭は変に醒めていてどうして台車の前輪が弾け飛んだかの解明に勤しんでいた。
前方二人は囮で、後方の二人どちらかが『土使い』。強行突破を決め込んだ雅を見て、早くも道路に触れることでピンポイントで道路から岩を突出させた。でなければコンクリートで塗り固められたこの道に、突如として地面と繋がるほど大きな岩が突き出して来るわけがない。
「で、嬢ちゃんは処女?」
とんでもないことを口にした男になにか言おうとしたところで、背中を二度踏み付けられ、呻き声を漏らす。
「その強情っぷりから見て、処女っしょ?」
どうやら、雅を足蹴にしている男が他の三人を束ねているリーダー格らしい。となると、この男は見立て通りの『土使い』である可能性が高い。他の三人が陰陽五行のなにに属した力を持っているかは定かではないが、こんな低俗な連中にもヒエラルキーはあり、『土使い』であるというだけでその頂点に君臨することができているらしい。
うつ伏せから仰向けにされた雅が、激しく抵抗するものの両腕を二人の男が押さえ、もう一人の男が雅に布で作った轡をはめ込む。両足は『土使い』の男に強引に開かされて、あられもない格好をさせられてしまう。これだけでも相当の辱めであったが、これでこの四人が満足するはずがない。
悲鳴を上げようにも轡をさせられていて、くぐもった声しか出ない。
「それじゃ、初物、頂きまーす」
そんな軽い言葉と共に雅のショーツを剥ごうとした男だったが、浜辺から聞こえた異様な雄叫びに気を取られ、そして首がそちらに向く。
続いて、男の頭をすっぽり覆うほどに巨大な水の塊が飛来する。飛来してから男の頭に直撃するまでは、刹那である。しかし、その一瞬が数十秒にも間延びしたかのような感覚に囚われてしまうほどに、それは唐突であり、突然だった。雅の目は男が唖然としていた表情も焼き付け、そして耳は「え?」という状況の理解が追い付かないときに発する言葉を拾っていた。
男の頭が、火炙りにされたかのように焼け爛れ、雅の両足を開かせていた力が一切、無くなる。ジュウジュウと、焼ける音はノイズのように耳からまだ離れない。そして男の体が水の塊が飛んで来た方向とは逆に、力無く倒れ伏した。そこでようやく、水の塊が男の頭を解放してドロリとコンクリートを赤い血の色に染め上げて行った。
残った男三人がほぼ同時に、野太い悲鳴を上げる。轡を嵌められている雅には叫ぶ余地すら無い。両腕を押さえていた二人の男の力が緩んでいたことだ。解放された両足を駆使して、水の塊を浴びて動かなくなった男の体を蹴飛ばし、続いて力の限り抵抗することで男達は雅の拘束を解いた。
「んーっ! んぐんんん!」
叫びなのか怒声なのか、自分でもよく分からない声を発しながら両手で布の轡を解いた。
「体に水は…………浴びてない。なら、良いの、か?」
通常の水という液体ならば、物体に当たった直後に周囲に弾けるものであるが、男を襲った水はヌメリと、粘液のように頭を覆い尽くした。そして男が倒れてから弾けた。ならば、どう考えても一般的な水とは考え難い。
浜辺からモゾモゾとなにかが這い上がって来る。たまらず残った男三人が逃走を試みる。しかし、道路に現れた異形の生命体は、逃げる三人をギョロリとした独特の眼を動かして確認すると、言葉とは到底言い難い、妙な音を発声させる。
目の前の生命体から視線を外すことになってしまうが、後方の様子を窺う。三人の男が同種と思われる異形の生命体から放出された粘液を浴びてしまったらしい。そして、粘液の一部は異形の生命体の発達した舌から垂れる涎と繋がっており、そのまま異形の生命体が男達を浜辺へと引き摺って行く。なにやら抵抗を試みているようだが、糸や縄のようには行かない。彼らを焼き、そして捕らえているのは粘液だ。手で力尽くで引き千切ろうとしたところで、そんなことは不可能なのだ。
「フィッシャーマン……だ、っけ」
語源は釣り人や漁師を指すフィッシャー。ただし、前方の異形の生命体――海魔が釣るのは魚ではなく人間である。そして竿は必要とせず、自身の水袋より生成された粘液を獲物に付着させてそのまま腐った海に引き摺り込む。時にはテリトリーとしている浜辺で、獲物となった人間を食すこともある。
魚と人間を足せばギルマン、サハギンなどと呼ばれる海魔だが、このフィッシャーマンの見た目はどちらかと言えば蛙に近い。ただし、鱗や鰭、海中で呼吸するための鰓は魚に近い。海魔の特徴など、どれもこれも付け合わせたような不気味さしかなく、マジマジと観察したのは雅もこの日が初めてである。
フィッシャーマンは口を閉じたのち、モゴモゴと頬袋を膨らませ、続いてダバリと先ほど狙い撃ちした男の体に粘液をぶっ掛けた。涎のように垂れる粘液を伸縮させるだけでなく、人間が持ち得ない圧倒的な膂力によって男を宙に放り出し、そしてそのまま男は彼方の腐った海に落ちて行った。釣り糸を切るように粘液を断ち切り、フィッシャーマンの視線が遂に雅に向いた。
先ほどまでの狙いは四人の男。そして、次の獲物として雅は選ばれてしまったらしい。