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(8)

「菊田君。来てくれたのね」

 喫茶店に足を踏み入れるなり、柔らかな声が耳に届く。そこには、窓際の席につく律子の姿があった。

 カフェオレが注がれたカップをソーサーに置き、眩しいばかりの笑みをこちらに向けている。

「無理言ってごめんね」

「いや、全然」

 菊田は店内をきょろきょろと見渡しながら、律子の正面の席に腰かけた。

 喫茶店などに入った経験がほとんどないためか、どうも落ち着かない。

「え、ええと」

 とりあえず店員を呼び、たどたどしい口調で注文する。それを見ていた律子は、心配そうに眉根を寄せた。

「こういうところって、あんまり来たことないの?」

「最低限しか、外に出ないんだ。たまに近所の公園に行くくらいで。食事は、ほとんどコンビニの弁当で済ませてるし」

「自炊しないの?」

「滅多に……。この歳で、情けないよな。台所なんて、お湯を沸かす時しか使わないし」

「そんなことないわ。独身で一人暮らしだったら、男の人ってそんなものだと思うわよ。栄養とか、大丈夫かなって思っちゃうけど」

 やがて、注文したブラックコーヒーが運ばれてきた。菊田は慣れない手つきでカップを手に取り、一口すする。

 入れたてのものを飲むのは、一体いつ以来だろうか。時々口にする缶コーヒーとは違い、芳醇な香りがスッと抜けていく。

「……美味い」

「でしょ? 私、ここのコーヒー大好きなの。菊田君も、気に入ってくれるんじゃないかなって思ってたんだ。だって昔、コーヒーが好きだって言ってたものね」

「よく覚えてるな、そんなこと」

「こう見えても私、記憶力はいい方なの」

 律子は得意そうに言うと、カフェオレをフーフーと冷ましながらすすった。

 ああ。確か彼女、猫舌だったっけ。

 そんなことを思い出していると、律子は再びカップをソーサーに戻して顔を上げた。

「私、よくここに来るの。仕事の帰りに寄って、コーヒーを一杯飲むと疲れがとれるのよ。今日みたいな休みの日も、時々顔を出してるんだけどね」

「そう、なんだ」

「ねえ。今、仕事探してるんだよね。バイトばかりって言ってたけど、定職に就く気はないの?」

「……」

「あのね。私の知り合いの会社で、何人か雇うって話が出てるみたいなの。よかったら、面接受けてみない?」

「ごめん。そういう話は、聞きたくないんだ」

 菊田はうつむいてふう、と息を吐く。

 律子はそれを見ると、たちまち表情を曇らせた。

「……本当は言いたくないんだけど、菊田君ってまだ自分のことを不幸を呼ぶ人だって思ってるの?」

「!」

 もしかして、あの日のことを覚えていたのか?

 菊田が驚きのあまり目を見開くと、律子は呆れた顔つきで続けた。

「言ったよね? 記憶力はいい方だって。初めて菊田君と話した日のことは、今でもよく覚えてる。元々菊田君は、教室にいる時はずっと哀しそうな顔をしてた。けど、あの日の菊田君は特に哀しそうにしてたから……どうしても、放っておけなかったの。話を聞くことで、助けになれないかなって思ったの。だからあの日、私は菊田君に声をかけたの。ねえ、定職に就きたくないのって、人と深く付き合いたくないからでしょ? 自分と関わりを持った人が死んじゃうんじゃないかって、怖くなるからなんじゃないの?」

 何もかも見抜かれていたことを知らされた菊田は、無言のまま唇を噛みしめる。膝に乗せられた拳は、微かに震えていた。

「もしかして、ずっとそうやって生きていたの? 誰かを不幸にしないために、ずっと独りで生きてきたの? 外にもほとんど出ないで、誰とも関係を持たないで。そんなの、あんまりよ。そんな哀しい生き方、どうして……」

「俺は」

 意識したつもりはなかったというのに、口から勝手に声がこぼれ出た。

 話を急に遮られ、律子は驚いたようだったが、最も仰天していたのは他でもなく菊田自身だった。

「俺、は……」

 どうせ、信じてもらえやしない。死期が近い人間を感知できるだなんて、そんな馬鹿げた能力のことなど。わかってはいる。頭では、嫌というほど理解しているつもりではある。だが、もう黙っていられない。限界だ。

 菊田は囁きに近い小声で、ボソボソと語った。

「見えるんだよ、俺には。見えてしまうんだ」

「見えるって、何が?」

「ひ、人の……人の……」

「……? あれって、坂口君?」

「え……っと……」

 唐突に律子の口から飛び出した言葉に、菊田はつい耳を疑う。

 何故ここで、坂口の名が出てくるのだ。

「どうかした?」

「ほら、後ろのテレビに映ってる人。インタビュー受けてるの、坂口君じゃない?」

 店内には、小さな壁掛け式のテレビが設置されていた。音は消され、字幕だけが黙々と出演者の声を伝えている。

 その画面の中で、でっぷりとした腹を揺らす男が照れた様子で取材のマイクを向けられている。それは、あのお節介男の坂口であった。

「これ、録画かしら。奥さんとの関係についてのインタビューみたい。坂口君ったら、悪態ついちゃって。本当は奥さんと、ラブラブなくせに……あれ、どうかしたの」

「…………」

 テレビを食い入るように見続ける菊田の顔は、凍りついたかのように硬直しながら青ざめていた。

「嘘だろ? 嘘、だろ?」

 彼の瞳に映っていたもの。それは、パクパクと口を動かし続ける坂口の周りに付きまとう黒い靄。よく肥えた御身を覆い隠すように、ぐるぐると渦を巻いている。

「そうか。お前、そうか……」

 菊田の口元が、ピクリと動く。口角が次第に上がっていき、それに合わせて闇のような暗さを宿す目は細くなっていった。

「菊田……君?」

 坂口を見て哀しそうに笑い始めた菊田を、律子は訝しそうに眺めた。

 あまりにも不可解な素振りに、彼が何かを口にしかけていたことなどすっかり忘れ去られてしまう。

「……ふふ。は、ははは……」

 菊田は画面が街頭からどこかのスタジオに切り替わるまで、力なく笑い続けていた。

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