(5)
あれは蝉の鳴き声がどこからか響く、夏の日の放課後のことだった。
菊田が一人教室の席でぼんやりしていると、律子が引き戸を開けて中に入ってきた。
当時から菊田はろくに友人を作らず、クラスでも特別親しい者はいなかった。律子とも、クラスが一緒になってから一度も口をきいたことがなかったはずだった。
しかしこの時何を思ったのだろう。彼女はいきなり、菊田に声をかけたのだった。
「どうしたの? こんな時間に、一人で」
「……あ、ええと」
予期せぬ事態に菊田が戸惑っていると、律子はさらに続けた。
「悩みでもあるの? だったら、私に相談してみなよ」
「あ、いや。俺、全然牧村さんと仲良くないし」
「あんまり親しくないからこそ、話せることもあるんじゃないかなって思うけど。だって菊田君、教室にいる時ずっと暗い顔してるんだもん。前から気になってて」
菊田はこの頃から、自身が持つ能力について悩んでいた。それが自然と、普段から表情に出てしまっていたのだろう。
「……そう。そんなつもり、なかったんだけど」
この日の悩みもまた、例の能力についてのことだった。
菊田は数日前、家に訪ねてきた父の後輩に黒い靄がかかっているのを目にしていた。そしてその人物は、帰宅する途中で歩道橋から転落して亡くなったのである。彼はまだ若く、その日のうちに死ぬと予見できる者などおそらく存在しなかっただろう。
「…………」
人の死を感知し続ける日々が続くうちに、菊田はいつしかこう考えるようになってしまっていた。自分の能力は死期の近い人間の感知などではなく、目にした人を死に誘う力なのではと。全てがそうとは言い切れなかったが、今まで自分が死期を感知した人間は、あまりにも突然命を落とす者ばかりだった。そのため、心理的に不安定になりかけていた彼は、どうしてもそれを疑わずにはいられなかったのだ。
誰でもいいから、苦しい心情を理解してほしい。しかし、肉親ですらも受け入れてくれなかったくらいだ。ろくに話をしたことがないクラスメイトに、こんなオカルトじみた能力があると打ち明けたところで信じてもらえるわけがない。それでも、誰かに聞いてもらいたい……。
菊田は迷った末、ところどころをぼかしながら話してみることにした。
「あのさ。馬鹿みたいな話なんだけど、俺と関わる人が、みんな不幸になってる気がするんだよ」
「不幸って?」
「例えば、だけど。家に来た父さんの後輩が、帰る途中で事故に遭ったり。俺とすれ違ったと思ったら、落ちてきた看板に押し潰された人もいたかな……。昔から、そういうことがやたら多くてさ。まるで俺が不幸を振りまいてるみたいに思えて。何か俺、死神みたいだなって」
「そんなの偶然だって。だって、もし菊田君が不幸を振りまいてるんだったら……菊田君と関わる人が死んじゃうんだったら、この学級にいる人、みんな死んじゃうってことでしょ? クラス替えから結構経つけど、三年二組は誰一人として欠けてないわよ」
「これから起こるんじゃないかって、怖くて。これからだんだんと、目に映るようになるんじゃないかって。俺……」
「目に、映る?」
「……いや、何でもない。何でもないんだ。とにかく、話を聞いてくれてありがとう」
菊田は何度か首を横に振ると、哀しそうに笑った。
「俺にはもう、関わらない方がいいよ。そろそろ帰った方が」
菊田にとって、これは別れの挨拶のつもりであった。しかしそれを見た律子は、帰るどころか眉をつり上げてこう言ったのである。
「菊田君はね、自分で自分を死神にしてるんだよ」
「え……?」
思いがけない言葉に、菊田は動揺して目を丸くする。
律子はそれを気にも留めず、話し続けた。
「よくわかんないけど、人の寿命って神様が決めるものでしょ。それなのに、どうして菊田君に関わる人がみんな死んじゃうってことになるの? 菊田君は、私やみんなと同じ。神様でも、死神でもない。人間なんだよ。そんな風に思い込んでたら、身の回りで起きてることが全部そういう風に見えちゃうよ。自分を死神にしてるのは、菊田君自身なんだよ」
自分を死神にしているのは、自分自身。
律子の言葉は、菊田の胸に深く突き刺さっていた。
そう言えば、自分はいつからこのような考え方をするようになってしまったのだろう。気がつけば、自分が周りを不幸にしているような、そんな感覚に襲われるようになって。
……それにしても、彼女は何故口をきいたことのない相手に、ここまで親身になってくれるのだろう。ろくに接点も持たない、赤の他人なんかのために。
「だから、そんな哀しくなるようなこと言わないでよ。ね?」
窓からこぼれるオレンジ色に照らされながら、律子は微笑む。
教室まで突き抜けてくる蝉の声が、菊田の耳にはやたらとこびりついていた。




