(11)
菊田は息を切らしながら、通りの方に出た。通行人の姿はちらほら見えるが、肝心の律子は見当たらない。
「もう、行ってしまったのか?」
それでもあきらめず、しきりに周囲を眺める。すると数メートル先に、横断歩道の近くでダークブラウンの髪をなびかせる後ろ姿がポツンと立っているの見えた。どうやら、信号が青になるのを待っているらしい。
しかしそれと同時に、俄には信じがたいものが目に映り込んでいた。
「……!」
彼女の身体の周りを、靄が。あの、死期が近いことを知らせる黒い靄が、すっかり包み込んでいる。
つまりそれは、律子に死が迫っていることを示していた。
「何で、何で牧村さんが死ななきゃいけないんだ。これから何が……」
菊田が混乱している間に、信号が切り替わり青色の光を灯す。それに合わせて、律子はうつむきながらとぼとぼと歩き出した。
その時、他の車が静止する中、一台のワゴン車が動きを止めずに奥から直進してきた。それも、何のためらいもなく彼女目がけて。
このままでは、黒い靄が示す運命が現実となってしまう……。
「俺の、能力の意味」
ここで脳裏に一瞬、手紙に記された律子の言葉がよぎった。
『菊田君がこんな力を持っているのには、何か意味があるのかもしれません。』
あの一文が、すっとかすめたのだった。
「俺の、力は……」
いや、考えている余裕などはない。湧き出た衝動が、身体を突き動かすだけだった。
「牧村さん!」
菊田は大声で叫びながら、横断歩道へ猛進した。
その声を聞いた律子は、ようやくハッと顔を上げる。
「き、菊田君? あっ……」
身に迫った危機を自覚した時には、既に車は目の前。瞬時に身をかわすことなど、恐怖にさらされた彼女にはとても不可能であった。
「危ない!」
だが、律子が車体に接触することはなかった。菊田が両手を勢いよく押し出し、彼女を歩道に向かって突き飛ばしたからだった。
その代わり、ワゴン車は飛び出してきた菊田を、辺り一帯に響き渡る鈍い音と同時に宙へと誘った。
世界が目まぐるしく回転したかと思うと、硬いアスファルトに腹から叩きつけられる。衝撃によって内臓が傷ついたのか、口からはゴボッと血が溢れ出た。
突然の出来事に、周囲は騒然となり人々はパニックに陥る。しかしそれらが奏でる雑音の数々は、菊田の耳にみじんも届いてはいなかった。
「あっ……うう……」
菊田には幸い意識はあったが、身体が言うことをきかない。とりあえず、律子の無事を確認しようと目だけで姿を追う。
律子は歩道の近くで、うつ伏せに倒れていた。その身体に、黒い靄のような物体は取り巻いていない。あの忌々しい靄は、すっかり消え失せてしまっていた。
「牧……村……さん……」
菊田は無事を確かめようと、激痛が走るのを押して律子に近づいていく。足に全く力が入らないため、腕だけでボロボロになった身体を引きずるようにして少しずつ進んだ。
「大……丈……夫……?」
意識が朦朧とする中、グッと首を上げて律子の顔をのぞき込む。失神しているのか、目は閉じられていた。
息も絶え絶えになりながら、菊田はかすれる声で彼女に思いのたけを語ろうと試みた。
「俺……やっとわかった気がする……この力が……何のために……あるのか……」
言葉を形作るのがやっとという状態であるため、届いているのかは定かではない。それでもかまわなかった。どうしても感謝の意を、直接伝えたかった。
「牧村さんの……お陰で、どう生きればいいか……わかった気がする。俺は……人を……。牧村、さん?」
しかしここで、菊田は異変を感じた。途中で口を閉ざし、律子の頭部付近に視線を移す。
額の辺りから血がドクドクと流れ出ており、彼女の頭が乗った縁石は赤黒く染め上げられている。先程からピクリとも動かず、ぐったりとしたまま何の反応も示さない。
「そ……んな。こんな……ことって……」
指先で背中に触れてみたが、返事はない。温もりこそまだそこにあるが、既に……。
何もかも悟った菊田は目をカッとこじ開け、激しく身震いをした。
「お、俺が……俺が? 牧村さんを? 俺が……突き飛ばしたから? 助けよう……と、したから?」
もう、抑えることができない。これまで胸の内に押し殺してきた、負の感情が。取り留めもなく、思考を支配していく。
胸が圧迫されるように絞めつけられ、はあはあと荒々しく息を吐く。視界は段々と現実のものからかけ離れ、端から塗り潰されていくように真っ黒になっていった。
「俺が、俺が? みんな、俺が? 俺は、やっぱり……俺は。俺、は。うわ、あ、ああ。うわああああ――――!」
今にも砕け散りそうなほど痛む頭を押さえながら絶叫を上げる。
それを制止するように血反吐が口からボトリとこぼれ落ちると、崩れるように倒れ伏した。