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斬られ用心棒

作者: 舛田 久

 井野早太は、夕餉の後片づけをする八重の後ろ姿を見ながら、梁に架けられた紬にぼんやりと目を向けていた。八重が仕立てたものである。

 八重は近所ではもちろん、隣町からも、着物の仕立てやら、仕立て直しの内職を取ってきては、夜な夜な針仕事に勤しんでいる。

 どうやら、同じ長屋に住む女同志で、事ある毎に仕事の口を見つけてきては、それぞれ得意な仕事を分け合い、収入の足しにしているらしい。

 壁には作りかけのものやら出来上がりの、いつも違う着物が吊るされていた。

「今日、郷里の姉さんから文がありました」

 茶の支度をしながら、八重は楽しそうに言った。

「出戻りの姉上か。何とあった」

「出戻り暮らしの愚痴事です」

 思い出し笑いをしながら、八重はえくぼを作った。

「郷里に帰って、薬やら塩やら、珍しい物を置く店を作って、商いをするつもりだと書いてありました」

「姉上らしい」

「本当に。女だてらに、って言われることを、わざとやってるみたい。子供の頃から」

 歳の離れた姉に、一番かわいがられたのが八重という。そのためか、何かと問題を起こす姉の一番の味方は八重であった。


 隣町にある刀鍛冶に預けてあった長太刀を取りに行った帰り、早太は雅に声を掛けられた。

 雅も早太同様、浪人の身だが、所帯を持たず気ままに暮らしているせいで、同い年の早太よりいくつも若く見える。

「桃太郎の噂は聞いとろう。ゆんべも出たらしいぞ」

 江戸八百八町はこのところ、この桃太郎の噂で持ちきりだった。早太は飲み屋の卓に忘れられていた、汚れた瓦版を見ただけだったが、何でも、悪代官やら悪商人らの屋敷に、風のように現れ、一味を皆殺しにする、凄腕の怪剣士だという。

「西谷流道場の師範も斬られたそうじゃ。一度に八人もの用心棒がやられて、代官も肩からばっさり。どんだけの神業使いじゃろう」

「しかし、半月ほど前か、遊び人の善次とかいう男が、一矢報いて手傷を負わせたとか」

 雅はあからさまに馬鹿にした顔で、団子を頬張った。

「遊び人のなまくら刀で太刀打ちできるものか。善次といえば札付きの大法螺吹きじゃ」

「そうなのか」

「おうよ。あちこちの屋敷で大枚はたいて雇った師範代が誰も敵わぬ相手に、素人刀で触れられよう筈もない」

「そうか」

「そうよ。しかし、いよいよわしらも覚悟を決めにゃなるまいぞ。我が君主殿、大黒屋吉兵衛という男も、桃太郎に斬られるべく生きているような悪商人じゃ」

 早太は大黒屋の屋敷に出入りするようになってすぐ、吉兵衛の供をして、初めて同行した時の事を思い出していた。雪が降りそうな冬の日であった。

 高利貸しも営む大黒屋と、いくつかの取立てをした。と言っても、早太は刀を差し、吉兵衛の傍らに立っているだけだった。あらかじめ決められた返済だが、最後の最後になって、吉兵衛に直談判をしよう、あるいは開き直って期日を延ばそうと企てる輩の気力を無くさせるのが、早太という存在の役目だった。その為、大したもめ事もなく、金は集まった。

 早太の驚く額であった。

 陽もすっかり落ち、飯を食ってから出直すか、と吉兵衛が話していた時、桶屋の陰から白装束の男が飛び出してきた。突然の事だった。

 走り寄る男の腰高に、白い短剣の光を見て、早太は太刀を抜き払った。

 吉兵衛以外は眼中に無かったのであろう。男は、言う事をきかなくなった足腰を不思議そうに見ながら、どう、と倒れた。腰を抜かして尻餅をついていた吉兵衛に覆い被さろうとしたが、吉兵衛ははしこく後じさり、それを避けた。

 後に聞いた噂では、男は病の女房の薬代を吉兵衛に借り、その返済のために家屋敷も出て働いていた。それまでの苦しい生活に加え、無茶な返済が祟って、女房はあっけなく死に、男は死神のような姿で働き続けた。牛の屠殺場での仕事を見つけた男は、人の嫌う仕事を一手に引き受け、短期間で大金を作ったらしい。男の懐には、吉兵衛から借り受けた額の金が入っていたそうだ。借金は借金、借りは返した上で、女房の敵を討とう、という腹づもりだったのだろう。吉兵衛を手にかけた後は、その場で自害する覚悟だった筈だ。

 吉兵衛に悪い噂は絶えなかった。

 ご禁制の阿片をどこからか手に入れ、求める人間に売りさばいている、というまことしやかな話もあった。

 また、貧しい農村から器量良しの女児を買って来ては、関西の人買いに流していることも、早太は人づてに聞かされていた。

「井野よ。お主はわしのやり方が気に食わぬ様じゃな」

 ある時、吉兵衛が酒を飲みながら言ったことがある。

「お主の父上が健在の頃は、わしとてさほど悪どい事をしていた訳ではないのだ。まっとうな商売だけで十分、食べていけたからのう。だから、父上の道場が立ち行かんという折も、幾莫かの助け船を出してやることもできたのじゃ」

 道場主をしていた早太の父は、実直な武士ではあったが、道場というのは、生徒にとっては学び場でも、主にとっては商売である。商いの才がなければ傾いてしまう。

 早太の父は、知り合いに利用され、だまされ、やむなく道場を閉めざるをえなくなった。その時、吉兵衛が、師範ごと道場を買い取ったのだ。

 早太の父にとっては渡りに船。大黒屋の用心棒としての任を強要されはしたが、早太は父から、大黒屋は恩人だ、と聞かされ続けてきた。

「私に不満不足などございません。武士として主君の命に従うは、本望でございます」

 父親同様、武士という立場に正直であった早太の言に、満足した吉兵衛は話題を変えた。

「近頃、巷では、もののけのような侍が現れると聞く。早太。正体に心当たりはないか」

「さあ、いずれ名のある剣豪であれば、太刀筋から、正体とは言わぬまでも流派がわかるやもしれません。しかし、噂にも上らぬところを見ると、まったく無名の輩ではないでしょうか」

「おとついの晩、江戸屋の二代目が屋敷で切られたのは知っておるな」

「はい」

「昨日になって、猪介と清十郎が暇請いを、と抜かしてきおった」

「猪介と清十郎が」

 二人とも吉兵衛が抱える用心棒である。早太ともよく道場で手合わせしたが、一人前の技量の持ち主であった。その両人が抜けるとなると、用心棒たちを束ねる人間は、早太と雅の二人になってしまう。その雅も暇乞いを匂わせる事を言っていた所だ。

「明日から、新たに人を募る。事は急を要するゆえ、有象無象が集まってくることになろう。手間だが井野殿、手合わせで吟味してくだされ」

 吉兵衛がわざと、井野殿、と慇懃な言い方をした事で、早太は気が重くなった。


 金目当ての役立たずばかりが集まってくると覚悟していたが、思いのほか、剣術にも風格にも優れた浪人たちが集まってくる事に、早太は驚きを覚えていた。

 吉兵衛が、破格の礼金を約束する、と瓦版に載せたせいもあるが、江戸の外からも噂を聞きつけて、男たちが姿を見せた。

 吉兵衛は至極満足であった。

 商売敵とも言える江戸の商家がいくつも根絶やしにされ、その上、桃太郎などという歌舞伎者の首を取れば、向こう十年は大黒屋の一人天下が約束されるようなものだ。

 集まった面構えは吉兵衛のその目論見を見事、果たすように思えた。

 大黒屋の新たな用心棒の選定をし終えると、二三日は、屋敷のしきたり、法度事などを教え込ませながら、屋敷防御の算段などをして過ごしたが、昼は、用心棒たちにとって休みの刻であった。

 吉兵衛に許しをもらい、早太は朝から八重と連れ立って、玉川へ行った。

 子供のように、前の晩、天気を気にしながら、重箱に詰める具を作っていた八重は、見事な日本晴れの朝日に手を合わせるほど喜んだ。

 二人で他愛の無い話をしながら、川上へ続く道を歩き、大きな桜の根元に腰を下して弁当を食べた。

 母を早くに亡くした早太は、子供の頃、こうしてのんびりと過ごした記憶が無かった。

 八重はいつに無く口数が多く、故郷の話、子供の頃の話、日頃考えている由無し事を早太に言って聞かせた。

 早太は穏やかに聞いているだけだったが、ふと、このまま八重と二人でどこかへ旅をし、流れついた土地で暮らしたら幸せになるような気がした。


 しかし、早太には武士というものが身体に染み渡っていた。たとえ、悪事を働くものであろうとも、主である限り、命を賭けて守るのが存在意義とでもいうものであった。

 しかし、大黒屋のような悪人が減れば、不幸になる人間も減ることも事実に思えた。しかし、また、吉兵衛には大恩があることも事実。雇われ人の立場で、人の道を意見する事など出来よう筈もなかった。

 様々な妄念が頭を支配する中、桃太郎という剣士こそ、全てを収める要のような思いに囚われている自分に気付いた。

 屋敷に着くと、既に夕餉の片付けも終わり、用心棒たちは思い思いの過し方をしていたが、その中に空々しい日常芝居のようなものを感じた。皆、それを感じていた。

 誰も口に出さなかったが、今晩この日、怪剣士がこの屋敷に現れ、一同を斬殺する、そういう確信が、誰の胸にもあった。早太は周りの用心棒を見回した。若い者はほとんどいない。みんな、ここしばらくの間に暇請いをし、あるいは黙って消えた。残った顔は、頼りない者ばかりか、と言うとそうではない。むしろ、これまでこの大黒屋に雇われ、抱えられた面々の中で、最も武士らしい集団に思えた。

「島田殿、貴殿は若い用心棒に、やんわりと屋敷を出るよう説得されたそうな」

 早太は自分より年長の、新参用心棒である島田に問うた。一度、質してみようと思っていた事である。島田はピンと背筋を伸ばしたまま、「いや、口が減れば、分け前が増すと思ってな」と笑った。

 嘘であることは明白であった。

 島田だけでなく、近頃、入れ替わるように収まった男は皆、金のためにこのような仕事をする人間にはない、悲壮さと、実直さ、落ち着きを持っていた。

 早太にとって、それは誠に武士にふさわしい魂の宿主であった。

「死ぬのは我らだけで十分、と申されたそうな」

 特に親しくしていた若者から、屋敷を去る前、聞いた話である。不意に、部屋にいた者たちの動きが止まった。酒を飲む者は杯の、刀手入れをするものはその、暇に任せて紙縒りを縒っている者はその指が、つかの間止まった。

 ここに残った人間は皆、死を覚悟している。

 早太はそれに気付くと、自分もとうにそれを臨んでいることを知った。自分を日夜悩ませているものは、自らの立場であった。主君が悪事を働いていると知っていても、大恩からそれに加担せざるを得ない立場。しかし、純然たる武士の血はその立場を捨てて主を裏切る、という行為を許しはしない。ならば、望ましい最後の姿とは、真剣の勝負にて、主を守るために戦い、天魔覆滅の法をもって成敗される、ということではないか。

 早太は天啓のように、事の真相を見たような気がした。

 桃太郎に斬られた用心棒たちは皆、手練れの、誇り高い者ばかりではなかったか。

 彼らは皆、わざと武士の正義のために、あるいは腐りきった世に一石を投じるために、敵の前に無防備な構えを晒したのではなかったか。

 各流派免許皆伝級の手練らが何十人も切り捨てられるなど、ある筈もない。むしろ、間合いを正しく知らぬような素人なら、闇雲に刀を振り回し、傷を負わせることもかなう。

 早太は確信した。桃太郎なる怪剣士は世を憂う最後の侍たちによって生み出され、命を賭けて育てられてきた幻なのだ。むろん、その幻も玄人には違いあるまい。自分たちはその幻と協力し合って、忠義とは、道徳とはと、民に、お上に突きつけながら、自ら斬られているのだ。

 知らず涙を流していた早太は、屋敷の中庭に一人の男を見た。

 男は芝居の面を付け、白い着流し姿で刀を抜いた。

 島田が前へ進み出て「おのれ、曲者」と叫んだが、その声に早太は歓喜の色を見て取った。

「ひとおつ。人の生き血をすする……」剣士が数え歌のような言葉を発するのに合わせ、島田は鋭く斬り付けた。だが、早太にはその踏み込みの間の悪さがはっきりと分かった。いや、傍目には十分に思い切りの良い、正しい踏み込みに映るだろう。早太とて、そのような疑いの目で見ていたからこそ、一瞬ともいえぬ程のわずかなずれ、大げさに言えば、わざと隙を作り、高段者でなければ攻められぬ様な、しかも致命的な隙をさらけたのだ。

 瞬間、ごうという音と共に、島田の腹が横に断たれた。

 それを合図に次々と用心棒らが斬りかかり、返り討ちに遭った。

 見事な刀さばきであった。

 きらめく刃の光は、目にも止まらぬ速さで一気に急所を切り、斬られた方は苦痛を感じる暇もなく、こと切れていた。安らかな顔で倒れているものもあった。

「これでいいのだ」

 用心棒の誰かがそう言ったのか、早太自身がつぶやいたのか、耳元に声が届いた。

 早太は酔った時に似た心地で、吸い込まれるように怪剣士の前に身を躍らせた。

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