永い愛
性描写も暴力表現も無いに等しいと作者は思っていますが、怖いからR15タグは入れておきます。
まあ、文章上の描写や表現はともかく、大人向けの話ではあるんで。
隈なき月が、赤く暗く、夜空に浮かんでいた。
闇は地上を優しく包み込み、光の下で生きる者達に癒しと安息を与える。閑静な住宅街には喧騒も遠く、微かな街灯の明かりだけが、寝静まる家々をぼんやりと照らし出していた。
その大きな屋敷にも、明かりはない。豪邸と呼んで差し支えない木造建築だが、そこに歴史を刻んだ年輪はない。一代で財を成した男が築いた城にある重みは、せいぜいが数十年といったところだろう。
今、一つの人影が、高い塀を軽々と飛び越えて庭園へと降り立った。
血のように赤く暗い月を見上げる瞳は、今日の月と良く似た紅く昏い熾火。病的なまでに青白い頬は、弱い月光のためだけではあるまい。なのに、頬の血色を全て吸い取ったかのように、唇は血のように深い紅なのだ。
ぐるる、という獣の唸りに人影は振り返る。赤い月を頭上にいただくそのシルエットは、紛れもなく成熟した女のそれ。黒いロングコートを羽織っているのに、豊満な身体のラインはシルエットだけで男をいきり立たせるだろう。ふわりと舞った背中に届く長い髪は、赤い月光を反射して尚、銀色に輝いている。月を背後に立っているのに、瞳は血光を放って止まない。その目が、放し飼いにされた大型犬を射抜く。いかなる不審者も見逃さず吠え掛かるはずの番犬が、顎を地に着けて震え始めた。その目には、闘争心の欠片もない。
「ごめんなさい。夜は、私の世界なの」
冬の夜を瞬時に凍てつかせ、同時に熱く溶かす声は、妖艶という言葉でさえ足りない。間違いなく、人外の艶だった。職務放棄した番犬を憐れみ、むしろ慈しみ労う言葉に、番犬の震えが止まる。まるで主人に許されたかのように尻尾を振り、女を見上げた。白磁のごとく白く透き通った手が、番犬の頭を撫でる。魅入られたように、犬は女の細い指を舐め始めた。そのしなやかな指の、なんと淫靡なことか。舐められながら、頭を撫で、大きな耳をなぞり、喉元をさする。勇猛な番犬の姿は既になく、ただ弄ばれ、弄ばれることを悦ぶ子犬だった。
ひとしきり番犬を弄ぶと、女はおもむろに腰を上げ、指を鳴らした。犬は遊び足りない様子だったが、おとなしく塒へと戻って行った。柔らかい微笑で見送り、女は屋敷の縁側へと歩を進めた。慣れた手つきで編み上げのロングブーツを脱ぎ、縁側に足をかける。
男は、今際の際にいた。
貧しい農家で生まれたが、腕っ節を買われて賞金稼ぎとして大陸を股にかける青年時代を送った。東に人食いの魔物が出れば、剣を持って出かける。西に山賊が現れれば、村の自警団に雇われ剣を振るった。一線を退いた後は、冒険者や傭兵を相手にした酒場の経営を始める。その傍らで、趣味の登山に精を出し、それをきっかけに新しい銀鉱山を発見。採掘と同時に、銀を多く含有した武具の開発と販売をした。優秀な対妖魔武器として高値で取引され、莫大な財を築くに至る。
現在は会社の経営、家督を子供や孫達に譲り、郊外に立てた屋敷に妻と使用人達と共に静かに暮らしている。妻を愛し、家族を愛し、妻からも家族からも愛され、慕われていた。人間に害をなす魔物や妖物の駆逐のために尽力した人物として、地域住民からの信頼も厚い。孫達も結婚し、最近では子供を連れて遊びに来る。曾孫の無邪気な笑顔を見るのも、彼の楽しみの一つだった。
だが、彼は老いていた。波乱万丈の人生も、もうすぐ終わりを告げようとしている。特別大きな病はない。子供達も孫達も、妻だって、彼の老い先が長くないだろうことは知っている。だが、幕引きがもう目の前であることを感じ取っているのは、彼自身だけだった。そのはず、だった。
いつになく、眠れぬ夜だった。
ベッドの中で目を閉じても、余りに多くが頭を駆け抜けていく。貧しい農家で苦労したこと。ただでさえ貧しいのに、農作物を魔物に荒らされたこと。農作物だけでなく、両親までも魔物に奪われてしまったこと。復讐心から、魔物や悪人を退治する賞金稼ぎになったこと。いつ死んでもおかしくなかった賞金稼ぎ時代。もうダメだと諦めかけたことも、一度や二度ではなかった。それでも、戦友や、時の運、巡り会わせと幸運なタイミング、色々なものに助けられてどうにか生き延びてきたこと。いくつかの恋愛と、別れ。妻との出会い。結婚。出産。一線を退いても、若い戦士たちの何かの助けになればと酒場を始めたこと。そこでの様々な出会い。トラブル。趣味の登山で遭難しかかったこと。遭難をきっかけに、新しい鉱山を発見したこと。採掘が軌道に乗るまでの苦労。失敗ばかりだった、銀製の武器の開発。何度も挫折を味わい、破産寸前にまで追い込まれたこともあった。それでもなんとかやってこれたのは、人々を脅かす魔物に対する憎しみと復讐心。そして、彼を支えてくれる仲間、家族達のおかげだった。
これが、人生の最後に見るという走馬灯なのだろうか。
辛いことしかなかった。そんな風にも思える。それでも確かに、幸せはあった。いや、幸せなのだと彼は思う。それは、事業が成功したからとか、そういうことではなく。
やるだけやった。精一杯生きた。そう、彼には思えた。受け入れたはずでも、やはり死に対する恐怖は微かに残る。だがそんな恐怖とも、手を繋いだまま死ねる。
昨日、遊びに来た孫夫婦が帰る時、曾孫が見せた笑顔。見送る妻の笑顔は暖かく、彼もまた同じ顔をしていた。
思い残すことなど、何もない。
曾孫の笑顔で、走馬灯も終わるはずだった。
だが、最後に現れたのは、銀色の髪の美貌だった。
──本当に? 本当に、何もない?
瞼の裏で、悪戯っぽく女が笑う。
長い間、忘れていた顔だった。いや、忘れようとしていただけかもしれない。忘れられるはずがないのだ、あの女のことを。
「久し振り」
瞼の裏ではなく、それは確かに彼の耳に入り込んできた声だった。全てを凍らせてしまうほど冷たいのに、全てを溶かしてしまうような、あの恐るべき艶の声。
ゆっくりと目を開きながら、頭を巡らす。部屋に明かりは点していない。確か、今夜は皆既月食だ。だから、窓から差しているはずの月光が、こんなにも弱々しい。どこか血のような赤みを帯びた月光の中で、女のシルエットがぼんやりと浮かび上がる。
背中に届く銀色の髪、病的に青白い肌、血をそのまま垂らしたような瞳と、口唇。ロングコート越しでもわかる、成熟した豊満な女の身体のライン。
「……君、か。何十年ぶりだろう」
血光を放つ瞳から目を逸らせない。身体の奥が熱を帯び、古い火傷の痕のように疼く。甘くてほろ苦くて、心地良いのにどこか落ち着かない。さらりとしているのに濃密で、まるでそんな上質の綿実油が身体の内側から満ち溢れるようだった。
隣で眠る妻の寝息が聞こえる。きっと今夜は目を覚まさない。理由もなく、彼は確信していた。
「五十年ぶりくらいかしら? 正確にはわからないけど」
悪戯を仄めかす少女のように女は笑む。暗がりでよく見えないが、見えずとも彼にはわかっていた。三十前後の大人の女の顔。だが時折、酷く幼く見える彼女。きっと、五十年前から少しも変わっていないのだろう。
「君は、変わらないな。本当に、五十年前のままだ」
男はベッドから半身を起こす。おそらく夜明けを見ることはないだろうこの身体がこんなにあっさり動いたことも、この女を前にしては驚くに値しなかった。
「わかっていたつもりだが、こうして変わらない君を目の当たりにすると……まるで夢でも見ているかのようだよ」
無邪気ですらあった女の笑顔が、僅かに翳る。
「夢……ってことにしておいてあげてもいいわよ?」
闇にも温もりがあるものだと、男は五十年ぶりに思う。自然に口元が緩む。
「しかし、どうして突然?」
おそらく明日の朝には冷たい屍と化しているだろう自分の最期を、まるで看取りにきたようだ……という言葉は飲み込んで。
足音もなく、衣擦れの音さえもなく、女はベッドに近づき、腰をかけた。間近で見る彼女の顔は、五十年前と何一つ変わらず美しい。病的だが、透き通るような白い肌は男の手を吸い寄せて止まない。熾火の瞳には、身体ごと飲み込まれそうだ。ルージュも引かないのに妖しいまでに紅い唇に、口付けたくなる衝動に駆られる。
「ん。なんとなく、会いたくなったの」
男の膝に手を添えて、女は耳元に囁いた。黒檀の香りがした。
五十年など、瞬きだ。男は時間を一瞬で跳躍する自分を感じる。心は、かくも簡単に老いた身体を超越し、吐息がかかるほどの距離にある五十年前へと帰っていくのだ。
「俺は」
声が震えているのが自覚できた。だが、上辺だけの羞恥心は、身体の芯に疼く火傷の痕を癒しはしない。
「君を、愛していた」
こんなに誰かを激しく愛することは二度とないと、胸を掻き毟った夜はいくつあっただろう。それも、時の経過が優しくしてくれた。そんな夜さえ、愛しく思えるようになったのは、どれだけの夜を越えてからだったのか。
なのに、今。何かが、身体の深奥から外へ溢れ出んばかりだった。
「忘れなさいって、言ったのに。しょうがない子ね」
言葉とは裏腹に、目を細める女の顔には隠しきれない喜びがあった。
男の腹の中に、どす黒くドロドロしたものがわだかまった。このまま強引に女の肩を掴み、ベッドの下に押し倒す自分の姿が脳裏にフラッシュした。何度も重ね合わせた女の肌の感触が蘇る。しっとりとして、絹のように心地良い肌。ひんやりとしているのに、内側は他のどんな女よりも熱かった。決して融けることのない氷の中に閉じ込められた紅蓮の炎は、男の身体も心も燃え上がらせた。
男は大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
「我侭なところも、変わってない」
「失礼ね。我侭なんかじゃないわよ」
頬を膨らませ、ぷいとそっぽを向いた。
我侭で、短気で、大人ぶっているくせに中身は丸っきり子供で。なのに、その白く細い腕で、豊満な胸に抱かれていると、怖いくらい安らいだ。我侭も、包み込むような優しさも、男は愛していた。
だが彼女は、「忘れろ」と言い残して男の前から姿を消した。それから五十年。「忘れろ」と言ったくせに、彼女は自らここへ来た。男に会うために。
「君は」
「ねえねえ。今は?」
男の言葉を遮り、女は質問する。
五十年前もそうだった。
確かに自分達は愛し合っていた。当時もそう思っていたし、今でも彼はそう信じていた。あの頃、二人は確かに愛し合っていたのだと。
だが、今も昔も、必ず頭をよぎる。本当に、彼女は自分を愛していたのか。
男は何度も囁いた。ベッドで、耳元で。愛していると。必ず彼女は「私もよ?」と答えた。いつも「愛している」は省略されているだけだと思っていた。自分達の愛を信じて疑ってなかったつもりだったが、彼女の口から「愛している」という言葉を聞きたかった。そして、聞こうとすると、いつも遮られたものだった。
「そりゃ、ね、貴方には奥さんも子供も孫だっているし、幸せな家庭を築いてたって、知ってる」
女はずいと身を寄せる。柔らかい胸が、男の腕に当たった。
「嘘でもいいの。もう一回、『愛してる』って、言って?」
男にとって、天使にも悪魔にも見える微笑だった。
五十年前、最後に彼女と話した時のことを思い出す。「ごめんなさい。私のことは、もう忘れて」と言って、彼女は去った。追いかけても、手が届かなかった。
「俺は、君を本当に愛していた。だから、君と『同じ者』になって、永遠に君の傍にいたいと思った」
女の眉間に皺が寄る。右手を男の肩に添えたまま、彼の膝に乗せていた左手を自らの胸元に引き寄せる。
「俺は、君を愛していたんだ。心の底から。どうしてなんだ。どうして」
声が掠れた。鼻を啜ると、大袈裟なくらい部屋に響いた。
女が俯く。愁いを帯びた仕草も美しく、尚のこと男の火傷が疼いた。胸元で握り込んだ女の白い手が震えていた。
沈黙は静寂を呼び、静寂は耳鳴りとなって男を突き刺す。
女が顔を上げると、視線が交錯した。紅の熾火が揺れていた。
「貴方には、わからないわよ」
「何が?」
「貴方は、憎んでいるはずよ。私みたいな化け物を」
女が顔を背ければ、銀色の髪がすぐそこだ。香る黒檀に手を伸ばしそうになり、男は拳を握り締めた。
「君は、俺以上に憎んでいた。君と『同じ者』は特に」
びくりと、女の肩が震える。
「魔物を憎んでいる俺から見ても、君の『奴ら』に対する憎しみは異常だった」
彼女と出会ったのは、人間の生き血を啜る不死身の化け物の退治を請け負った時だった。
「思い出すわね。初めて会った時のこと」
銀色の髪が揺れた。女が窓の向こう側を臨んでいるようだった。
恐ろしく強い敵ということで、彼以外にも名うての賞金稼ぎやハンターが集められていた。その中に、まるで無名の女魔道士がいた。妖魔との戦いは討伐隊の勝利に終わったが、彼と女魔道士以外は全員死亡した。
女魔道士は、同じような生き血を啜る化け物ばかりを執拗に狙っていた。そこに、尋常ならざる憎悪を、彼は感じたのだった。
彼の何を気に入ったのか、女魔道士は「狩り」を彼にちょくちょく手伝わせた。「敵」は完膚なきまでに叩きのめし、塵一つ残さない。時には八つ裂きにし、時には有無を言わさず消し炭にしていた。非人道的と言われても仕方のない「狩り」を、何度も目の当たりにした。まさに、彼女自身が激しく燃え盛る火炎のようだった。その苛烈なまでの憎しみに、男は恐れ、同時にどうしようもなく惹かれた。
だがその理由を、男は知らない。「奴ら」にどんな恨みがあるのか。そんな彼女がなぜ、「奴ら」と同類なのか。何度となく聞いたことはあったが、全てはぐらかされていた。
「君は、『奴ら』とは違う」
それは、恋人ゆえの贔屓目ではなかった。不死性、人智を超えた膂力と魔力、独特の赤い瞳と、屍蝋のように白い肌。彼女と「奴ら」の共通点は多い。だが「奴ら」は、彼女のように陽光の下を歩くことは決してない。人の生き血以外は口にしないという「奴ら」と違い、彼女は普通に食事を摂る。
なぜ違うのか。彼女はそもそも何者なのか。五十年前にも彼を悩ませた疑問が、次々と甦る。だが、そんな疑問を今更どうしようというのか。老いた自分にできることなど、ないのだ。
──老いた自分
男の心臓が大きく脈打つ。
「奴ら」の最も恐ろしいところは、「奴ら」に血を吸われた者は、死後、「奴ら」と「同じ者」となって甦ることだ。
かつて男は、自ら彼女と「同じ者」となって永遠に傍にいることを願った。
もうじき、男の命は儚くなるだろう。死の恐怖が、ないわけではない。
今、彼女が目の前にいる。
思い残すことはない? 本当に?
妻の寝息が聞こえた。
彼女を失ってから出会い、辛い時も楽しい時も常に傍にいてくれた妻。男は妻を愛していたし、今でも愛している。
寝返りを打つ妻に、どきりとする。髪はすっかり白くなり、所々薄くもなっている。顔には深い皺がいくつも刻まれ、その歩んできた人生の年輪を感じさせた。それは、男自身も同じだった。共に歩き、共に年を取ってきた。
誰よりも彼を愛したのも、妻だった。
彼は妻を愛している。だがそれは、今目の前にいる銀色の髪と白磁の肌、紅い瞳と口唇を愛していないということにはならない。
しかし、彼女は自分のことを本当に愛してくれていたのだろうか。あれほど激しく憎悪を燃え上がらせた彼女の炎が、愛情となって自分を焦がすことを切に願っていた。
愛されていたと、男は信じる。だが、それは「奴ら」に対する憎悪に勝るものだったのだろうか。
「奴ら」が必死で命乞いをしても、彼女は決して許さなかった。
──貴方達は、そうやって命乞いをした人の血を吸い、殺したでしょう?
艶然と笑って、彼女は「奴ら」の働いた非道以上の非道さで「奴ら」を滅ぼした。人間の女と恋に落ち、駆け落ちした「奴ら」を恋人の目の前で惨殺したこともある。そんな時でも、彼女は笑っていた。まるでそれが悦楽であるようにさえ、男には見えた。だが、彼女の紅の瞳はどこか虚ろだった。男には、彼女が何を見ているのかわからなかった。「奴ら」が罪もない人を殺し、悪事を働くから憎んでいるのではないと思えた。彼女にとって、「奴ら」は「奴ら」であるというだけで惨殺するほどの憎悪の対象なのだ。それは「奴ら」を見ているようで見ていない。「奴ら」を憎んでいるように見えて、その実、別の何かを激しく憎んでいるのだと思わせた。ただ闇雲に「奴ら」を始末する彼女の姿は、何かを求め、追いかけて追いかけて、手を伸ばしている少女のようだった。
男は、五十年の時を経て、全てを理解できた気がした。
彼女は本当に自分を愛してくれていたのか。それは、取るに足らない疑問だった。
彼女はやはり、彼を愛していたのだ。確かに彼は、愛されていたのだ。
だから男は、「本当に自分を愛してくれていたのか」とは聞かないことにした。
「君は、何をそんなに憎んでいたんだ?」
彼女が振り返る。瞳の熾火が、今までに見たこともない程に、昏く昏く輝いていた。
「君は、誰をそんなに憎んでいるんだ?」
紅の口唇が微かに吊り上がったのを、男は見逃さなかった。
「全ての元凶。『奴ら』の全てを生み出した張本人。私を、こんな身体にした男よ」
低く、艶のある声は、もはや凄絶と言えた。男の全身の肌が粟立ち、老いた身体の底から情欲が膨らんだ。この女を抱きしめ、押し倒し、無茶苦茶に犯してしまいたかった。
この女は、何十年も、いや、ことによったら何百年もの間、たった一人の男だけを憎み続けてきたのだ。
急速に全身から力が抜けていく。その強い情欲と衝動は、彼の命の最後の輝きだったのか。
代わりに、疲労感が全身を満たした。気だるく、しかし、とても気持ちよく眠れそうな疲労感。
「少し、疲れたな」
男は、起こしていた半身をゆっくりと横たえる。
「そう。ごめんなさい。急に押しかけたりして」
「いいんだ。会いに来てくれて、嬉しかったよ」
女が微笑む。目を細め、ほんの少し首を傾けて、白い歯を見せた。薄暗いのに、男は眩しさに目を細めた。不意に、男の視界がぼやける。
「あらあら」
懐から純白のハンカチを取り出し、女は男の目元に当てた。
変わらず血光を放つ瞳が、ゆらゆらと揺らめいている。重くなる瞼に耐えられず、男は目を静かに閉じる。真の暗黒の中で、頬に熱い何かが滴るのを感じた。
「おやすみなさい……」
深い海のような声だった。
目元に触れるハンカチの感触。少しひんやりとしていて、それでいて内側に炎にも勝る熱を秘めた、しなやかな指の感触。
「ありがとう。おやすみ……」
男は、貧しい農家で生まれた。
炎のような女と出会い、恋に落ちた。
女と別れ、妻と出会い、愛し合い、結婚した。
曾孫の無邪気な笑顔を見送った。
今際の際に、かつて愛した女と再会した。
思い残すことはない。
──本当に?
もちろん、本当さ。
自分と同じように年老いた妻の寝顔が男の瞼に浮かび、そして消えた。
多分大丈夫と私は思っているけど、もし、問題のある表現や描写があったら教えてください。
つーか、ビビり過ぎなのか、私?