第十七話 王女として
結局朝食が出来上がった頃には、手のひらに出来た傷は完治してしまった。それほど深くもない傷に態々ガーゼで見えないように覆ったのは今も心配そうにこちらを見つめるエティエンヌのためだ。
治療しているだけで悲鳴を上げていたほどだから、隠した方がいいと判断したのだろう。
普段だったらそんなことなどやりもしないくせに、随分とこの姫君には入れ込んでいるようだ。
あんまり入れ込みすぎて坩堝にはまらなければいいが。そんなことを思いながら、エレアノーラはガーゼを外すと、傷一つ残っていない手のひらをエティエンヌに見せた。
零れ落ちんばかりに瞳を見開くエティエンヌにエレアノーラは金色の瞳を細めながら、呆れ声で言った。
「だから言っただろう? あの程度の傷など、傷のうちに入らんと」
「本当に傷が治っていますわ。あんなに血が溢れていましたのに……」
回復魔法で傷を癒したわけでもなく、塗り薬を塗っただけ。その事実に興味を惹かれたのか、エティエンヌはしきりに感心していた。瑠璃色の瞳がキラキラと輝き、色々質問してきた。
一体何の薬を使ったのだ? とか、何の材料でその薬は作ったのか? など息を吐く間もなく質問攻めされる。
しかし、そのどれもがエティエンヌに言ったところで理解には程遠い内容だったため、はぐらかしていると、朝食の準備が終わったことで彼女の一旦意識が離れた。
興味をもったものにはとことん追求するタイプのようで、楽しそうに微笑みながら「後でちゃんと教えてくださいね」とエレアノーラに勝手に約束を取りつけるのを忘れない。
朝から疲れる姫君だ。と、溜息を禁じえないエレアノーラは皿に盛られた果物に手を伸ばした。
ナイフで食べやすいサイズに切り分けることなく、そのまま齧る。柑橘系の果実は甘酸っぱく、口の中に果汁が広がった。
バルドシュア王国では中々、新鮮な果実は手に入らないため、ノアディアが買い出しに行く際には出来る限り果物を買ってくるように言っていた。
王族であるエティエンヌならば毎日のように食事に並んでいるに違いない。パンを小さく千切りながら食べるエティエンヌは美味しそうに唇を綻ばせている。
食べることが幸せで仕方がないと言わんばかりの笑みだった。ふと、姫君が不思議そうに首を傾ぐのが見えた。
「スープは食べないのですか?」
「レギナは他人の作った料理は口にしないよ」
「え? そうなのですか?」
苦笑気味に笑うノアディアにエティエンヌは瞳を瞬いた。その顔には困惑の色が浮かんでいる。
エレアノーラは態々喋る気もなく、黙々と果物を齧り続けている。不機嫌そうな雰囲気すら醸し出すエレアノーラに肩をすくめたノアディアが代わりに教えてくれた。
「他人が作ったものは何が入っているか分からないからだそうだよ」
「でも、これはウィレム様が作ってくださったのですよね?」
手元に置かれたスープに視線を落としながらエティエンヌは呟く。勿論そうだよ、とノアディアは頷いた。
「今も彼女は僕を信用してない。と言うわけではない、けど――自分の作ったものしか口にすることが出来ないんだ。恐ろしくて出来ないと言ったところからな?」
ちらりとこちらを窺うように視線を向けるノアディアを無視しながら、エレアノーラは最後の一口を口の中に放り込んだ。咀嚼しながら席を立つ。何時もと変わらぬ無表情のまま、お喋りなノアディアに釘を刺した。
「あまり余計なことは喋るな、ウィレム」
「わかっているさ。それよりどこかに行くのかい?」
「ようやく王国兵がやって来たようだからな。駆逐してくる」
そう呟くや否や、エレアノーラの足元に魔方陣が広がった。真っ赤な光を放ち、その場から姿を消した。
王国兵と聞き、腰を浮かばせたエティエンヌを真正面から受け止めるように見つめたノアディアが柔和な笑みを浮かべた。
「どうしたんだい? 顔色が悪いよ?」
「今……レギナ様が……王国兵が、やって来たと。そうおっしゃっていましたが……」
「うん。不可侵の森の手前までやって来ているみたいだね。きっと全員殺されるにちがいない。彼女は人間が大嫌いだから」
笑みを浮かべたまま首肯すれば、息を呑むのが分かった。口元を覆った指先がカタカタと小刻みに震える。
零れ落ちんばかりに見開いた瑠璃色の瞳を眺めながら、ノアディアはなんてことなさそうに呟く。
「君はレギナに望みを叶えてもらうためにここまでやって来たのだろう? 全てを捨てても構わないと、そういったのは君じゃないか。その覚悟は嘘だったのかい?」
「それは本気です! でも……私を連れ戻しに来た王国兵たちにも、家族はいます。それに、何も皆殺しにしなくとも……」
震える声には戸惑いの色が浮かんでいた。
それをあえて無視し、ノアディアは微笑み続ける。それはまるで張りつけたような、薄っぺらな笑みだった。
「じゃあ、僕たちに抵抗しないで殺されろというのか? 君は。向こうはこちらを殺そうとしているんだ。だったら、こっちもやり返すのは当然だろう?」
むしろそれの何がいけないのか分からないとノアディアは呟く。穏やかな口調の裏に隠された、残酷すぎる言葉にエティエンヌは今にも泣き出しそうなほど顔を歪めた。
唇を震わせながら何かを言葉にしようとするが、上手く言葉にならないのか、顔を伏せてしまう。
確かに彼女のいうことはわかる。王族である前に、一人の人間として、自分達のいっていることを受け入れられないのだろう。
そもそもノアディアの言葉を受け入れてしまえば、人ではいられなくなってしまう。だから、彼女は何が何でも否定しなければならないのだ。
どんな理由があろうとも、願いを叶えてもらう身であったとしても、自分の願いのために他人が犠牲になる必要はないのだから。
彼女を連れてきた手前、自分は何も言える資格がないのだが、正直いってしまえば、エレアノーラは優しすぎるのだ。
人間嫌いであるにも関わらず、彼女を連れてきた自分を最終的には許し、更には王女の願いも叶えるという。
それもエレアノーラが大嫌いな女性にそっくりな王女だというのにも関わらず、だ。そこに自身の望みを叶えるためとはいえ、一朝一夕で出来る内容ではない。
それに心優しいエレアノーラは何だかんだいっても王国兵を無闇に殺戮したりしないだろう。
命の尊さ、儚さを彼女は何より知っているし、だからこそ命を簡単に捨てると言い切れるエティエンヌが信じられないに違いない。
しかし、一度伏せられた眼差しは更に強い光を宿し、ノアディアを貫く。自分の意思を曲げない頑固な所は、もしかしたら血筋なのかもしれない。
懐かしい者を見てしまったようにノアディアは瞳を細める。まるで、過去の光景を見ているかのようだった。
「確かにウィレム様のいうことは分かります。でも、だからといって皆殺しする理由にはなりません。私はまだこの国の王女です。契約を果たさない限り、私はこの国、強いては民の命を守る義務があります」
「でも、君がここにいるから彼らは僕らに襲いかかってくるんだよ? そこのところはどうなのかな?」
「そこは適当にあしらって下さい! 命を落とさない程度に! レギナ様は傲慢大陸最強の魔術師なのですから、そのくらい出来るはずですわ!」
「随分むちゃくちゃなこと言うね、君は……」
半ば呆れたように呟きながら、つい笑みを漏らしてしまった。食事の最中に席を立つのはマナー違反だが、今回だけは目を瞑るとしよう。
椅子から立ち上がったノアディアはエスコートするようにエティエンヌに手を伸ばすと、微笑んだ。
「本当に覚悟が出来ているというのなら、自分の目で見てみるといい。レギナの実力がどれほどのものなのかを」
エティエンヌは気圧されたように身体を震わせたが、深く頷いた後、ゆっくりとノアディアの手に己の手を重ねる。
ノアディアは歌うように呪文を唱えた。
「風ノ息吹」
その言葉に反応するように、部屋の中に風が巻き起こり、二人は浚われるようにその場から姿を消したのであった。