第十六話 嵐の前の静けさ
翌朝、日が昇る頃に活動をはじめたエレアノーラはまず、周辺の状況確認からすることにした。
昨夜のうちに依頼を終わらせたのか、既にヴェルンヘルたちは己の大陸に帰っている。
ヴァールも可笑しなことをした様子もなく、届けられた報告書の内容は簡潔なものだった。
しかし、この報告書を仕上げたのはヴェルンヘルだ。意図的に書いていない部分もありそうだと、最初から信用していないエレアノーラは、いつもどおり箒に跨ると、慣れた様子で空へと舞い上がる。
白んだ雲の合間を縫うように、箒は軽やかに上昇した。そのまま不可侵の森を抜ければ、見慣れた景色が視界に広がった。
普段と何ら変わりなく、辺り一面に草原が広がっていた。風に揺られ、葉がざわめく。
一応ヴァールは仕事をしていったらしい。
その後も異変がないか周辺を回ったが、特に異常は見つからなかった。念のため姿が見えないように魔法をかけてはいるが、それでも人間たちに見つかるとも限らない。
感知能力に長けている者は姿が見えなくとも、魔力で発見したりもするため、出来る限り地上から離れた上空から見下ろすことしか出来なかった。
それよりも、王国軍がどこまで兵を進めているのか気になっていたのだが、どうやらまだ来ていないようであった。
奇襲をするなら、夜から明け方にかけてくるのかと思ったのだが、どうやら予想が外れたようだ。
まあ、どちらにせよ魔法陣で移動してきて一気に攻めてくる方法なのは分かっているので、好きにさせることにする。
もしかしたら、ヴァールが何か仕出かしている可能性も捨てきれぬ今、深追いは禁物と判断したのだ。
ヴェルンヘルの報告書には目ぼしい内容が書かれていなかったが、奴のことだ。熊と書かないでおいた可能性も否定できず、改めて連絡をとることにし、いったん探索を打ち切ることにした。
箒を旋回させ、屋敷まで戻る。
頬を突き刺すような冷たい風が頬を叩く。東の空は明らみ、薄く輝いていた。同じ屋敷内とはいえ、人間と一夜を過ごしたのは随分と久しぶりのことだった。
思い出すように瞳を伏せる。
かつて共に過ごした屋敷の主を思い出しながら、口元を緩ませた。まるで指を絡めるように、銀色の長髪が大きく靡いた。
「久しぶりの来客に喜んでいるのか? それとも、子孫を一目見られたことがそれほどまでに嬉しいか?」
もちろん返事はない。エレアノーラは幾らか穏やかな表情を浮かべながら、弄ばれるように揺れ動く髪を押さえた。
「――そうだな。この穏やかな時が永遠に続けばいいのに」
だが、彼女は知っている。その願いが叶わぬことを。少なくとも、穏やかな生活はノアディアがもたらした姫君と共に大きく砕け散ったのだ。
今更戻ることなど出来ない。それにエレアノーラは望んでしまったのだ。過去と決別し、未来に進む道を。
それなのに今更戻りたいと願うなど、それこそ傲慢以外の何物でもない。そう割り切ると不可侵の森を抜け、屋敷の庭に降り立った。
屋敷の周辺には柵が張り巡らされている。森の中には野生の動物はもちろんのこと、魔物も存在する。
そしてそれらが不用意に屋敷に侵入しないようにするための柵でもあり、逆に彼等にとってもそれは一種の境界線であった。
これより先に入り込まなければ、エレアノーラに殺されることはけしてないからだ。
こちらを窺うように見つめる視線を追い払うように森へと視線を向ければ、慌てたように消えるのが分かる。
弱いくせに、好奇心だけは旺盛で困る。エレアノーラは溜息を零しながら箒を片手に手入れをされた庭を歩く。
庭園は主に薔薇を中心に植えられており、色とりどりの薔薇があちこちに咲き誇っている。
多種多彩で、今歩いている場所は桃色の薔薇が咲き乱れていた。
朝露に濡れた薔薇は初々しくありながら、凛と顔を表に上げ、咲いている。綺麗なその光景にエレアノーラは手を伸ばすと、棘があるにもかかわらず、手折った。
指先から血が零れ落ちるが気にしない。むしろ魔力の篭った血は良い肥料となるのだ。
魔力を大量に浴びて育った薔薇は、それは美しく妖艶な色香を漂わせ、大輪の花を咲かせる。
その魔力に取り付かれた者達が、より素晴らしい薔薇を咲かせるために、魔力を持つ者を殺し、肥料にすることは別に可笑しな話ではない。
むしろよく裏で取引される薔薇はそういう風に育てられているものが多かった。まあ、自分の場合は少しだけ血を零しただけだから、それほど問題はないだろう。
とはいえ、一定の場所だけに血を滴らせるのはあまり良くないため、適度に距離をとりながら薔薇を手折る。
両手が真っ赤に染まる頃には、腕の中に大量の薔薇の花束が出来上がっていた。
迷路のように入り組んでいる道を迷うことなく、突き進んでいく。冷たい風が甘い香りを運んでくる中、ふいにエレアノーラの足が止まった。
目的の場所は目の前だ。だが、そこに一人の女性が立っていた。エティエンヌだ。
木漏れ日に晒され、柔らかにウェーブかかった金髪が光を反射し、綺麗に色を変えている。白皙の頬に影を落とす、金色の睫毛の下からは吸い込まれそうな瑠璃色の瞳が木の下に設置されたそれを眺めていた。
まるで天上の天使が地上に迷い込んできてしまったかのように、完成された一枚の絵画のようだった。
純白のイブニングドレスに身を包んでいたから尚更そう見えてしまったのだろう。
エレアノーラが用意したものだから型こそ古いが、素材は高級なものだし、こうしてエティエンヌが着ていてもさほど違和感がなかった。
ふと、エレアノーラが見ているのに気づいたエティエンヌが顔を上げるとドレスの裾を掴み、挨拶する。まるで花のような笑みが広がった。
「おはようございますレギナ様」
「ああ、おはよう」
幼い頃から礼儀作法を嫌というほど教え込まされてきたのだろう。どこからどう見ても完璧な仕草だった。
さすが三大美女。何をしても様になる、とどうでもいい事を考えながらエレアノーラは近づくと、エティエンヌが見ていた墓の前に立った。
それは今から数百年前に死んだ男の墓だった。墓石に彫られた名に見覚えがあったのか、じっと名前を見つめている。
今とってきたばかりの花を置くと、エティエンヌが控えめに聞いてきた。
「レギナ様、このお墓に刻まれた名前のことなのですが……フォレスト=リジェ=マースディンって、もしかして……」
「フォレスト? ――ああ、あれのことか。フォレストはこの屋敷のかつての主だった人間だ。数百年前に死んだが?」
「では、あのフォレスト卿で間違いないのですね! まさか、このような場所で会えるなんて思ってもいませんでした」
あれが生前何をしていたのかエレアノーラは知らない。だから同じ王族であるエティエンヌが、あの凡人のことを知っていても可笑しくはなかった。
可笑しくはないのだが、継承権も低く、国王にもなっていないフォレストのことを何故知っているのだろうか?
特に何か功績を残すような奴でもなく、ただ平凡過ぎる男だと思っていたのだが。
不思議に思っていると、突然エティエンヌが悲鳴をあげるのが分かった。
大きな瑠璃色の瞳がエレアノーラの手を凝視している。つられて視線を落とすと、素手で薔薇を手折ったせいで、傷だらけになった手のひらがあった。
今も血が滴れ、零れ落ちる。今にも手を伸ばしてきそうなエティエンヌに己の手を庇うように後ろに回すと、呆れたように溜息を零した。
魔術師の血に不用意にふれると、面倒なことになるのを知らないのだろうか? まあ、一般の魔術師の血を口に含んだり、大量に飲んだりしなければ命に別状はない。
だが、エレアノーラは大魔術師なのだ。触れるだけで魔力に耐性のない者は魔力酔いをしてしまう可能性があった。
少なくとも彼女からは強力な魔力を感じないし、触れただけで酔っ払ってしまいそうなくらいむしろ少ない。
だが、そんなエレアノーラの行動に勘違いしたエティエンヌが、慌てたように腕を引っ張った。
「大変ですわ! レギナ様の手が血塗れにっ……早く手当てをしなければ傷が残ってしまいます!」
「別にそこまで痛いわけではないから気にするな。それより、腕を掴むな」
嫌がるように腕を振り払おうとするが、更に強く掴んだエティエンヌは怯むことなくこちらを睨みつけた。
そこには穏やかな笑みを浮かべている姫君の姿など、どこにもなかった。
「駄目です。綺麗な手が傷だらけになってしまうのは見るに耐えません! それに魔術師の方は回復魔法が使えないのですよね? だったら尚更早く手当てしなければ」
「だから、人の話を聞けと……」
「エレアノーラ様がいくら強かろうが、これだけは聞き入れられません!」
人の話など一向に聞かず、腕を引っ張るエティエンヌに引きずられるように屋敷に戻ったエレアノーラは、そのまま食堂へと連れてかれた。
食堂では一人朝食の準備をしていたノアディアが驚いたように手を止め、こちらを見つめてきた。
「どうしたの? 二人とも」
朝の挨拶すら忘れ、非力なエティエンヌに引っ張られながら入って来る不機嫌そうなエレアノーラに視線を移す。
人間嫌いのエレアノーラが嫌そうにしながら、人間に引っ張られてくれば、ノアディアでなくとも驚くだろう。
だが、不機嫌なエレアノーラなど物ともせず、エティエンヌはノアディアに救急箱がどこにあるのか、聞いている。
本気で自分の手で手当てをする気のようだ。エティエンヌの話を聞き、大体を理解したノアディアが笑みを零す。
その笑みが見守るような生暖かいものだったため、嫌そうにエレアノーラは顔をしかめた。
「随分と優しいんだね、レギナったら」
「うるさい。しめるぞ、莫迦。ただ、姫君があまりにもうるさかったから、抵抗しなかっただけだ」
実に不本意そうにそう告げるエレアノーラに、ノアディアは笑みを零しながら腕を掴んで放さないエティエンヌを引き剥がした。
そして傷の状態を確認したあと、部屋の隅に置いてあった救急箱を持って来た。
見るからに痛そうな手のひらから血を拭い、塗り薬を容赦なく塗り込んでいく。
側で見ているエティエンヌが悲痛な叫び声を漏らす中、エレアノーラは治療されていく光景を表情一つ変えることなく、眺めているだけだった。
この程度の傷など気にもならないのだろう。痛い、痛いと連呼する姫君を他所に、塗り薬を塗り終え、あっと言う間に治療を終えた手のひらは綺麗にガーゼで覆われていた。
ノアディアはなんてこと無さそうにエティエンヌに言った。
「食事する時には外しても大丈夫だよ。治っているだろうから」
「えぇ!?」
その言葉に何故かエティエンヌが驚いたように瞳を見開く。その顔には疑問がありありと浮かんでいた。
解り易い奴だと思いながら、エレアノーラは片方だけガーゼを外した。塗ったばかりなので傷はまだあるが、既に塞がりかけている。
魔術師は回復魔法が扱えないが故、治療薬を作りだすことに特化している。
もちろんこの薬もその一つだ。人間の中にも薬師は存在するだろうが、魔術師の薬師はそんなものではない。
千切れた腕を治す薬を作れる者もいれば、どんな病気も治すことの出来る薬を作りだせる者もいる。
こんなかすり傷を治す魔法など序の口だ。むしろエレアノーラからすれば傷にすらはいらない。
まず、そこから人間と魔術師の価値観が違っていた。