第十五話 悪食の魔王
とけるよな闇の中、何処からともなく白い手が浮かびあがった。白い手のひらからは光球が浮かんでいる。淡い光を発していた光球は次第に光を強め、闇に紛れていた魔術師の全貌が見えるほどになった。
若い女性だ。それも飛びきり上等な分類に入る女。
緩くウェーブがかった金髪に、微かに影を落とした灰菫色の瞳。どことなく憂いを帯びた顔立ちはその美貌に磨きをかけている。
美女は微笑んでいる姿が一番美しいと思うが、闇の中から現れた女は影をまとっている方が美しいと、男はそんなことを思った。
冷たい風が闇色の外套を揺らし、月明かりの下で燦然と輝く美しい髪を玩ぶ。女性はそっと手で髪を押さえると、周囲を見渡したあと、溜息を一つ漏らした。
それもそのはず、女が現れた場所は数刻前に魔術師たちが破壊した場所だったからだ。広大な草原は消え去り、周辺に位置する村にもその影響は及んでいた。
バルトシュア王国に属する魔道士の男は、現地調査に派遣された者だ。
被害状況の報告はすぐさま城へと転送したが、この被害を巻き起こした魔術師の特定はまだだったため、引き続き調査している所にあの女が現れたのだ。
突然闇から現れた所を見ると、魔術師であることは間違いないようだが、このような場所に何をしにきたのか皆目見当もつかなかった。
注意深く見守る中、呆れを含んだ声音が響いた。
「これは想像以上に酷いねぇ。半径十キロ権内は間違いなく被災しているよ。やれやれ、まったく骨の折れる依頼ばかり寄越す輩ばかりで嫌になってくるよ」
憂鬱そうに呟くと、女は腰に差してあった短杖を取り出した。枯木のような枝の先端に魔硝石が嵌め込まれているだけの実にシンプルな杖だ。
どこからどうみても模造品の短杖。そんなもので一体何をするつもりなのだろうか? 注意深く観察していると、突然空気の流れが変わった。魔力がゆっくりと周辺へと広がっていくのが驚くほど分かる。
ここまで魔力の色が分かるのも実に珍しく、赤紫の粒子が闇夜の中、輝いていた。
魔力の根源に魔術師は小さく深呼吸をすると、詠唱を始めた。それは魔道士である男でも聞いたことのない言霊だった。
「破錠した世界の欠片を抱き、永久の時を揺蕩うアイオン 粛々と運命の針は歪んだ時を刻み続け、フェイトを惑わす 負の連鎖は止まらず、イーシスの嘆きが万物を震わした」
言霊は更に続く。
「重なり合う因果を戒めとし、奇跡を希う。現実を虚実に 死者を生者に 記憶を忘却に、真実を虚構に」
杖の先端に嵌め込まれた魔硝石から強い光が放たれる。灰菫色の瞳が魔力を帯びたように赤紫色に染まる。
静寂に満ちた世界に最後の言霊が響いた。
「盟約を刻む」
男が信じられない光景を目撃したのは、女が詠唱を終えたその直後だった。荒れ果てた地に女の魔力が吸い込まれるように消えたかと思うと、地面が大きく揺らぎ始めたのだ。
最初こそ微弱な揺れだけだったが、次第に荒れ果てた地がかつての姿を取り戻して行く。それは奇跡のような光景だった。
どこからどう考えても一介の魔術師に扱える魔法ではない。いや、魔導師の称号を持つ者達でも時間軸を改竄することは出来ない。
それは大魔法の分類だし、一種の禁忌だ。過去を書き変えるなど、あってはならないはずだというのに――男の目の前でそれが行われていた。
本来発動させるだけでも、五人以上の魔道士を集め、巨大な魔法陣を描くことにより発動できるかどうかというものを、闇夜に浮かぶ女は難なく発動させたのだ。
魔法陣一つ描くことなく、言霊による詠唱だけで。
その事実に思わず恐怖に身体が震えた。奇跡のような神業を目の当たりにし、怖れぬものなどいようか。
人間は人智を超えた、強大な力を前にすると、畏怖するものだ。もちろん普通の魔術師では発動することも出来ない大魔法だ。
ならば、あの女は一体何者なのだ? そんな男の疑問に答えるように、再び命が芽生えた大地に誰かが舞い降りた。
また女だ。銀色の長髪をまとめ上げた女は仕草だけみれば淑女さながらの立ち振る舞いであった。魔術師でなければ男も絆されてしまいそうな、妖艶な微笑みが視界に映った。
「さすがヴァール。見事な仕事振りに感嘆してしまうよ」
「ふん。どこかの誰かさんが呼ばなければ、もっとゆっくり修正してたんだがねぇ」
「それをいわれると辛い」
くすくすと笑う声が辺りに響く。口元に手をあてがいながら何か喋っているが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
今、現れたもう一人の魔術師は何と言った? ヴァールと、そう呼ばなかったか? あの女を目の前にして。
恐ろしい事実に目の前が真っ暗になる。それは暴食大陸を事実上支配している大魔術師の名ではないか。
――暴食のヴァール。別名、不変の魔女。
時空間魔法を操り、事象の回帰を容易くやりのけるという大魔術師の一人。そいつがこの傲慢大陸にいるのだ。
この大陸にいる限り、傲慢のレギナ以外の大魔術師など目の当たりにすることなどないと思っていただけに身体が震える。
とにかく、王国の方に報告しなければ。震える手で短杖を取り出すと、移動魔法陣を展開しようとした時だった。
ふいに後ろから低い声が響いた。
「おい、どこに行くつもりだぁ? お前」
「ひぃ! だ、誰だ!?」
「質問しているのは俺の方だ。答えろよ、愚図な人間」
誰もいないと思っていただけに、男は情けない声を漏らしながら後ろを振り返る。そこにいたのは小さな人形だった。
全長三十センチほどだろうか? 金髪の巻き毛にパッチリと開いた翡翠の瞳が男を見上げている。
言葉なく異質なそれを凝視していると、青いドレスに身を包んだ人形が不機嫌そうに端整な顔を歪めながら男に毒づいた。
「喋れねぇってか? 悪魔相手には」
しょうがねぇなあ、と人形は溜息を零したあと、不気味に笑った。薄く色づいた桜色の唇がゆがむ。
「でも、男って硬くて不味いんだよなぁ。まあ、しょうがねぇか。お前の心臓はそこそこ美味そうだから全部食ってやるよ」
「なっ――」
「だって、一部始終見ちまったもんな」
そう言葉を呟いたあと、驚くべくことに人形の口が大きく裂けた。顎まで裂けた口はびっしり尖った歯が並んでおり、原初の恐怖が背筋を走る。
人間がもっとも恐れる死に方――生きながらにして、食べられるというもっとも残酷な方法で男は叫び声を発する前に息途絶えたのであった。
こちらを窺うように隠れていた魔道士がいた方向に視線を向けながらヴェルンヘルは不思議そうに首を傾いだ。
「それにしても、君の所の悪魔は美食家じゃなかったかな? 彼は食べても大丈夫なのかい?」
「基本アイツは女しか食わない主義だよ。男は肉が硬くて駄目だそうだ。とはいっても女でも不味いのは食わないけどね」
「その割には食べたようだけど?」
「久しぶりに人間を食べることが出来たから、女も男も関係なかったんじゃないかねぇ」
勿論、そう仕向けたのはヴァール自身だった。この地に降り立った時から、様子を窺うようにこちらを見ている魔道士がいるのは知っていたが、熊と気づかない振りをしていたのだ。
最終的にグラトニーがあの魔道士を食べるのを知っていたのもあり、あえて放っておいたというのも理由に含まれる。
えげつないといってしまえばそれまでだが、赤の他人――それも人間などに興味がないヴァールにとって、あの魔道士がどうなろうと知ったことではなかった。
死のうが生きようが関係ない。
何かしらの障害があるのならばまた元通りにすればいい。それだけの力をヴァールは有しているのだからそう考えるのは当然だ。
「なんだ。グラに食わせたのがそれほど不服か? 魔道士ごときの命などどうなっても構わないだろう」
「すごく傲慢な発想だね。人の命すら塵あくたに等しいと。そういうのかい? 君は」
可笑しなことを口にするヴェルンヘルにヴァールは吐き捨てるように嗤った。
「はっ! この発想が傲慢だというのであればどの魔術師も傲慢であろうよ。どの魔術師もこう考えているはずさ。『人間なんぞ取るに足らぬ低知能動物』だと」
「かつては自分もその低知能動物であったのにも関わらず、か」
「そうさ。人間ほど欲深く傲慢な存在などいるものか! お前さんも同じ『時』を操る者なら分かるはずだ。いかに愚かしい存在なのかを」
大魔術師になった者たちの殆どはかつて人間だったものだ。それを悪魔と契約することにより強大な力を手に入れることを可能とした。
中には別次元の力を手にすることが出来たと喜ぶ者もいる。もちろんヴァールもその一人であった。
だが、微笑みを浮かべながらこちらの様子を窺うように眺めているシンはそうは思わないようで、意味深な言葉を口にした。
「そのような粗末事どちらでもいいさ。それよりも気になるのは、君が一体いつからそのような力を手に入れたのか。そちらの方が気になるね」
「いつから、ねぇ……。随分と可笑しなことを口にするもんだねぇ、お前さんは。この私がヴァールじゃないと、そういいたいのかい? ヴェルンヘル・S・メイナード」
真名を口にされ、シンの眉がつり上がる。唇が引き締まり、その美貌から笑みが消えた。
押さえていた魔力が僅かに漏れだすのを眺めながらヴァールは楽しそうに瞳を細めた。
こちらとて争う気など更々ないが、色欲のシンが何を考えているのかは分からない。まあ、大魔術師同士の争いは厳禁であることは重々承知していれば、起きるはずもない。
ましてや調停者としてやって来たはずのシンが、復興の手助けに来たヴァールと一戦やったなど知られたらとんでもない醜態だ。
愉悦の滲んだ笑みを零すヴァールであったが、真横に移動魔法陣が出現するのが分かった。
真っ赤な光を放つ魔法陣から見知った悪魔が顔を覗かせた。そのままするりと小さな身体を引っ張りだすと、引きずるように何かを引っ張って出てきた。
それは引き千切られたのか、ただの布切れと化した衣類だった。所々赤黒く染まっているのは血だろう。悪魔は半目のままヴァールを見上げると、呆れたように溜息を零した。
「後片付けまで俺にやらせるとはいい度胸だなぁ、テメェ……」
「お使いご苦労さま。美味しかったかい? 久しぶりに食べる人間は。おや、服は食べなかったのかい?」
「まあ、あの男の味は中の下だったな。つーか、服まで食うか! お前っ……この俺様を何だと思ってやがるんだ!」
「莫迦で阿呆で、どこか抜けた滑稽な悪魔?」
「ぐっ……ルチアーノ……テメェなぁ!?」
「何だ? 何か文句でもあるのかい?」
「いや、ええっとだな、あれだ。そう、俺が言いたいのはそういうことじゃなくてだなぁ! ここまで色々働いてやったこの俺様に対して労いの言葉はねぇのか!」
ヴァールの冷ややかな視線にたじろいだグアトニーであったが、思い出したように怒気を孕んだ翡翠の瞳がこちらを睨みつける。
白磁の頬を膨らめながら睨みつけるその姿は偉大だった悪魔の頃とはほど遠く、笑いすら誘った。
いっそ滑稽なその姿に笑みを零しながら、小さな悪魔を引き寄せると、残されたぼろきれを燃やす。証拠隠滅され、ただの消し炭となった衣類が風に吹かれてどこかへ行ってしまった。
その光景を尻目にヴァールはシンに微笑んだ。
「それじゃあ、私たちはこれにて失礼させてもらうよ。言いたいことがあるのなら直接暴食大陸へと訪れるがいい。私は逃げも隠れもしないからねぇ」
「気が向いたら窺うとしよう」
「それではその日を楽しみに待つとしよう」
無論そんな日が訪れることがないことを知りながらヴァールは意地悪く微笑むと、その場から消え去る。
その光景を見届けたシンは嘆息を零したあと、自らも大陸に帰国するため、その場から姿を消したのであった。