第十四話 不条理な願い
元の姿に戻ったエティエンヌは歓喜の声を上げた。元の身体に戻れたのがよっぽど嬉しかったのだろう。
近くにいたノアディアの手をとり、嬉しそうに飛び跳ねている。いつまで経っても落ち着く様子を見せず、ただ「凄い」と連呼していた。
一体何をもって凄いのか全く分からないが、ノアディアなんかと一緒にされた日には落ち込むなんてもんじゃない。とりあえず、はしゃぐ姫君に「落ち着け」といえば、ぴたりと動きが止まった。
歓喜に彩られた瑠璃色の瞳がゆっくり細められる。ていねいに頭を下げながら再度礼を告げるエティエンヌに頷き返しながら、話を元に戻すことにした。
「それよりも、何が私に用があったのだろう?」
「あ、はい。……条理の魔女の異名を持つ、レギナ様にどうしても叶えていただきたい〝願い〟があるのです」
「願い、か……」
久方ぶりにその二つ名を耳にしたエレアノーラは小さく息をついた。人間にその名で呼ばれるのは実に十数年ぶりだった。
エティエンヌはといえば、微笑みこそ浮かべてはいるが、深淵を思わせる瑠璃色の瞳は真剣そのものだ。そしてその真剣な表情は幾度となくエレアノーラが見てきたものと同じだった。
誰もが叶えられない奇跡を希う時に見せる、全てを失っても構わないと覚悟を決めた者がする表情であった。
だからこそエレアノーラはどうしたものかと、瞼を閉じた。
昔から大魔術師であるエレアノーラの元には色んな人間が訪れてきた。それこそ数え切れぬほどの人間たちが、叶わぬ奇跡を望み、今のエティエンヌのように希って来た。
復讐を遂げたい者。
己の願いを叶えたい者。
正義をふりかざし、悪を滅ぼそうとする者。
医者すら匙を投げた不治の病を治してもらいたい者。
永遠の命を望む者。
どれもありきたりで、そのどれもが人間だからこそ叶えたいと望む願いだった。
魔術師になってしまえば、復讐など容易いし、願いを叶えることなど造作もない。
だが、あくまで人間の領域に居続けながら願いを叶えたい者も多く、そこまで作り上げて来た人生を全てふいにしてまで叶えたいと思う者は中々いなかった。
だからこそ人間であるうちにはけして叶えられない、奇蹟の領域ともいえる願いを叶えられる。この世の不条理すら容易く覆すことの出来るエレアノーラのもとに多くの人間が集ったのだ。
エレアノーラが叶えるかどうかは別に、人々が流した噂は瞬く間に傲慢大陸に広がり、今でも人々の間では伝承として数多く残っている。
きっと真剣な面持ちをしているエティエンヌもその噂話を聞きつけ、エレアノーラに願いを叶えてもらいにきたのだろう。
しかし、そんなエティエンヌの様子とは裏腹にエレアノーラは至極当たり前のように願いを聞く前から拒否した。
「断る」
「そんな! もう、この願いを叶えられるのはレギナ様をおいて他にいないのです!」
「知るか。何故この私が人間風情の願いなど叶えなければならない?」
人間嫌いで有名な自分がそこまでしなければならない理由などない。そもそも、二大国家に睨まれてまで成就させたい願いなど、エレアノーラには想像出来ない。
立ち話も面倒だったため、椅子に座れば、ノアディアがタイミングよくティーセットを持って来た。淹れたての紅茶をエレアノーラの前にそっと置く。
側にあった砂糖とミルクを引き寄せると、紅茶の中に投下しながら、銀のスプーンで掻き混ぜる。頬杖をつきながら、混ざる光景を眺めつつ、必死な様子でこちらを見つめるエティエンヌをつまらなそうに見つめた。
「願いを叶えろというだけは実に簡単だ。だが、お前は私の求める対価に応じられるのか? 自分の人生は勿論、その全てを差し出せるだけの覚悟は出来ているのか? そもそも、その願いは対価に見合うだけの価値が本当にあるのか?」
大抵の人間はこの言葉で物怖じする。本気で自分を捨てられる者など実際は僅かなのだ。その覚悟を試すように問えば、目の前の姫君は迷うことなく首肯した。
「勿論ですわ! この願いが叶うのであれば、何を差し出しても構いません。何でしたらこの身体から、この魂まで、全て差し出しても構いませんわ。ですから――「莫迦か、お前は」」
エティエンヌの言葉を遮るようにエレアノーラは吐き捨てると、心底呆れ果てたように溜息を零す。
凍土のように冷え切った金色の瞳がエティエンヌを貫く。咄嗟に息を呑む姫君に、エレアノーラは不機嫌そうに唇を歪ませ、
「だから貴女の願いは取るに足らないといっているのだ。自分を容易く犠牲にする者の場合、大抵が他者を救いたいと願う者だ。そして、そんな自己犠牲の精神に酔いしれているだけにすぎない」
「な、そんなこと……!」
「いいか、エティエンヌ妃殿下」
物分かりの悪い相手に話すように、投げやりな口調でエレアノーラは言葉を続ける。
「だからこそ生半可な思いだけでは叶えられない。自分自身の願いを叶えるためならば、その後で何が起きようとも『自業自得』の一言で済ませれば簡単だが、貴女の場合は違う。他人のために己が魂をふいにするなど莫迦のすることだ。ましてや一国の王女が民を捨てて、他者のために命を投げ出すなど許されることだと思っているのか?」
容赦のない言葉にエティエンヌは唇を強く噛み締めた。確かに彼女の願いは本物なのだろう。だからこそ危険なのだ。
自分の立場が分かっていないだけに、危うすぎる。仮にエレアノーラがこのままエティエンヌの願いを叶えた場合、エティエンヌはこの世界から完全に抹消されてしまうだろう。
世界から消えるというのは、ただ死ぬのとは違う。誰もがエティエンヌという存在が〝いた〟という事実を忘却し、その歩んできた軌跡すらも跡形もなく消え去ってしまうのだ。
もちろん、痕跡一つ残らない。
そして魂を失い、自我を保てなくなった抜け殻の体は誰にも気づかれることなく朽ち果てて行く。
つまり、身体だけではなく魂までも差し出すとはそういうことだ。死を死として受け入れて貰えず、転生の輪廻からも外れてしまうことを示す禁忌に他ならない。
エティエンヌが王女でなければ、まだ願いを叶えてやったかもしれないが、今のままでは無理だ。少なくとも、王女としての義務を放棄してまで叶えたい願いごとだとは思えなかった。
政略結婚とはいえ、隣国の王子と婚約しているにも関わらず、全てを差し出しても構わないと考えるのはどうかと思う。
それでは全ての責任を放棄していると同じだ。
そう判断したエレアノーラの厳しい口調に顔を俯かせていたエティエンヌだったが、ふいに顔を上げた。瑠璃色の眼差しはまだ強い光を宿しており、諦めた様子はない。
ここまで頑固な姫君だとは思っていなかっただけに、エレアノーラは溜息を零した時だった。
「レギナ様。取引を、いたしませんか?」
「取引だと?」
「ええ。わたくしを利用して、レギナ様の願いを叶えてはいかがでしょうか?」
「どういうことだ」
本来、何の実力もない人間が魔術師相手に取引を持ちだすなど、正気の沙汰ではなかった。相手が王女であろうが、関係ない。
こちらは悪魔と契約を交わし、人間とは違う道に足を踏み外した存在なのだ。
そんな自分と取引を望んでいる。怪しむように眉をひそめると、エティエンヌは真っ直ぐ過ぎる瑠璃色の眼差しを向けた。
「わたくしでしたら、リネシア帝国に張られたアエネーイスの障壁結界の内側に入ることが出来ます」
その言葉を聞いた瞬間、エレアノーラの表情が消えた。指先から銀のスプーンが滑り落ち、卓の上に転がる。
側でノアディアが息を呑む音が聞こえたが、そんなことすら気にならないほど、エレアノーラは苛立っていた。金色の瞳が憎悪の色を宿す。
薄く開いた唇から感情の削げ落ちた声が響いた。
「……何を知っている?」
それはエレアノーラの中で疑問から確信に変わった瞬間だった。確かにエレアノーラはリネシア帝国のある一定の区間に入る事が出来ない。
それはどの魔術師も同じだ。城内を囲むように張られた障壁結界は強力で、五百年経った今でもその効力は一向に衰える気配はない。
だが、そこに入りたいかと言われれば別問題だ。別にリネシア帝国には入れるのだから、城内に入れなくとも他の魔術師達なら何の問題もないだろう。
しかし、エレアノーラは違う。五百年も前から、あの内側にどうしても入りたかったのだ。
その事実を何故こんな小娘が知っている? それは誰かが裏で手引きしているからだ。同じ魔術師の誰かが。きっと、エレアノーラの知っている奴だろう。
そんなエレアノーラの困惑を他所に、エティエンヌは静かに語りだした。
「……とある魔術師から、『王と王妃と魔女』の真実を教えて頂きました」
「真実だと?」
「はい。とても、悲しい真実でした。ですが、同時にわたくしの願いと引き換えにすることでレギナ様の望みも叶えられると。その方は教えてくださりました」
一体何処の莫迦がエティエンヌにようでもないことを吹き込んだのかは知らないが、それを知られるのはエレアノーラの本意ではなかった。
むしろ何も知らぬはずのエティエンヌがそれを語ることすら抵抗がある。しかし一体誰がその内容をエティエンヌに語り聞かせたのかという問題だ。
本当の真実を知る者はごく僅かだ。ましてや、バルトシュア王国の王女であるエティエンヌに容易に近づける者など更に限られてくる。
漸く辿り着いた一つの結論に金色の瞳を細めると、微かに緊張した声音で聞いた。
「アイツは、元気だったか?」
「はい。とても元気そうでしたわ」
「そうか」
その短い言葉。それだけで全てを悟ってしまった。エティエンヌが真実を知る理由も。そして、全ての出来事は偶然などではなく、必然だったのだと。
だからこそそれが何を望んでいるのか分かってしまった。
窺うようにノアディアがこちらを見つめるのが分かったが、エレアノーラはそれすら無視するように手を振るった。
「いいだろう。貴女の願いを叶えてやる」
だから――
そう呟き、エレアノーラは唇を震わせた。
「お前の魂を代価に頂くが、いいが?」
「はい」
迷うことなくエティエンヌは頷いた。