第十三話 金色の姫君
弾くような、軽快な音が響くと同時に、ノアディアの身体が勢いよく吹っ飛んでいった。壁に激突すると、その場に崩れ落ちる。色白の頬には真っ赤な紅葉が見事に咲いていた。
強かにぶつけた背中より、叩かれた頬の方が痛かったのか、頬を庇いながら顔を顰めている。
相変わらず情けない姿に思わず溜息が零れ落ちた。確かに手加減をせずに殴れる相手などノアディアくらいだろう。
逆に手加減などした日には、叩いた手の方が怪我をする可能性があるからだ。防御に関しては随一を誇るノアディアに本気でダメージを与えるのならば、それだけの覚悟が必要だった。
そんなことも知らないのか、小さなお姫様が悲鳴をあげながら「ウィレム様っ!」と叫んでいた。
まったく……いつの間に魔術名を教えたのやら。
どうせ拾ってきた時にでも教えたのだろう。そういうところが不用意だというのだ。ついでに拾った時に姿を王国兵にでも姿を見られたという落ちまで何故か想像できてしまった。
嫌なことは簡単に想像できるから困る。
「それよりも、ウィレム。お前はこの人間の正体を知っていて拾って来たのか?」
「ううん。ただレギナに用事があるってきいたから連れて来ただけだよ」
「っ……まあ、いい。どうせ起きてしまったものは仕方がないからな」
あまりにも他意のない言葉に、思わず口から飛び出そうになった罵倒を何とか呑み込んだ。ここまで事態が悪化してしまった今、何を言っても無駄か。
諦め気味にそう呟くと、エレアノーラは卓に立っている姫君を見下ろした。こうして間近で見ると、改めてその美しさがよく分かる。
太陽と見間違うばかりに燦然と輝く金色の長髪に、海底を思わせる瑠璃色の瞳。白皙の肌に薄っすらと色づいた桜色の唇。
華奢な身体をまとうドレスはその華やかな外見に反して地味で、王族が着るものにしてはあまりにも質素だった。城外に出るため用意したものなのだろう。
それでもその身から溢れ出る気品や立ち振るまい。王族特有の魅力というのだろうか? そういったものが自然と人の視線を惹きつけるのは確かだった。
ある意味、今回の元凶ともいえる姫君を無遠慮な視線で眺める。相手の度胸を確かめるように向けられた視線はけして優しいものなのではなく、歴戦の兵士ですら思わず身震いしてしまうほど冷ややかなものだった。
しかし、エレアノーラの視線にも怯むことなく、表向きだけでも堂々と受け止めるその姿は立派であった。
とはいえ、ドレスの下ではかもしかのように細い足をガタガタと震わせているのが分かる。
むしろ蝶よ花よと育てられてきた姫君が容赦ない視線を浴びても、凛とした立ち振る舞いをしている。その度胸だけは認めるべきだ。
それ相応の相手には敬意を表するエレアノーラは、挨拶をした。
「私がこの屋敷の主、レギナだ。貴女をここまで連れて来たのが、既に知っているかと思うが、ウィレムという。ここが魔術師の館であることは分かっているな?」
「はい。存じておりますわ」
頷いた後、姫君は裾を掴んで挨拶をする。洗礼された仕草は、厳しく躾けられたのであろう。
小さな姿でも、さほど違和感はなかった。
「はじめましてレギナ様。わたくしは――」
「バルトシュア王国第三王女エティエンヌ=メイヴ=マースディン妃殿下であろう?」
「まあ。わたくしのことをご存知でしたか」
自らの名を当てられたことに驚いたのか、姫君は大きく瞳を見開いた。そして瑠璃色の瞳が何故か、エレアノーラから側にやって来たノアディアへと移る。
小さな姫君は不思議そうに小首を傾いだ。
「ウィレム様が先にお教えになられたのですか?」
「いや、僕は教えてないし……そもそも君、お姫様だったの? てっきりどこかの令嬢かと思っていたよ」
「はい。これでもこの国の第三王女ですわ。ウィレム様を騙せたのなら変装したかいがありました! それにしても不思議ですわね。どこからわたくしの名前が漏れたのでしょう?」
本気で言っているのか、瞳を伏せながら思案している。確かに彼女とは初対面だが、自分がどれくらい有名なのか、自覚がないらしい。
三大美女の一人としてその名を馳せていることをこの姫君は自覚しているのだろうか? 何故だろう、ノアディアと似たものを感じてならない。
頭痛を堪えるようにエレアノーラは、瞼を閉じると唸り声を漏らした。
「それは私を愚弄しているのか? それとも何も知らずに生きている、そこの間抜けな魔術師と一緒だとでも思っているのか?」
つい、口調が厳しくなってしまうエレアノーラは一度口を噤むと、改めて言葉を選ぶように口を開いた。
ノアディア相手ならば言葉を選ぶ必要などないが、一応相手は王女だ。必要最低限の礼儀くらいとるべきだろう。だが、そんな考えすら吹き飛んでしまうような大きな声をエティエンヌは張り上げた。
「レギナ様が間抜けだなんて、そんなこと考えたことすらありませんわ!」
「そ、そうか……」
「そうですとも! この傲慢大陸を統治する大魔術師であらせられるレギナ様に対し、そのようなことを考える者たちの気が知れません。わたくしの言い方が悪かったのですよね? 輝かしい美貌を曇らせるような言葉しか口に出来なくて、誠に申し訳ございません」
握り拳を作りながら、何やら力込むエティエンヌの勢いに、エレアノーラは気圧されたように首肯した。それにしても、初対面の相手にそこまで力説されたのには驚きだ。
最終的にはしおらしく頭を下げて謝る始末。むしろ何故そこまで三大美女に褒め絶やされるのか謎だった。これは新手の嫌がらせなのだろうか?
呆気にとられているエレアノーラを他所に、顔を上げたエティエンヌは瑠璃色の瞳を細めながら微笑んだ。まるで花が綻んだかのような笑みは、見る者を魅了するほど愛らしい。
白皙の頬を薔薇色に染めながら、エレアノーラを見つめるその眼差しは、まるで憧れていた人を目の前にしたかのように熱を帯びている。
……とりあえず距離を取った方がいいのではないだろうか? 今日はろくな目に遭っていないし、万が一もある。
魔法もろくに扱えぬ姫君相手に、自分らしくもないことを考えながらエレアノーラは後退る。
怪しい人物を見るような眼差しを向けられているのにも関わらず、エティエンヌは喜びを隠そうとはしなかった。
興奮しているのか、微かに声がうわずっている。
「わたくし、ずっとレギナ様にお会いしたかったので、嬉しいです」
「何故魔術師である私に会いたかったんだ?」
「そんなの決まっていますわ。この傲慢大陸に住む者ならば一度はレギナ様を一目見たと思うのは、普通だと思います」
意外な言葉にエレアノーラは瞳を瞬いた。
普通、敵同士である魔術師を人々は忌み嫌うものだ。なのに、この姫君はずっと会いたかったといった。
それは、純粋な好意。そんな物、生まれてから一度たりとも向けられたことがなかったエレアノーラにとって、不思議な感覚であった。
けして不愉快ではなく、むしろ心地好いくらいだ。だからこそ逆に戸惑ってしまった。
そんなエレアノーラの困惑も知らずに、微笑むエティエンヌはどこまでも無邪気な笑みを浮かべていた。
「それにわたくし、かの有名な『王と妃と魔女』も好きですし――」
そうエティエンヌが呟いた瞬間、息が止まるような鋭い殺気が放たれた。びくりとその小さな身体を震わせ、息を詰まらせる。
擦れるような浅い呼吸音だけが、静かに響く。呼吸困難になったエティエンヌを庇うようにノアディアはエレアノーラを睨みつけた。
「レギナ!」
普段浮かべている柔和な面持ちを一変させ、厳しい表情を浮かべている。翠玉の瞳は鋭く細められ、その眼差しは大人気ないと物語っていた。
確かに殺気すら向けられたこともない姫君に向けるような眼差しではなかったことは確かだったため、エレアノーラは殺気を押し殺し、視線を逸らす。
次の瞬間、エティエンヌは崩れ落ちるように卓の上に倒れた。
顔を蒼白にしながら呼吸を整えるその姿は見るからに痛々しい。確かにこれでは、大人気ないといわれても仕方がないだろう。
未だ他人の口からその話題が出るのを嫌うエレアノーラは不機嫌そうに視線を逸らしていると、先に謝罪の言葉を口にしたのはエティエンヌの方だった。
「……ごめんなさい。レギナ様がこの話を嫌いなのは当然ですのに、軽はずみに口にしてしまったこと、深く反省申し上げますわ」
確かにエレアノーラの逆鱗に触れる話題を口にしたのは彼女だったかもしれない。だが、全面的にその罪を認めた上で、謝るその姿はどこまでも立派だった。
まるで自分が子供のように思え、エレアノーラは出来るだけ声を抑えながら「こちらも大人気なかった」と謝罪を口にした。
冷静をよそうが、ノアディアに分かってしまったかもしれない。話を逸らすように、エレアノーラは小さく縮こまってしまった姫君を見下ろした。
「それより、何故そのような姿をしている?」
「姿?」
「その小さく縮んだ姿のことだ。まさか、元からその姿ではあるまい」
「ああ、この姿のことですか? この姿は城を抜け出す時に飲んだ薬の副作用だと思います。姿を縮めて城から抜け出したのまではよかったのですが、再び小さく縮んでしまって。ウィレム様でも元に戻すことが出来なくて困っていた所なのです」
「ふぅん」
短い返事をしながらエレアノーラは金色の瞳を細める。確かに目を凝らせば、姫君の身体から僅かに魔力の残滓が見えた。
多分縮める薬を作った者の魔力だろう。だが、この魔力……どこかで見たことがあった。
魔道士のものではない。むしろ、この魔力は魔術師のものだ。一瞬エルリクの笑い顔が頭を過ぎるが、この魔力はエルリクのものではない。
つい真剣に見つめていたせいか、居心地悪そうにエティエンヌが身をよじるのがわかり、一旦視線を外した。
それほど面倒な副作用ではなさそうだし、簡単に元の姿に戻せそうであった。ノアディアに指示し、エティエンヌを床に降ろさせると短杖を取り出す。
詠唱が部屋の中に響いた。
「イアソの抱合 天の祈り 彼の者を癒す 希望の光となれ」
短杖の先から光が弾けた。
『光ノ治癒』
そう言霊を発すると、エティエンヌの身体が眩い光に包まれ、次の瞬間弾けた。
光が収束すると同時に、現れたのは等身大の姿に戻ったエティエンヌの姿だった。
驚いたように戻った身体を眺めている。大きく見開いた瑠璃色の瞳は零れんばかりに見開いていた。
治癒など本来出来るはずもないのに、元に戻したエレアノーラに驚いているのだろう。
別に治癒ではなく、状態異常を治しただけだ。それくらいなら難なく出来る。
但し、そこの莫迦を除いての話しだが。そんなことを思いながらエレアノーラは短杖をしまった。