熟れた果実は哀れな鳥に食べられる
ある晴れた日のことです。家の裏にある森から気持ちのいい風が吹いきたので、私は居ても立っても居られなくなり、散歩がてら、昼飯となる鳥でも仕留めてこようと猟銃を携え、森へ向かいました。ここらでは脂ののった旨い鳥がよく獲れます。火で炙ってもよし、鍋でぐつぐつ煮込んでもよし。想像するだけで涎がでてくるくらいです。
履き古したブーツは、靴底が薄くなっていて、地面の隆起が直に伝わってきます。季節は夏。森の中はさほど暑くはありません。代わりに、木の独特の湿ったにおいがしますが、不快ではなく、落ち着かせてくれます。木肌は苔に覆われていて、触れると脆く崩れそうにみえますが、意外と苔はしっかり木に根ざしています。私は太古の時代を感じさせてくれるこの森を散歩することがとても好きです。こんな場所だからこそ、旨い鳥が獲れるんでしょう。
しばらく苔むした木と木に挟まれた小道を歩き続けていると橋が見えてきます。その向こうに鳥が住んでいます。
私は川にかかる木の橋を渡っていました。そのときでした。ぽたっと小さな塊がひとつ、私の頭へ落ちて来、そこで跳ねたかと思うと、そのまま足下をころころ転がってぽとんと川に落ちました。それは一度水に入ったかと思うと、すぐにぷかぷか浮いてきて私の名を呼んだのです。私は怖くなって、木の橋をもと来た方へと戻ろうとしました。しかし、一歩踏み出す度に木の橋はゆっさゆっさ頼りなく揺れます。橋はきしみ、頭上ではいつの間にやら現れた小鳥が旋回して私の様子を窺っておりました。羽音がして、小鳥の気配がなくなったかと思うと、先程より多くの羽音がし、あの小鳥の仲間が来たのでしょうか、木からまだ熟れ切っていない硬い果実までぼとぼと落とします。その間、私は頼りなく揺れる橋の欄干を握りしめて、アイタ、アイタと言うばかりです。果実は際限なく降ってきて、橋を覆い尽くすかのようでした。熟れたものは橋の上でくずれ、橙色の粘り気のある果汁をふりまきます。私の名を呼ぶ声も次第に大きくなりました。
蜘蛛の巣のように張りめぐらされた木の枝の隙間から、灰色した小鳥がびゅうと舞いおりて来、私の頭をつっつきました。私はまた、アイタ、アイタと馬鹿みたく繰り返します。見えるのは橙色の果実だけです。頭と体が割れそうに痛むんで、私はここはひとつ、がつんと言ってやろうとしたんです。私はこの橋なんて渡らなくてもいいんだ、とね。しかし、無駄でした。口を開けた途端に果実が転がりこんで私の喉に詰まったんです。そこからは、覚えておりません。まあ、橋から落ちたんでしょうけれども。ええ、きっとそうであります。こんなに服が濡れているんじゃ、水に浸かったのだろうと誰だって考えますよね。
気がついたら私は橋を渡りきって向こう岸へ着いていました。心良いひとが運んでくださったんでしょう。そう考えると、冷えた体も温まりますね。
お腹が鳴りました。日は高く、家を出てからずいぶん経っているようです。さあ、いよいよ狩りの時。自然と気が高ぶってきます。ブーツの紐をしっかり絞めました。これでうっかり紐を踏んづけて、ということもないはずです。そこで、はたと気づきました。私は銃をどこへやったのでしょうか。それがないとお話になりません。手元にはありません。足元にも転がっておりません。まさか、と思って川を覗いてみましたが、よく見えませんでした。川へ落っことしたのでしょうか。駆けまわって、木の根の辺りとか、茂みの中とか、そこら中を探してみたのですが、結果は私を落胆させるものでした。仕方ないので、帰ることにします。一度家へ戻って、出直した方がよいでしょう。
さっきから虫が飛んでいて、落ち着きません。変ですね。行きはそんなことなかったのに。橋の上でのことです。
甘い香りがします。橋に落ちている果実はもう茶色く腐りかけていて、甘いかおり、とは言い難いにおいです。おかげで、お腹が空いていることを思い出してしまいました。どこから、漂ってくるんでしょうか。
ふと腕が痒く感じて見やると、びっしりと虫がついておりました。それらが全部私の腕をちゅうちゅう吸っているのです。私は怖くなって、無我夢中に手を振りまわします。それでもとれません。甘いにおいは私の腕からしました。いや、全身からします。そう、私は果実になっていたのです。楕円の橙色した果実に手足が生えている。それが私でありました。川に姿を映してみて、開いた口がふさがりませんでした。もっとも、口はないのですが。
動転して一歩、二歩、と下がって、運悪く足を滑らしました。行きに降ってきた果実が潰れたものに足を取られたのです。
あれあれと言う間に、ころころ転がって、私は川へ落ちてしまいました。そこで、あの灰色の鳥です。そいつが真っ直ぐに此方へ向かってきます。私は必死に手足を動かせて、逃げます。後ろを見ると、もう真近に迫っております。腹を一口いかれました。思わず目を背けました。不思議と痛みはありませんでした。次は頭か、胸か。川に浮いたり、沈んだりしながら、死という文字が頭でぐるぐるまわっていました。私はここで死んでしまうのだろうか。ちきしょう。ちきしょう。全部あの灰色の鳥のせいだ。銃があればあいつなんてすぐに撃って俺の飯にしてやるのに。待てよ。生きたまま皮を剥いでやるのはどうだ。その方がいい。きっといい声で鳴いてくれるだろうからな。
そこで、キッと前方を見つめたが、すぐに何かがおかしいと気づいた。そういえば、羽音がしない。俺は荒れくるう自分を必死に宥めた。目の前に鳥が浮かんでいる。それは白目を向いて、死んでいた。
どうして。すっと体が冷えていくのを感じながら私は理由を求めました。少し、感情的になっていたようです。別にあの鳥が憎らしい訳ではありません。ただ悪言を言ってみただけです。最近、飼っていた犬が逃げ出しました。寂しかったのかも知れません。悪いことをしたなと後悔ばかりです。死ぬ前に罵声を浴びたなんて、誰もいい気がしませんよね。
冷静になると、理由はすぐに見つかりました。腸です。私の腸が川に細長く浮かんでいるのが見えます。鳥はそれをちょっと食べてみようとしたのでしょう。先端がずたずたになっていましたし。禁忌を破ってしまったのでしょう。神様のお決めになった掟を。実は私、昨晩鳥のスープをいただきました。それはもうほっぺが落ちそうに、これは言いすぎですか、とにかく美味しかったのですよ。きっと、消化しきれていなかったのでしょう。可哀想なことをしました。私も気をつけねばなりませんね。今では果実を食べてはならない、ということになりますかね。
あの、最後にひとつ、お願いしてもよいですか? 川で細長いものを腹から垂らした、果実が浮かんでいるのをお見かけになったら拾ってください。ほら、腸が丁度紐のようになっているんで、手繰り寄せてくださいね。自分では岸に上がれないんです。