聖女、有給消化なしで即日退職します 〜婚約破棄されたので隣国へ移籍したら、元の国が滅びそうで謝罪されましたがもう遅いです〜
今回はハッピーなお話です。
誤字報告ありがとうございます。(5/10)
まばゆいシャンデリアの光が、王宮の夜会会場を白日のように照らし出していました。
壁一面に飾られた金細工が、貴族たちの着飾った宝石と競い合うように輝きを放っています。
私はその中心で、扇を手に静かに佇んでいました。
隣に立つ王太子セドリック様は、先ほどから私の手を取ることもなく、どこか不機嫌そうに鼻を鳴らしています。
私は前世で、日本の社畜として働き詰めた末に命を落とした転生者です。
不条理な上司の怒号や、終わりの見えない残業に追われる日々に比べれば、この豪華なドレスの重みなど無に等しいと思っていました。
この世界で「聖女」として目覚めた時、今度こそは心穏やかに、そして前向きに誰かの役に立とうと決めていたのです。
しかし、その決意をあざ笑うかのように、セドリック様が会場の空気を切り裂くような声を上げました。
「リリアーヌ! 貴様との婚約を、今この瞬間をもって破棄する!」
会場を彩っていた楽隊の演奏がピタリと止まり、貴族たちのひそひそ話がさざ波のように広がります。
セドリック様の傍らには、いつの間にか清楚を装った男爵令嬢が寄り添っていました。
彼女は「守ってあげたい」という言葉を具現化したような、儚げな表情で私のことを見つめています。
セドリック様は彼女の肩を強く抱き寄せ、勝ち誇ったような、それでいて侮蔑に満ちた視線で私を見下ろしました。
「聖女などという肩書きを傘に着て、純真な彼女をいじめていたことはすべて把握しているぞ!」
心当たりのない罪状を並べ立てられましたが、私の心に湧き上がったのは怒りではなく、むしろ清々しいほどの呆れでした。
この婚約は、協会と王家が長年の協議の末に結んだ、国家の安定のための誓約だったはずです。
それを、このような衆人環視の場で、一時の感情に任せて反故にしようとするとは。
前世の取引先でも、ここまで話の通じない無責任な担当者はなかなかいませんでした。
私はゆっくりと膝を折り、淑女としての完璧な礼を取りました。
「承知いたしました、セドリック殿下。そのお言葉、しかと受け止めましたわ」
私のあまりに淡々とした、そして感情の乱れすら感じさせない態度に、セドリック様は拍子抜けしたような顔をしました。
隣の男爵令嬢も、もっと私が醜く泣き叫び、許しを乞う姿を期待していたのか、不満そうに唇を噛んでいます。
ですが、私にとってはこれ以上の幸運はありませんでした。
王太子の「道具」として、常に監視される王宮の生活から解放されるチケットを手に入れたのですから。
私は前世で培った「不測の事態へのポジティブな適応力」を全開にし、すでに心は次なるステージへと向いていました。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
静まり返った会場に、重厚で威厳に満ちた足音が響き渡りました。
現れたのは、聖教会の最高責任者である大司教閣下でした。
閣下は白銀の糸で刺繍が施された法衣をなびかせ、その瞳には凍てつくような怒りが宿っています。
教会の人間にとって、聖女は神の代弁者であり、守るべき至宝です。
その聖女が、一国の王子に泥を塗られたとなれば、話は個人の恋愛沙汰では済みません。
「……セドリック殿下。今のお言葉、我ら協会は一文字も漏らさず聞き届けましたぞ」
大司教の登場に、会場の貴族たちは顔を青ざめさせ、一歩、また一歩と後退り始めました。
王家といえども、聖女を管理し、奇跡の恩恵を仲介する教会と対立しては、国の運営が立ち行きません。
セドリック様は喉を鳴らし、顔を引きつらせながらも、虚勢を張って言い放ちました。
「大司教、これは私的な婚約の問題だ。協会が政治的に口を挟むことではないはずだろう!」
「いいえ、聖女リリアーヌ様との婚約は、王家が聖教への忠誠を示すための公的な誓約でございます」
大司教の声が地を這うように低く響き、ホールの温度が数度下がったかのような錯覚さえ覚えました。
「不当な罪を着せ、聖女様を追放するというのであれば、もはやこの国に聖女の加護は不要ということでしょうな」
「ふん、代わりの聖女などいくらでも用意できる! 協会が協力しないというなら、力ずくで従わせるまでだ!」
セドリック様のあまりに愚かで、歴史を学んでいない暴言に、大司教は悲しげに、そして冷徹に首を振りました。
私は大司教のそばへ静かに歩み寄り、その震える手を取って微笑みかけました。
「閣下、もう十分ですわ。私を必要としない、信じてもくれない場所に、これ以上留まる理由はありません」
その優しくも力強い拒絶に、大司教は私の意志を汲み取り、深く頷きました。
「左様ですな、リリアーナ様。貴女を宝のように迎える国は、他にいくらでもございます」
その夜のうちに、私は教会の手配した頑丈な馬車に乗り込みました。
王宮の侍女たちに持ち物を奪われることも、無駄な引き止めに遭うこともありません。
協会がすべての窓口となり、私を傷つけた王家との接触を完全に断絶してくれたのです。
窓の外を流れるアステリアの王都の景色を見つめながら、私は前世の転職初日のような、爽快な気分を味わっていました。
「さあ、有給消化なしの即時退職ね。新しい職場が楽しみだわ」
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
国境を越えた先、隣国のグランデイル王国に到着した時、私はその歓迎ぶりに目を丸くしました。
国境の検問所には、グランデイル王国の枢機卿自らが、最高級の正装で出迎えに来ていたのです。
「リリアーヌ様! よくぞ、我が国へお越しくださいました。我々は貴女という光をずっと待ち望んでおりました!」
枢機卿は私を最敬礼で迎え、すぐに用意された豪奢な魔導馬車へと案内してくれました。
この国は、アステリア王国とは対照的に、古くから教会の教えを重んじ、聖女の存在を何よりも尊ぶ国風でした。
グランデイルの教会は、アステリアでの一件を聞くや否や、即座に私の身分を「筆頭聖女」として保証してくれました。
「リリアーヌ様、ここでは誰の顔色を窺う必要もありません。貴女の望むように、その尊い力をお使いください」
用意された離宮は、アステリアの王宮とは比較にならないほど風通しが良く、手入れの行き届いた美しい庭園に囲まれていました。
驚くべきことに、グランデイルの国王陛下までもが私のもとを訪れ、深々と頭を下げたのです。
「どうか、我が国の民にその慈悲を分けていただきたい。不自由なことがあれば、何なりと申し付けてほしい」
前世で言えば、移籍先の社長と専務が玄関先で土下座して歓迎してくれるような状況です。
私はその信頼に、最高のパフォーマンスで応えようと、ポジティブな意欲を燃やしました。
私はさっそく、地方の貧しい村々を回る巡回活動を再開しました。
聖女の力とは、単なる魔法の出力ではなく、人々の心に寄り添うことでより強く輝くものです。
私は前世で培った「顧客満足度の追求」の精神を活かし、一人一人の悩みに真摯に耳を傾けました。
病に苦しむ人々に治癒の光を注ぎ、干ばつに喘ぐ大地に、天候を操る奇跡で恵みの雨を降らせました。
グランデイルの民は、私を「慈悲の女神」「希望の星」と呼び、行く先々で惜しみない感謝の言葉を投げかけてくれます。
教会の神官たちも、私の活動を「聖女のあるべき姿」として全面的にバックアップしてくれました。
彼らは、私が提案する新しい医療概念や、前世の知識を活かした「公衆衛生の改善」を積極的に取り入れてくれました。
「リリアーヌ様の知恵は、まさに神の啓示です。おかげで乳幼児の死亡率が劇的に下がりました!」
そう言って瞳を輝かせる神官たちと共に、私は日々、目に見える成果を積み上げていきました。
自分の能力が正当に評価され、周囲のサポートも万全であるという環境は、私に無限のエネルギーを与えてくれました。
心に余裕が生まれると、聖女としての魔力も驚くほど澄み渡り、かつてないほどの奇跡を連発できるようになりました。
私は今、異世界転生後の人生で、最高の「ワークライフバランス」を実現していたのです。
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一方で、私を無造作に放り出したアステリア王国は、急速にその輝きを失い始めていました。
セドリック様は、あの男爵令嬢を「真実の聖女」として王宮に住まわせましたが、彼女には何もできませんでした。
彼女が治癒と称して手をかざしても、傷口は膿み、熱は下がるどころか上がる一方でした。
協会は正式にアステリア王家への「完全なる絶縁」を宣言し、国内すべての司祭や神官、修道士を召還しました。
教会が運営していた施療院は閉鎖され、魔法による医療サービスがこの国から完全に消失したのです。
貴族たちは高熱にうなされ、王宮の重鎮たちも、自分たちが軽んじた聖女の価値を身を以て知ることとなりました。
さらに深刻だったのは、霊的な基盤の崩壊による、自然界の異変でした。
聖女の祈りによって保たれていた「結界」が消滅したことで、アステリアの大地は急速に痩せ細っていきました。
豊かな実りをもたらしていた小麦畑は枯れ果て、代わりに禍々しい魔力を帯びた雑草が蔓延り始めました。
辺境では魔物の活動が活発化し、守備隊の騎士たちは、治療魔法の支援もないまま命を落としていきました。
「なぜだ! なぜ私に跪かない! なぜ神は私を見捨てた!」
王宮の荒れ果てたバルコニーで、セドリック様は酒に溺れ、夜な夜な叫んでいたそうです。
彼が愛したはずの男爵令嬢も、かつての贅沢ができなくなった王宮に嫌気がさし、王家の家宝を持ち出して逃亡しました。
彼女は最後まで「聖女」としての責任を果たすことはなく、ただ王子を破滅へと導いただけでした。
民衆の不満は爆発寸前となり、彼らは国を見捨て、隣国へと流れ始めました。
「リリアーヌ様がいらっしゃるグランデイルへ行けば、病は治り、お腹いっぱいパンが食べられる」
その噂は希望の歌となって広まり、アステリア王国からは労働力も、知識人も、富も失われていきました。
かつて大陸随一の国力を誇った大国は、今や崩壊を待つだけの虚ろな器と化していました。
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それから一年が経ったある日、グランデイルの王宮に、アステリア王国からの正式な謝罪使節団が訪れました。
使節団の代表として現れたのは、かつての快活さを失い、見る影もなく老け込んだアステリアの国王陛下でした。
彼はグランデイルの国王陛下と私を前に、震える膝をついて、床に額を擦りつけました。
「リリアーヌ様、すべては我が息子の、そして我が王家の不徳の致すところでございます……」
彼の手には、セドリック様を廃嫡し、地下牢へ幽閉したことを記した公式な文書が握られていました。
「どうか、どうかアステリアに戻ってきてはいただけないでしょうか。国民が、このままでは全滅してしまいます」
王の背後で控えるかつての同僚の貴族たちも、私に向けて切実な、懇願の眼差しを向けていました。
かつてパーティー会場で私を嘲笑った彼らが、今や私の一言で国の運命が決まることを悟っているのです。
私はその光景を、冷めた紅茶を眺めるような気持ちで見つめていました。
私の隣では、グランデイルの枢機卿が、私の意志を尊重するように黙って見守ってくれています。
私はゆっくりと口を開き、アステリアの王に、慈悲深くも冷徹な宣告をしました。
「お断りいたします、アステリア王。私は、今この場所で、心から愛され、必要とされているのです」
「かつての国での私は、便利な道具に過ぎませんでした。けれど、ここには私の心があり、友がいます」
私は王を立たせることすらなく、グランデイルの聖騎士たちが守る回廊へと背を向けました。
「もう二度と、私を呼び戻そうなどとは考えないでください。それは、私を、そして私を受け入れてくれたグランデイルへの侮辱ですわ」
私の背後に響いたのは、アステリアの王が絶望に打ちひしがれて漏らした、嗚咽の音でした。
私は一度も振り返ることなく、光が差し込む庭園へと足を進めました。
過去を切り捨て、ポジティブに明日を見つめる。それが、私が転生して掴み取った「聖女」としての誇りなのです。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
グランデイルの空は、今日も雲一つない青天でした。
私の周囲には、治癒の魔法を学びたいという熱心な見習い聖女たちが集まり、楽しげに笑い合っています。
私は彼女たちに、魔法のテクニックだけでなく、「自分を大切にすること」の大切さを説いています。
「自分が満たされていなければ、他人に光を与えることはできませんのよ」
その言葉は、前世で自分を擦り減らしていた私自身への、最大の教訓でもありました。
聖教会の鐘の音が、新しい一日の始まりを祝福するように、国中に高らかに響き渡ります。
アステリア王国がその後どうなったか、私にはもう知る術もありません。
ただ、かつての自分と同じように苦しむ人々が、この国に辿り着いた時には、誰よりも温かく迎え入れようと思っています。
私は一輪の白い花を摘み、その瑞々しい香りを胸いっぱいに吸い込みました。
聖女リリアーヌとしての人生は、これからが本当の本番なのです。
誰かの犠牲になるのではなく、共に笑い、共に歩む。
この美しい国で、私は自分の信じる「正義」と「幸福」を、どこまでも広げていくつもりです。
庭園の向こうから、私を呼ぶ子供たちの元気な声が聞こえてきました。
私はドレスの裾を少しだけ持ち上げ、光り輝く未来へと、軽やかに駆け出しました。
過去の枷はもうどこにもありません。
私の手の中にあるのは、世界を救う奇跡と、私自身の自由な心だけなのですから。
風に乗って運ばれてくる花の香りと、民たちの歓喜の歌。
それが、今の私にとって最も大切な、神様からの贈り物でした。




