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リヴァ・アルカ ―最強特殊部隊は、たった一人のアンカーを失えない―  作者: Ilir Noct
第六章「浮遊する標的 ― Drifting Target」

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地図を広げる役



 西崎の断崖。


 カラムはスコープを動かさなかった。


 1500メートル先で、五人がアルノを抱えて移動していた。アルノの足が地面を引いていた。意識を失っているように見えた。


 藪に入った。建物の北側、地上の倉庫からは見えない位置だった。


 茂みの奥に、地面が少し沈んだ場所があった。コンクリートの階段が、月光に薄く浮かんで見えた。地下への入口だった。事前情報になかった。


 五人がアルノを抱えて、階段を降りていた。


『北側。確保された』


 カラムの声は、いつもと変わらなかった。低く、淡々としていた。ただ、いつもよりわずかに早かった。


「アルノ」リヴァが無線に呼びかけた。


『敵五』カラムが続けた。


「アルノ、聞こえる?」


『建物北側の藪へ移動』


「返事して、アルノ」


 返事は、なかった。


『担がれてる。…意識反応なし』


 ノイズだけが、流れた。


『地下入口だ』




 一拍。


「カラム、場所は」リヴァが言った。焦っていた。


『北側の藪、建物の壁から十五メートル』カラムが言った。『地下入口、幅九十センチ前後。コンクリ階段、下り角度三十度』


 もうそこには、地下入口の暗い口しか映っていなかった。


「ユキナガ、地下の構造、衛星で見えないの」


『見てる』ユキナガの声が、被った。早口だった。『無理。植生で隠れてる。事前情報にもない』


「俺がいる地下と繋がってるか」カイの声。地下からだった。


『繋がってない。たぶん――』


「行く」


 カイの声が、無線を、断ち切った。水滴が飛んだ。


 カイがダイビング装備のまま、施設の階段を駆け上がっていた。ウェットスーツが濡れていた。タンクは岩陰に置いたままだった。ナイフとP320だけ、持っていた。


「カイ、待て」フィンが叫んだ。


「待てない」


「待て、聞け」


「離せ」


 カイは施設の正面玄関から、外に出た。長距離武器がなかった。タクティカルパンツでもなかった。装備が、足りなかった。


 北側の藪に向かって、走り始めた。砂利がはねた。


 無線に、ユキナガの声が来た。


『カイ』


 声が、変わっていた。普段のユキナガではなかった。早口でもなかった。落ち着いていた。落ち着かせていた。


『止まって、聞いて。相手は』


「五人」


『地上で見えたのは、五人だろ』


 ユキナガが、一瞬、言葉に詰まった。


『……狭い通路で待たれてたら、終わる』


「……」


『お前一人で、構造もわからず、人数もわからず、ウェットスーツのまま地下に突っ込んで、アルノを取り戻せると思うか』


 カイの足が、藪の手前で、止まった。


「……」カイが言った。


『わかってる』ユキナガの声が、ほんの少し、揺れた。『俺も行きたい』


 カイが、藪を見た。


 月光が、地下入口を、薄く照らしていた。


 カイが、一歩、進んだ。足が勝手に前へ出た。


 止まった。


 一歩、戻った。


「……」


 カイは、藪を見ていた。


 手が、震えていた。拳が開いて閉じた。


『戻れ』ユキナガが言った。『一回、戻る。情報を集めて、装備を整えて、突っ込む。それしかない』


 カイが、踵を返した。


 ゆっくりだった。


「……戻る」カイが言った。声が、低かった。


『……戻れ』ユキナガが言った。


 カラムだけがスコープから目を離さなかった。





 拠点に戻った。


 誰も、何も言わなかった。


 玄関を入ってから、誰も口を開かなかった。


 カイは窓際に立っていた。着替えていたが、髪からはまだ海水が落ちていた。タクティカルパンツに黒のTシャツ。床に、小さな水滴が点々と続いていた。


 リビングの中央に、テーブルがあった。


 その上に、地図が広がっていた。ユキナガが車内で印刷した、与那国の北側一帯。施設、断崖、藪、海岸線。縮尺も、座標も、正確だった。情報としては、完璧だった。


 誰も、ペンを取らなかった。


 いつもなら、全員が席に着く前に、一本の赤線が引かれていた。突入路。撤退路。射線。優先順位。アルノが、誰よりも早くテーブルに着いて、最初の一本を引いた。その一本を見てから、全員が考え始めた。どこを通るか。どこで待つか。何を捨てるか。最初の一本が、思考の起点だった。


 今夜は、地図が広がったまま、白かった。


 誰も最初の一本を、引けなかった。




 カラムは、部屋の隅にいた。


 壁際の床に座っていた。


 煙草を指に挟んでいた。灰が床に落ちていた。


 頭の中はずっと、同じ映像だった。


 1500メートル先。サーマルの中の、白い人型。五つ。一つが、引きずられていた。足が、地面を擦っていた。


 最後まで、見えていた。


 撃てば、アルノに当たった。だから、撃たなかった。


 判断は、正しかった。


 アルノが連れて行かれるのを、最後までただ見ていた。スコープの中で。


 その映像が、消えなかった。




「で、どうする」フィンが言った。


 フィンが立ち上がっていた。腕を組んでいた。


 誰かが場を仕切らなければならなかった。仕切る人間が、いなかった。


「動く」カイが言った。窓の外を見たままだった。


「闇雲だ」


「地下入口は特定できてる。一人でも行く」


「行かせない」フィンは目線をカイから外さなかった。「一番先に死ぬ動きしてる。今のお前」


「……」


「構造もわからない。相手の人数もわからない」フィンが言った。「お前、それでSOP(標準手順)が組めるのか」


SOP(標準手順)なら、ゴールデンアワー(救出猶予)を過ぎる前に動く」


ゴールデンアワー(救出猶予)は、救出側が主導権を持ってる時の話だ」


「待てば、アルノが」


「死にたがりにしか見えない」


 フィンがテーブルに手をついた。地図を見下ろした。


「地下通路だ」フィンが言った。「待ち伏せされてたら、終わりだ」


 誰も返さなかった。


「地下に人質を取られてる時点で、最悪なんだよ」フィンの声が、少し荒くなった。「入口一つ。出口、不明。敵数、不明。構造、不明。これ以上悪い条件、あるか」


 カイは何も言わなかった。


「負傷者が出たら」フィンが続けた。


「運ぶ」


「誰が。二人しかいない。一人が撃たれたら、もう一人が担いで、地下の通路を、敵の中を、どうやって抜ける」


「……」


「救出できたとしても」フィンが言った。「…生きてたとしても、歩けるとは限らない」


 間があった。


「担いで出すなら人数が要る」フィンが言った。「全部わからない。だからお前は今、感情で話してる」


「感情じゃない」


「感情だ」フィンが言った。「お前の言ってることは、全部、アルノを助けたいって気持ちから逆算してる。手順から組んでない」


「何分」カイが言った。


「……」


「何分待てばいい」


「カイ」


「何分で助かる」


「だからそれが、わからねえんだよ」フィンが声を荒げた。肩で息をしていた。


 ユキナガが、ずっと画面を睨んでいた。


「データの解析、地下構造の推測まで時間がかかる。見てから判断しろ」ユキナガが言った。


「いつ出る」


「最短で明日の夜」


 全員が止まった。


 アルノなら、ここで数字を出した。


 突入確率。損耗率。必要装備。撤退条件。地下構造の推定が出るまでの所要時間。それを待った場合の生存率と、待たなかった場合の生存率。両方を並べて、感情の話も、数字の話に変えた。


 それが、アルノの役目だった。


 誰も、数字を出さなかった。出せる人間が、いなかった。


「明日の夜にデータが出て、解析して、計画立てて、突入準備して、いつになる」


「……」


「アルノが、それまで持つか」


 噛み締める音が、部屋の静かな空気に小さく響いた。


 呼吸が浅かった。


 今すぐ行かなければ、自分自身が壊れる気がしていた。


「持つよ」ユキナガが言った。「アルノなら、持つ」


「根拠は」


「対尋問訓練、受けてる」


「相手は、お前が把握してない人間だ」


「お前だって把握してないだろ」


「それでも、」カイは言った。


 ユキナガが、立ち上がった。


「待てって言ってんだろ」ユキナガが、声を荒げた。


 部屋が、止まった。ユキナガは、めったに声を荒げなかった。荒げる必要が、なかった。いつもは飄々と、必要なことだけ言って、引いていた。


「お前は、現場しか見てない」ユキナガが言った。


「何だと」


「今、地下に突っ込んで、お前が死んだら、終わりだ。アルノを取り戻せる人間が、一人減る」


「アルノは、今、死にかけてるかもしれない」


「だから、生きて取り戻すために考えてんだろ」


「アルノが攫われた今、お前の解析に何の意味がある」


 ユキナガが、一瞬、黙った。カイの方に歩み寄った。


「は?…お前、俺の解析が要らないって言ってるのか」


「そうは言ってないだろ」カイが立ち上がった。ユキナガを見下ろした。


「俺がいなかったら、ヘリの離発着スケジュールも出てないし、施設の構造もわからなかった。お前ら、現場で武器振り回すだけで、情報は俺だ」


「ユキナガ」フィンが言った。「わかってる。今その話じゃない」


「その話だろ。俺が解析回さなきゃ再突入しても返り討ちに遭うだけだ」


 ユキナガがテーブルを蹴った。グラスの水が揺れる。


「アルノがもし死んで―――」


 その瞬間だった。


 カイの拳が、出た。


 ユキナガの頬に、入った。


「カイ」リヴァが声を出した。


 ユキナガの体が、横に流れた。テーブルに手をついた。地図が、ずれた。


 ユキナガが、口の端を拭った。


 手の甲に、血がついた。


「アルノは、死んでない」カイが言った。


 それからユキナガはカイに掴みかかった。胸ぐらを取った。引き寄せた。


「お前だけじゃねえんだよ。アルノがいなくなって、困ってんのは」


 カイが、ユキナガの腕を掴んだ。引き剥がそうとした。ユキナガは離さなかった。二人が、もつれた。テーブルにぶつかった。地図が、床に落ちた。端末も落ちた。鈍い音がした。


「やめて」


 リヴァの声だった。


 膝を抱えたままだった。立たなかった。


 二人が、止まった。


 リヴァを見た。


 リヴァは、少し止まった。


 深く息を吸った。


「カイ」


「……」


「離して」


 カイの手が、ユキナガから離れた。


 ユキナガの手も、カイから離れた。


 二人とも、まだ動かなかった。


「座って」リヴァが言った。


 カイは、止まった。


 しばらく、リヴァを見ていた。


 それから、ゆっくり、リヴァの隣の床に座った。


 壁に背をもたせた。


 部屋が、静かになった。


 ユキナガがシャツを直していた。手が、少し震えていた。座った。


 フィンがソファに座り直した。


 リヴァは開いている椅子を見た。


 アルノの席だった。


 そこには何もなかった。


 リヴァは、深く、息を吸った。それから、ゆっくり、口を開いた。


「カラム」


「うん」


「明るくなったら、現地。地下入口を、見下ろせる位置を、探して」


「フィン。地下突入の、組み立て」


「ユキナガは、地下構造の、解析」


「カイは、海側のルート」


 カイが、少しだけ、顔を上げた。


「私は、狙撃位置を詰める。カラムと連携する」


 リヴァは、全員を、見た。


「アルノを取り戻すには、全部、必要」


 誰も、反論しなかった。


 間があった。


「……わかった」フィンが言った。



「……アルノの真似、してみた」リヴァが、小さく言った。


 少しだけ、笑った。口の端だけで。


「全然、向いてないけど」


 誰も、笑わなかった。





「……俺だって」ユキナガが言った。


 床を見ていた。


「俺だって、走りたかったよ。お前が藪に向かって走った時。俺も、行きたかった。でも、誰かが止めなきゃいけなかった。だから、お前を止める声、出した。落ち着いた声、出すのに、どんだけ……」


 言葉が、途切れた。震えていた。


「うん」リヴァは言った。


 ユキナガは、それ以上、言わなかった。膝の上で、手を握っていた。指の関節が、白かった。


 カイが、壁に手をついた。手のひらを、壁に当てたまま、動かなかった。指先で、壁を、一度、押した。確かめるように。冷たい感触が、返ってきた。


 それから、低い声で言った。


「……悪い」


 ユキナガは、答えなかった。





「……俺もホテル代、アルノにまだ払ってない」カラムが言った。


「カラム…何の話」フィンが言った。


「だから、明日の偵察はちゃんとやる」


「…うん」リヴァが言った。


「地下入口、明るくなれば熱源見えるかも」


「わかった」


 少しだけ間があった。


「…少なくとも、運ばれた時点では生きてた」


 カラムが言った。


「……」


「自力歩行じゃなかった。意識はなかった。でも、死体の運び方じゃなかった」


 カラムは煙草を吸った。目を伏せた。


「殺すだけなら、その場で撃って終わり」






 午前四時を、過ぎていた。


 外が、薄く、明るくなり始めていた。鳥の声が、聞こえ始めていた。


 全員が、まだ、リビングにいた。


 誰も、自分の部屋に、戻らなかった。戻れば、眠らなければならなかった。眠れば、時間が、進んだ。眠っている間にも、アルノの時間は、進んだ。


 フィンが、ソファに、横になった。目を、閉じた。


 十分。


 二十分。


 三十分。


 目を、開けた。時計を、見た。四時四十一分。


 アルノが連れて行かれてから、六時間と少し。


 六時間。


 誰もその数字を口にしなかった。


 カイは、窓際の床に座っていた。壁に手をついたままだった。


 手のひらの下の壁はもう、体温で温かくなっていた。それでも、手を離さなかった。


 テーブルの上で、コーヒーが冷えていた。誰かが、いつのまにか淹れていた。ブラックのまま、一つ。誰も淹れた覚えが、なかった。


 誰もそれに手をつけなかった。


 夜が、終わりかけていた。


 アルノは、まだ帰ってこなかった。

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