地図を広げる役
西崎の断崖。
カラムはスコープを動かさなかった。
1500メートル先で、五人がアルノを抱えて移動していた。アルノの足が地面を引いていた。意識を失っているように見えた。
藪に入った。建物の北側、地上の倉庫からは見えない位置だった。
茂みの奥に、地面が少し沈んだ場所があった。コンクリートの階段が、月光に薄く浮かんで見えた。地下への入口だった。事前情報になかった。
五人がアルノを抱えて、階段を降りていた。
『北側。確保された』
カラムの声は、いつもと変わらなかった。低く、淡々としていた。ただ、いつもよりわずかに早かった。
「アルノ」リヴァが無線に呼びかけた。
『敵五』カラムが続けた。
「アルノ、聞こえる?」
『建物北側の藪へ移動』
「返事して、アルノ」
返事は、なかった。
『担がれてる。…意識反応なし』
ノイズだけが、流れた。
『地下入口だ』
一拍。
「カラム、場所は」リヴァが言った。焦っていた。
『北側の藪、建物の壁から十五メートル』カラムが言った。『地下入口、幅九十センチ前後。コンクリ階段、下り角度三十度』
もうそこには、地下入口の暗い口しか映っていなかった。
「ユキナガ、地下の構造、衛星で見えないの」
『見てる』ユキナガの声が、被った。早口だった。『無理。植生で隠れてる。事前情報にもない』
「俺がいる地下と繋がってるか」カイの声。地下からだった。
『繋がってない。たぶん――』
「行く」
カイの声が、無線を、断ち切った。水滴が飛んだ。
カイがダイビング装備のまま、施設の階段を駆け上がっていた。ウェットスーツが濡れていた。タンクは岩陰に置いたままだった。ナイフとP320だけ、持っていた。
「カイ、待て」フィンが叫んだ。
「待てない」
「待て、聞け」
「離せ」
カイは施設の正面玄関から、外に出た。長距離武器がなかった。タクティカルパンツでもなかった。装備が、足りなかった。
北側の藪に向かって、走り始めた。砂利がはねた。
無線に、ユキナガの声が来た。
『カイ』
声が、変わっていた。普段のユキナガではなかった。早口でもなかった。落ち着いていた。落ち着かせていた。
『止まって、聞いて。相手は』
「五人」
『地上で見えたのは、五人だろ』
ユキナガが、一瞬、言葉に詰まった。
『……狭い通路で待たれてたら、終わる』
「……」
『お前一人で、構造もわからず、人数もわからず、ウェットスーツのまま地下に突っ込んで、アルノを取り戻せると思うか』
カイの足が、藪の手前で、止まった。
「……」カイが言った。
『わかってる』ユキナガの声が、ほんの少し、揺れた。『俺も行きたい』
カイが、藪を見た。
月光が、地下入口を、薄く照らしていた。
カイが、一歩、進んだ。足が勝手に前へ出た。
止まった。
一歩、戻った。
「……」
カイは、藪を見ていた。
手が、震えていた。拳が開いて閉じた。
『戻れ』ユキナガが言った。『一回、戻る。情報を集めて、装備を整えて、突っ込む。それしかない』
カイが、踵を返した。
ゆっくりだった。
「……戻る」カイが言った。声が、低かった。
『……戻れ』ユキナガが言った。
カラムだけがスコープから目を離さなかった。
拠点に戻った。
誰も、何も言わなかった。
玄関を入ってから、誰も口を開かなかった。
カイは窓際に立っていた。着替えていたが、髪からはまだ海水が落ちていた。タクティカルパンツに黒のTシャツ。床に、小さな水滴が点々と続いていた。
リビングの中央に、テーブルがあった。
その上に、地図が広がっていた。ユキナガが車内で印刷した、与那国の北側一帯。施設、断崖、藪、海岸線。縮尺も、座標も、正確だった。情報としては、完璧だった。
誰も、ペンを取らなかった。
いつもなら、全員が席に着く前に、一本の赤線が引かれていた。突入路。撤退路。射線。優先順位。アルノが、誰よりも早くテーブルに着いて、最初の一本を引いた。その一本を見てから、全員が考え始めた。どこを通るか。どこで待つか。何を捨てるか。最初の一本が、思考の起点だった。
今夜は、地図が広がったまま、白かった。
誰も最初の一本を、引けなかった。
カラムは、部屋の隅にいた。
壁際の床に座っていた。
煙草を指に挟んでいた。灰が床に落ちていた。
頭の中はずっと、同じ映像だった。
1500メートル先。サーマルの中の、白い人型。五つ。一つが、引きずられていた。足が、地面を擦っていた。
最後まで、見えていた。
撃てば、アルノに当たった。だから、撃たなかった。
判断は、正しかった。
アルノが連れて行かれるのを、最後までただ見ていた。スコープの中で。
その映像が、消えなかった。
「で、どうする」フィンが言った。
フィンが立ち上がっていた。腕を組んでいた。
誰かが場を仕切らなければならなかった。仕切る人間が、いなかった。
「動く」カイが言った。窓の外を見たままだった。
「闇雲だ」
「地下入口は特定できてる。一人でも行く」
「行かせない」フィンは目線をカイから外さなかった。「一番先に死ぬ動きしてる。今のお前」
「……」
「構造もわからない。相手の人数もわからない」フィンが言った。「お前、それでSOPが組めるのか」
「SOPなら、ゴールデンアワーを過ぎる前に動く」
「ゴールデンアワーは、救出側が主導権を持ってる時の話だ」
「待てば、アルノが」
「死にたがりにしか見えない」
フィンがテーブルに手をついた。地図を見下ろした。
「地下通路だ」フィンが言った。「待ち伏せされてたら、終わりだ」
誰も返さなかった。
「地下に人質を取られてる時点で、最悪なんだよ」フィンの声が、少し荒くなった。「入口一つ。出口、不明。敵数、不明。構造、不明。これ以上悪い条件、あるか」
カイは何も言わなかった。
「負傷者が出たら」フィンが続けた。
「運ぶ」
「誰が。二人しかいない。一人が撃たれたら、もう一人が担いで、地下の通路を、敵の中を、どうやって抜ける」
「……」
「救出できたとしても」フィンが言った。「…生きてたとしても、歩けるとは限らない」
間があった。
「担いで出すなら人数が要る」フィンが言った。「全部わからない。だからお前は今、感情で話してる」
「感情じゃない」
「感情だ」フィンが言った。「お前の言ってることは、全部、アルノを助けたいって気持ちから逆算してる。手順から組んでない」
「何分」カイが言った。
「……」
「何分待てばいい」
「カイ」
「何分で助かる」
「だからそれが、わからねえんだよ」フィンが声を荒げた。肩で息をしていた。
ユキナガが、ずっと画面を睨んでいた。
「データの解析、地下構造の推測まで時間がかかる。見てから判断しろ」ユキナガが言った。
「いつ出る」
「最短で明日の夜」
全員が止まった。
アルノなら、ここで数字を出した。
突入確率。損耗率。必要装備。撤退条件。地下構造の推定が出るまでの所要時間。それを待った場合の生存率と、待たなかった場合の生存率。両方を並べて、感情の話も、数字の話に変えた。
それが、アルノの役目だった。
誰も、数字を出さなかった。出せる人間が、いなかった。
「明日の夜にデータが出て、解析して、計画立てて、突入準備して、いつになる」
「……」
「アルノが、それまで持つか」
噛み締める音が、部屋の静かな空気に小さく響いた。
呼吸が浅かった。
今すぐ行かなければ、自分自身が壊れる気がしていた。
「持つよ」ユキナガが言った。「アルノなら、持つ」
「根拠は」
「対尋問訓練、受けてる」
「相手は、お前が把握してない人間だ」
「お前だって把握してないだろ」
「それでも、」カイは言った。
ユキナガが、立ち上がった。
「待てって言ってんだろ」ユキナガが、声を荒げた。
部屋が、止まった。ユキナガは、めったに声を荒げなかった。荒げる必要が、なかった。いつもは飄々と、必要なことだけ言って、引いていた。
「お前は、現場しか見てない」ユキナガが言った。
「何だと」
「今、地下に突っ込んで、お前が死んだら、終わりだ。アルノを取り戻せる人間が、一人減る」
「アルノは、今、死にかけてるかもしれない」
「だから、生きて取り戻すために考えてんだろ」
「アルノが攫われた今、お前の解析に何の意味がある」
ユキナガが、一瞬、黙った。カイの方に歩み寄った。
「は?…お前、俺の解析が要らないって言ってるのか」
「そうは言ってないだろ」カイが立ち上がった。ユキナガを見下ろした。
「俺がいなかったら、ヘリの離発着スケジュールも出てないし、施設の構造もわからなかった。お前ら、現場で武器振り回すだけで、情報は俺だ」
「ユキナガ」フィンが言った。「わかってる。今その話じゃない」
「その話だろ。俺が解析回さなきゃ再突入しても返り討ちに遭うだけだ」
ユキナガがテーブルを蹴った。グラスの水が揺れる。
「アルノがもし死んで―――」
その瞬間だった。
カイの拳が、出た。
ユキナガの頬に、入った。
「カイ」リヴァが声を出した。
ユキナガの体が、横に流れた。テーブルに手をついた。地図が、ずれた。
ユキナガが、口の端を拭った。
手の甲に、血がついた。
「アルノは、死んでない」カイが言った。
それからユキナガはカイに掴みかかった。胸ぐらを取った。引き寄せた。
「お前だけじゃねえんだよ。アルノがいなくなって、困ってんのは」
カイが、ユキナガの腕を掴んだ。引き剥がそうとした。ユキナガは離さなかった。二人が、もつれた。テーブルにぶつかった。地図が、床に落ちた。端末も落ちた。鈍い音がした。
「やめて」
リヴァの声だった。
膝を抱えたままだった。立たなかった。
二人が、止まった。
リヴァを見た。
リヴァは、少し止まった。
深く息を吸った。
「カイ」
「……」
「離して」
カイの手が、ユキナガから離れた。
ユキナガの手も、カイから離れた。
二人とも、まだ動かなかった。
「座って」リヴァが言った。
カイは、止まった。
しばらく、リヴァを見ていた。
それから、ゆっくり、リヴァの隣の床に座った。
壁に背をもたせた。
部屋が、静かになった。
ユキナガがシャツを直していた。手が、少し震えていた。座った。
フィンがソファに座り直した。
リヴァは開いている椅子を見た。
アルノの席だった。
そこには何もなかった。
リヴァは、深く、息を吸った。それから、ゆっくり、口を開いた。
「カラム」
「うん」
「明るくなったら、現地。地下入口を、見下ろせる位置を、探して」
「フィン。地下突入の、組み立て」
「ユキナガは、地下構造の、解析」
「カイは、海側のルート」
カイが、少しだけ、顔を上げた。
「私は、狙撃位置を詰める。カラムと連携する」
リヴァは、全員を、見た。
「アルノを取り戻すには、全部、必要」
誰も、反論しなかった。
間があった。
「……わかった」フィンが言った。
「……アルノの真似、してみた」リヴァが、小さく言った。
少しだけ、笑った。口の端だけで。
「全然、向いてないけど」
誰も、笑わなかった。
「……俺だって」ユキナガが言った。
床を見ていた。
「俺だって、走りたかったよ。お前が藪に向かって走った時。俺も、行きたかった。でも、誰かが止めなきゃいけなかった。だから、お前を止める声、出した。落ち着いた声、出すのに、どんだけ……」
言葉が、途切れた。震えていた。
「うん」リヴァは言った。
ユキナガは、それ以上、言わなかった。膝の上で、手を握っていた。指の関節が、白かった。
カイが、壁に手をついた。手のひらを、壁に当てたまま、動かなかった。指先で、壁を、一度、押した。確かめるように。冷たい感触が、返ってきた。
それから、低い声で言った。
「……悪い」
ユキナガは、答えなかった。
「……俺もホテル代、アルノにまだ払ってない」カラムが言った。
「カラム…何の話」フィンが言った。
「だから、明日の偵察はちゃんとやる」
「…うん」リヴァが言った。
「地下入口、明るくなれば熱源見えるかも」
「わかった」
少しだけ間があった。
「…少なくとも、運ばれた時点では生きてた」
カラムが言った。
「……」
「自力歩行じゃなかった。意識はなかった。でも、死体の運び方じゃなかった」
カラムは煙草を吸った。目を伏せた。
「殺すだけなら、その場で撃って終わり」
午前四時を、過ぎていた。
外が、薄く、明るくなり始めていた。鳥の声が、聞こえ始めていた。
全員が、まだ、リビングにいた。
誰も、自分の部屋に、戻らなかった。戻れば、眠らなければならなかった。眠れば、時間が、進んだ。眠っている間にも、アルノの時間は、進んだ。
フィンが、ソファに、横になった。目を、閉じた。
十分。
二十分。
三十分。
目を、開けた。時計を、見た。四時四十一分。
アルノが連れて行かれてから、六時間と少し。
六時間。
誰もその数字を口にしなかった。
カイは、窓際の床に座っていた。壁に手をついたままだった。
手のひらの下の壁はもう、体温で温かくなっていた。それでも、手を離さなかった。
テーブルの上で、コーヒーが冷えていた。誰かが、いつのまにか淹れていた。ブラックのまま、一つ。誰も淹れた覚えが、なかった。
誰もそれに手をつけなかった。
夜が、終わりかけていた。
アルノは、まだ帰ってこなかった。




