コンラッド東京:TwentyEight
新拠点 共用スペース 午前十時。
襲撃から一週間。
リヴァはテーブルでアルノの向かいに座ってコーヒーを飲んでいた。
アルノは吸いかけの煙草を灰皿に置いて、ラップトップと向き合ってキーを叩いていた。
「ねえアルノ」
アルノはキーボードを叩いたままで、返事はなかった。
しばらくして音が止み、ラップトップを半分だけ閉じて目線を上げた。
「お待たせしました」
アルノが灰皿から左手で煙草を持って、吸った。
リヴァがテーブルに両手を乗せた。
「これ、平気?」
爪は短く整えられ、色がついていた。
艶のある黄色で、中指だけがオフホワイトだった。薬指には小さな白い花のパーツがついていた。小指の根元には、小さめのビジューが乗っている。
アルノがネイルを見た。
「何がですか?」顔を上げた。「似合っています」
「……」
リヴァが目を瞬いた。
間があった。
アルノがリヴァの目を見て、もう一度ネイルを見た。
「手が綺麗に見えます」アルノがリヴァを見て言った。
「あ…うん」
その返答に、アルノの眉が上がった。
アルノがリヴァの手をもう一度見た。
花の部分で一度視線が止まった。
「……射撃と装備操作に支障がなければ、問題ありません」
「わかった」
アルノは煙を吐きながら、背もたれに背中を預けた。
「自分で?」アルノが言った。
「ううん。ヴィクトルに連れてってもらった」
アルノが少し止まった。
「……私は聞いていませんでしたが」
アルノがカウンターに座っていたユキナガに声をかけた。
「ユキナガ。リヴァの外出申請、確認していますか」
「ネイルの?したよ。相手も店も問題なし。ヴィクトルずっと一緒だった。…アルノに報告するほどじゃないかなと」
「……そうですか」
アルノが眼鏡を押し上げて、ラップトップをまた開いた。
ユキナガがアルノを見て、口角を上げた。
「似合ってる、じゃなくて可愛いって言ったら?」ユキナガが言った。
「可愛いですよ」
「あ……ありがとう」リヴァが言った。
ユキナガが吹き出した。
しばらくして、カイも共用スペースに来た。
アルノが話し出した。
「グレイ・マルセルが来日しています」アルノが言った。
カイの表情は動かなかった。
「いつから」カイが言った。
「今朝から確認。滞在は汐留周辺」
「襲撃から一週間で来日」リヴァが言った。
「偶然ではないでしょう」
「会いに来た」カイが言った。
アルノが少しだけ間を置いた。
「……そう見ます」
ユキナガが端末を叩いた。
「入国記録、多分これ。プライベートジェットで羽田。同行者三名。身元は調べてる」
「同行者の役割は」
「二人は護衛。もう一人は研究者」
少しだけ間があった。
「専門は神経薬理学」
部屋が静かになった。
「接触してくる」カイがテーブルに掌を乗せた。
「そうですね」アルノは言った。「問題は、こちらが先に動くか、待つかです」
「待つ必要はない」カイが言った。
「ただし」アルノが続けた。「彼の目的を確認する前に動くのは合理的ではありません。なぜ今、なぜリヴァに直接接触しようとしているのか。それを知る価値がある」
カイがアルノを見た。
「囮にでもするつもりか」
「情報を取りながら対処する、ということです」
「同じだろう」
「リスク管理が違います」
二人が少しの間、見合った。
リヴァは二人を見た。
「会う」リヴァは言った。「私に会いに来てるなら、私が出る」
アルノが眼鏡のブリッジを押し上げた。
「それが一番早いから」リヴァが言った。
三日後に連絡が来た。
端末に番号のない着信。午後一時だった。
「お時間をいただけますか」
英語で、低かった。ゆっくりだった。
「誰」リヴァは言った。
「グレイ・マルセルです」
「…グレイ」
「コンラッド東京、二十八階のラウンジに、十五時。待っていますね」
電話が切れた。
ユキナガが通話を記録していた。声紋照合をかけた。
「本人。汐留のホテル」彼は言った。「間違いない」
アルノが腕を組んだ。
「罠の可能性は」カイが言った。
「罠にしては場所が開けすぎています。人が多い。派手には動けない」アルノは言った。「ただ」
「行く」リヴァは言った。
カイがリヴァを見た。
「俺も行く」
「それはだめ」
「なぜ。アルバンが居ない確証もない」
「グレイは私に話しかけに来てる。カイがいたら私に話しかけてこないかもしれない」
カイが黙った。
「外で待機してくれれば充分」リヴァは言った。「ユキナガがカメラで見てる。アルノが通信で聞いてる。それだけあれば」
「嫌だ」カイは言った。
「わかってる」リヴァは言った。「それでも行くよ」
カイが前を向いた。それ以上は言わなかった。
コンラッド東京、二十八階。
エレベーターの扉が開くと、正面に天井までのガラス。視界が一気に抜けた。
午後三時、光は横から差し込む。ラウンジのソファは低く、奥行きがある。席間は広い。視線が通るように配置されていた。
ピアノが鳴っていた。音数の少ない曲だった。
サティだった。タイトルまでは思い出せなかった。
リヴァは淡いグレージュのタイトスカートに、シルクブラウスを着ていた。装飾はほとんどなく、爪の黄色が目立った。ヒールの音が薄い。
男は、ソファの中央に座っていた。脚を組み、背もたれに体を預けている。
一人だった。周囲に仲間らしき影はなかった。
黒髪。濃紺のスーツ。体に合わせて仕立てられていた。
こちらに気づいた。
視線だけが動いた。
「│You came.《来ましたね》」彼は言った。英語だった。
「呼んだから」リヴァは英語で答えた。
「なんて美しい。普段と雰囲気が違いますね」
「グレイ・マルセル」リヴァは言った。
「そうです。あなたのコードネームはリヴァになったと聞いています」
「そう」
「不思議な話だ」彼は言った。「本名がない人間が、アルカで機能している」
「仕事は名前でしない」リヴァが言った。
「アルバン・カストラティを寄越したのはあなた?」
「アルバン」
グレイは一度考えるように視線を落とした。
「嫌な名前を出しますね」
「何しに呼び出したの」
「あなたに会いたかったから」
「それだけ?」
「はい。それだけです」
彼は少し前に傾いた。距離が縮まった。
「組織で、うまくやっていますか」
「何が聞きたいの」
「あなたが、そこに本当にいたいのかどうか」
「いたいからいる」リヴァは言った。
「そうですか」
間があった。
「あなたは、自分の記憶がないと聞いています」
少し止まった。
彼はゆっくり、時間をかけて言葉を紡いだ。
「あなたが何者かを、私は少し知っています」
リヴァが固まった。
「何を知ってるの」
「あなたが聞きたくなった時、また来ればいい。それだけです」
「来ない」
「いいえ。あなたは来ます」
彼はゆっくりと立ち上がった。
リヴァを見下ろした。
「一つだけ」グレイは言った。
彼は、視線をリヴァの膝に落とした。
それから言った。
「Vous êtes bien assise.(きちんと座っていますね)」
リヴァは意味を拾えなかった。
「今度もまた、お洒落をしてきてくださいね」英語に戻っていた。
それだけ言って、歩いていった。人の流れの中に溶けていった。
リヴァはソファに座ったまま、彼の背中を見た。
「聞こえてた?」通信でアルノに言った。「最後の言葉、どういう意味」
少しだけ間があった。
「……”きちんと座っていますね”」アルノが言った。少し間があってから続けた。「記録しておきます」
三日後に、また連絡が来た。
「部屋で話しませんか」という内容だった。
アルノが反対した。
「駄目に決まってる」
「わかってる」リヴァは言った。
「わかっていても」
「でも情報が取れる」
「駄目です」アルノは言った。「リスクが高すぎる。彼の同行者に神経薬理学の専門家がいる。密室でどう動くか、予測できない」
「カイを同じ階に待機させて、ユキナガがカメラを抑えれば」
両肩を押さえられた。
言葉より先に、動きが止まった。
「客室にカメラはありません」アルノは言った。「防音されています。大声だけではカイを呼べない。高層階で逃げ場もない」
「アルノ」リヴァは言った。「私が行かないと、グレイは別の手を使う。もっと私たちの知らないところで動く」
「……わかっています」
「なら」
部屋が静かになった。
リヴァはアルノを見た。眼鏡の奥の目が、動かなかった。
「行く」リヴァは言った。「自分が何者か、知るために」
アルノは長い間、リヴァを見た。
眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……条件があります」アルノは言った。「必ず無線を繋いだ状態で行ってください。私に聞こえる状態で。途切れた瞬間にカイを突入させます」
「わかった」
「カイには私から話します」
「カイが暴れる」
「暴れさせません」
「できるの」
「……やります」彼は言った。
”Experience” / Ludovico Einaudi




