表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『リヴァ・アルカ ―世界を確定させるアンカーと最強たちの執着譚―』  作者: Ilir Noct
第三章「境界圏 ― Threshold Zone」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

27/50

「可哀想に」

※この話には心理的支配・精神的暴力の描写が含まれます。


 案内されたのは、最上階だった。


 エレベーターが開くと、男が一人立っていた。無言で頭を下げる。それだけで、ついてこいという意味だとわかった。


 廊下を歩く。絨毯が厚い。足音がしない。


 扉が開いた。


 広い部屋だった。窓が大きい。夜景が見える。街の光が、遠く、静かに広がっている。


 グレイ・マルセルは窓際に立っていた。


 煙草を指に挟んで、外を見ている。こちらが入っても振り返らない。


 護衛の姿はなかった。


 それが逆に、何かを意味していた。




 191センチ。


 濃紺のスーツだった。既製ではなかった。肩のラインが体に沿って静かに落ちる。動きがゆっくりだった。急がない。時間が無限にある人間の動き方だった。


 癖毛の黒髪が、うなじで少しだけ乱れていた。それだけが、整えられていない部分だった。


 ゆっくりと振り返った。


 顔が見えた。


 笑っていなかった。怒ってもいなかった。予定通り、という顔だった。


 目が、穏やかだった。


 穏やかすぎた。


 人を見る目ではなかった。何かを観察する目だった。値踏みでも興味でもない。確認だった。知っていたことを目で確かめている。その作業を、急がずに、丁寧にやっている。


 Camelを一口吸った。


 煙を、リヴァの方向に、ゆっくりと吐いた。


 意図的だった。距離を測っていた。煙がどこまで届くかで、今夜の間合いを決めている。そういう吐き方だった。


「来てくれましたね」と彼は言った。


 声が低かった。重く、乾いていた。急いでいない声だった。この声で何万回も人に話しかけてきた人間の声だった。


「呼んだから」とリヴァは言った。


「なんて美しい」


 褒めていなかった。確認していた。




 部屋の設計が、最初から逃げ場を奪っていた。


 最上階。護衛なし。開けた空間に見えて、ドアは一つしかない。窓の外は夜景だけだ。逃げようとすれば必ず彼の横を通る。


 グレイはそれを説明しなかった。


 説明する必要がなかった。


 ただ、窓際に立っていた。


 Camelの煙が、部屋に静かに広がっていた。


「来てくださり、ありがとうございます」


 低い声だった。重く、乾いている。


「呼ばれたから」


「ええ、そうですね」


 ゆっくり振り返る。Camelを一口吸って、煙を横に流す。


 目が合う。


 笑っていた。口元だけ。


「座ってください」


 促される。革張りのソファ。深く沈む。


 グレイが向かいに座る。足を組む。煙草をテーブルの灰皿に置く。火がついたまま。


「何の用」


「用、ですか」


 繰り返した。おかしそうに。


「会いたかっただけです」


「それだけのために呼んだの」


「ええ。そうですよ」


 悪びれなかった。


 グレイが煙草を取る。また一口吸う。煙が上がる。目がこちらから外れない。


「怖いですか、今」


「別に」


「そうですか」


 少し、目が細くなった。


「強いですね」


 褒めているのか、確認しているのか、わからない声だった。


 テーブルの上に、グラスが二つ置いてある。中身が入っている。いつ用意されたのか、気づかなかった。


「飲みますか」


「何が入ってるの」


「ウイスキーです」


「安全って証明できる?」


 グレイが少し笑った。今度は目も笑っていた。


「そうですね」


 否定も肯定もしない。


「でも、飲んでほしい」


 グラスをこちらに向けて少し押した。強制じゃない。だが、断りにくい種類の丁寧さだった。


「……どうして私を呼んだの」


 グレイが煙草を灰皿で押しつける。火が消える。


「さっき言いましたよ」


「会いたかっただけ、は理由にならない」


「そうですか。私には理由です」


 窓の外を一瞬見て、またこちらに視線を戻す。


「あなたのことが、気になっていました」


 静かに言った。


「随分前から」


 それだけだった。説明もなかった。続きもなかった。


 ただ、グラスがまだこちらに向いていた。


「三日前、意味がわからなかったでしょう」と彼は言った。


「椅子の話」と私は言った。


「そうです」


 グレイがゆっくりとウイスキーに視線を落とす。


 飲んだら、教えるという意味だろうか。


 またゆっくりと、グレイの視線が上がる。まっすぐ見つめてくる。



 



 グラスを手に取ったのは、その目に負けたからだった。


 口をつける。ウイスキーの味がした。普通の、ウイスキーの味。


 グレイが満足そうに煙草に火をつけた。


「では、教えて差し上げましょう」


 一回吸って、煙草を灰皿に置いた。立ち上がった。


 ゆっくりと、私の方に近づいてきた。急がない。威圧しない。ただ近づいてきた。


「動かないでくださいね」と彼は言った。


「動いてない」


「そうですね」


 私の横に立った。


「あなたは、私のことが怖いですか」と彼は言った。


「怖くない」


「そうですか」


 一拍。




「      」




 彼は何かを言った。


 短い言葉だった。日本語ではなかった。英語でもなかった。


 聞き覚えがあった。


 どこかで聞いた。知っている言語だった。でも何語かわからなかった。


 その言葉が耳に入った瞬間。


 何かが、落ちた。


 頭の中で、何かが。


 気づいたら、涙が出ていた。


 わからなかった。なぜ涙が出ているのか、わからなかった。怖くなかった。痛くなかった。でも涙が出た。


 体が震えていた。小さく。止められなかった。


「……なに」と私は言おうとした。声が、震えていた。「何を、して」


「静かに」とグレイは言った。


 ゆっくりとソファの前にしゃがんだ。私と目の高さを合わせた。穏やかな目だった。怒っていない。責めていない。ただ、見ていた。


 息が上がる。呼吸が自分の意志とは別の形で押し寄せてくる。


 泣きたくないのに、涙が出てくる。


 グレイはしばらく、何も言わなかった。


 あの言葉のせいなのか、グレイのせいで自分はおかしくされているのか。


 全部声に出したいのに、出てこなかった。


「大丈夫ですよ」と彼は言った。


 違った。大丈夫じゃない、とわかっていた。でも体が止まった。


「……やめて」


「可哀想に」


 彼の左手が、静かに動いた。


 右耳に触れた。


 軽かった。力がなかった。ただ触れただけだった。


 体が硬直した。


「…っ」


 息が吸えなかった。


「ごめんなさい」


 自分の声だった。


 無意識だった。なぜそう言ったのか、わからなかった。でも出た。唇が、勝手に動いた。


「ああ、可哀想に」とグレイは言った。


 穏やかだった。憐れんでいた。それが、何より気持ち悪かった。


「誰が」と言おうとした。誰がこんな仕掛けを作った、と聞きたかった。声がそこまで出なかった。


 グレイに意図は通じたようだった。


「それを知りたければ、また来てください」と彼は言った。


 息が戻ってきた頃。


 最初に気づいたのは、指先の違和感だった。


 温度がなくなった。


 次に、視界が揺れた。


 立ち上がろうとする。足に力が入らない。ソファから立てない。体が重い。鉛を飲んだみたいだった。


「……何、これは」


「あなたが、自分で飲んだものですよ」


 グレイの声が近くなった。気づいたら、隣に座っていた。さっきまで向かいにいたのに。


「自分で、さっき選んで飲んだ。そうでしょう?」


「…カイを、呼ぶ」


 端末を取ろうとする。手が震える。うまく掴めない。


 グレイの手が、静かに上から重なった。


「焦っていますね」


「離して」


「その顔は初めて見ました」


「やめて」


 声が、自分で思ったより小さかった。


「ほかの人間は、どうでもいい」


 グレイが端末をこちらの手から取る。テーブルの上に置く。遠い。届かない。


「何がしたいの」


「話がしたい」


「もう、話した」


「あなたが逃げるからですよ」


 煙草に火をつける。煙が上がる。目がこちらから外れない。


「動けない状態なら、聞いてくれると思って」


「最悪」


「そうですね」


 否定しなかった。


 時間が経つ。どれくらいかわからない。グレイはずっとそこにいた。煙草を吸っていた。


 思えば、グレイは時計をしていなかった。部屋にも、ない。いつからこの部屋にいるのか、わからなかった。


 気が遠くなる。思考にもやがかかる。


「寝ないでください」


 声がする。


 目を開ける。グレイがいる。近い。


「……」


 頭が重い。体が熱い。


「苦しいですね」


「……うるさい」


「そういう顔をするんですね」


 笑っていた。


 離れなければ。身をよじると、ソファから落ちそうになる。落ちて、床に手をつく。このまま這ってでも扉まで行けば、と思った。


「そうですか」


 グレイの声が上から降ってくる。見られている。すべて、視界に収められている。この部屋に入ってからずっと。逃げられない。


「可哀想に」


 静かに言った。命令でも懇願でもない。ただの、事実みたいな声だった。


 リヴァの頭に手を伸ばして、まるで子供にするように、撫でる。動けない。振り払えない。


「帰…して」


 その言葉に、グレイが反論する。


「帰る場所があるんですか。あなたに」


 言葉が詰まった。ある。あるはずだった。


 グレイは撫でていた手で髪を一束摘み、親指と人差し指で弄んだ。


「アルカに、」


「助けに来ませんでしたね」


 窓の外の夜景が、遠くて綺麗だった。こんな状況なのに、綺麗だと思った。


 グレイが低く言った。


「あなたを、ここに置いておきたい」


 所有欲だった。隠す気もなかった。


 一束つまんでいた髪に、ゆっくりと口づけた。


「気持ち悪い」


「そうですね」


 また否定しない。


 時間が、ゆっくりと流れた。優しい声と、髪をなでる行為。恐怖と交互に襲ってきて、あたまがおかしくなりそうだった。


「でも、あなたは来てくれた。自分で選んで、ここに」


 体の感覚が少しずつ戻ってくる。指が動く。足に力が入り始める。もう一度、立ち上がろうとする。今度はかろうじて、立てた。


 グレイと距離を取る。


 壁に手をつく。ふらつく。でも立っている。


「動けるようになったんですね」


「……」


 扉に向かう。足が重い。一歩ずつ。


「終わっていませんから」


 背後からグレイの声がした。笑っていた。


 扉を開ける。廊下に出る。冷たい空気だった。


 扉が閉まる音がした。


 入るときにいた守衛はいなかった。


 できるだけ扉と距離を取り、廊下の壁に背中を預ける。ずるずると、そのまま座り込んだ。膝が笑っている。手が震えていた。カーペットが無機質だった。


 まだ、グレイに見られている感覚がする。


 しばらく、動けなかった。



 



 涙がまだ出ていた。理由がわからないまま。


「リヴァ」


 通信だった。アルノの声だった。


 答えようとした。声が出なかった。


「リヴァ、聞こえますか」


「……聞こえる」


 かろうじて出た声が、自分のものじゃない気がした。


 廊下の向こうでエレベーターの音がした。


 扉が開いた。


 カイだった。


 スーツだった。今日のために着てきた、似合わなくもない黒のスーツだった。走ってきた気配があった。息が少しだけ上がっていた。


 廊下の端で床に座っている私を見た。


 一秒、止まった。


 それから歩いてきた。走らなかった。走ったら、私が何かを察すると思ったのかもしれない。


 私の前に、片膝をついた。


 目線が同じ高さになった。


 私の顔を見た。涙が出ていることを、見た。何も言わなかった。


「……カイ」と私は言った。


「ああ」


「帰りたい」


「わかった」


 彼は私の背中に手を通し、抱き上げた。


 歩き出した。エレベーターに向かった。


 涙が止まらない理由をまだ考えていた。


 体が覚えていた。


 誰かがそう設計した、とグレイは言った。


 誰かが。


 エレベーターの扉が開いた。カイが乗り込んだ。扉が閉まった。


 鏡張りの壁に、二人が映った。


 カイは正面を向いていた。左手首のダイブコンピュータのベルトが、蛍光灯を反射していた。


 私は自分の顔を見た。


 涙が出ていた。震えていた。


 自分の顔が、知らない顔みたいだった。


「カイ」


「ああ」


「カイ」


「ここにいる」


 カイは少しの間、私を見た。


 エレベーターが降りていった。


 私はカイの胸に、少しだけ頭を預けた。


 カイは何も言わなかった。


 ロビーの光が、扉の隙間から見えた。



 



 エレベーターがロビーに着いた。


 扉が開いた。


 カイが抱えたまま出た。


 アルノが立っていた。


 ロビーの端だった。壁を背にして、腕を組んでいた。ユキナガがその隣にいた。端末を持ったまま、画面を見ていなかった。


 二人ともリヴァを見た。


 カイは止まらなかった。


 アルノの横を通り過ぎようとした。


「カイ」とアルノが言った。


 カイが止まった。


 振り返らなかった。


「説明します」とアルノは言った。「無線が途切れた時点で、私は——」


「聞こえてた」


 カイの声だった。


 低かった。いつもより低かった。抑えている声だった。


「全部、聞こえてただろ」


 アルノが少し止まった。


「それでも止めなかった」


「突入すれば」とアルノは言った。「グレイは持っているものを使います」


「何を」


「神経薬理学の専門家が同行していました」アルノは声の温度を変えなかった。「密室で強行すれば、グレイはリヴァに何かを使う。どちらにしても、突入した瞬間に取り返しがつかない状態になる可能性があった」


 カイが少し止まった。


「グレイはそれをわかった上で、あの部屋を選んでいます。逃げ場のない高層階、護衛なし、開けた場所に見せかけて、実際は密室と変わらない。突入のタイミングを、最初から奪いに来ていた」


「それが一つ」とアルノは続けた。「もう一つは情報です。グレイはリヴァの過去を知っている可能性があります。今夜それを確認する必要があった。突入すれば、グレイは二度と話をしない」


「それがお前の判断か」


「はい」


「リヴァを使って?」


「……リスクを取ると判断した。それは事実です」


 カイが一歩、アルノに近づいた。


 アルノは退かなかった。


「お前が聞いてた声は」とカイは言った。「情報か」


 アルノが止まった。


 正しかった。判断は正しかった。グレイはリヴァを殺さなかった。情報が取れた。全部、計算通りだった。


 なのに。


 眼鏡のブリッジに手をかけた。押し上げられなかった。手が止まった。


「……聞こえていました」と彼は言った。「全部」


「ならわかるだろ」


「わかっています」アルノは視線を外さなかった。「わかっていて、止めなかった。それが今夜の私の判断です。正しかったと今も思っています」


 一拍あった。


「ただ」


 カイが止まった。


 アルノは前を向いたまま言った。


「……それだけです」


 ユキナガが床を見た。


 カイはアルノを見たまま、しばらく動かなかった。


 それ以上何も言わなかった。


 言葉が続かなかったのではなかった。


 これ以上言ったら、取り返しがつかない何かを言う、とわかっていた。


 リヴァを抱えたまま、カイは歩き出した。


 出口に向かった。


 




 車に乗った。


 カイのスカイラインだった。後部座席にリヴァを乗せた。自分が運転席に座った。


 エンジンをかけた。


 アルノが助手席のドアを開けた。


 カイは何も言わなかった。


 アルノとユキナガが乗った。ドアを閉めた。


 車が動き出した。


 誰も何も言わなかった。


 首都高の入口に差し掛かった頃、アルノが口を開いた。


「……リヴァ」と彼は言った。前を向いたまま。



「今夜のことは」一拍置いた。「あなたに負担をかけました」


 リヴァは窓の外を見ていた。


「アルノ」


「はい」


「怒るカイの声、初めて聞いた」


 アルノが少し止まった。


「……ええ」と彼は言った。静かに。「初めてでした」


 カイはハンドルを握ったまま、何も言わなかった。


 首都高の光が、フロントガラスを流れていった。


 リヴァは後部座席で、膝を少し抱えた。


 体がまだ、少しだけ重かった。

”Simon's Theme” / Jóhann Jóhannsson

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ