「可哀想に」
※この話には心理的支配・精神的暴力の描写が含まれます。
案内されたのは、最上階だった。
エレベーターが開くと、男が一人立っていた。無言で頭を下げる。それだけで、ついてこいという意味だとわかった。
廊下を歩く。絨毯が厚い。足音がしない。
扉が開いた。
広い部屋だった。窓が大きい。夜景が見える。街の光が、遠く、静かに広がっている。
グレイ・マルセルは窓際に立っていた。
煙草を指に挟んで、外を見ている。こちらが入っても振り返らない。
護衛の姿はなかった。
それが逆に、何かを意味していた。
191センチ。
濃紺のスーツだった。既製ではなかった。肩のラインが体に沿って静かに落ちる。動きがゆっくりだった。急がない。時間が無限にある人間の動き方だった。
癖毛の黒髪が、うなじで少しだけ乱れていた。それだけが、整えられていない部分だった。
ゆっくりと振り返った。
顔が見えた。
笑っていなかった。怒ってもいなかった。予定通り、という顔だった。
目が、穏やかだった。
穏やかすぎた。
人を見る目ではなかった。何かを観察する目だった。値踏みでも興味でもない。確認だった。知っていたことを目で確かめている。その作業を、急がずに、丁寧にやっている。
Camelを一口吸った。
煙を、リヴァの方向に、ゆっくりと吐いた。
意図的だった。距離を測っていた。煙がどこまで届くかで、今夜の間合いを決めている。そういう吐き方だった。
「来てくれましたね」と彼は言った。
声が低かった。重く、乾いていた。急いでいない声だった。この声で何万回も人に話しかけてきた人間の声だった。
「呼んだから」とリヴァは言った。
「なんて美しい」
褒めていなかった。確認していた。
部屋の設計が、最初から逃げ場を奪っていた。
最上階。護衛なし。開けた空間に見えて、ドアは一つしかない。窓の外は夜景だけだ。逃げようとすれば必ず彼の横を通る。
グレイはそれを説明しなかった。
説明する必要がなかった。
ただ、窓際に立っていた。
Camelの煙が、部屋に静かに広がっていた。
「来てくださり、ありがとうございます」
低い声だった。重く、乾いている。
「呼ばれたから」
「ええ、そうですね」
ゆっくり振り返る。Camelを一口吸って、煙を横に流す。
目が合う。
笑っていた。口元だけ。
「座ってください」
促される。革張りのソファ。深く沈む。
グレイが向かいに座る。足を組む。煙草をテーブルの灰皿に置く。火がついたまま。
「何の用」
「用、ですか」
繰り返した。おかしそうに。
「会いたかっただけです」
「それだけのために呼んだの」
「ええ。そうですよ」
悪びれなかった。
グレイが煙草を取る。また一口吸う。煙が上がる。目がこちらから外れない。
「怖いですか、今」
「別に」
「そうですか」
少し、目が細くなった。
「強いですね」
褒めているのか、確認しているのか、わからない声だった。
テーブルの上に、グラスが二つ置いてある。中身が入っている。いつ用意されたのか、気づかなかった。
「飲みますか」
「何が入ってるの」
「ウイスキーです」
「安全って証明できる?」
グレイが少し笑った。今度は目も笑っていた。
「そうですね」
否定も肯定もしない。
「でも、飲んでほしい」
グラスをこちらに向けて少し押した。強制じゃない。だが、断りにくい種類の丁寧さだった。
「……どうして私を呼んだの」
グレイが煙草を灰皿で押しつける。火が消える。
「さっき言いましたよ」
「会いたかっただけ、は理由にならない」
「そうですか。私には理由です」
窓の外を一瞬見て、またこちらに視線を戻す。
「あなたのことが、気になっていました」
静かに言った。
「随分前から」
それだけだった。説明もなかった。続きもなかった。
ただ、グラスがまだこちらに向いていた。
「三日前、意味がわからなかったでしょう」と彼は言った。
「椅子の話」と私は言った。
「そうです」
グレイがゆっくりとウイスキーに視線を落とす。
飲んだら、教えるという意味だろうか。
またゆっくりと、グレイの視線が上がる。まっすぐ見つめてくる。
グラスを手に取ったのは、その目に負けたからだった。
口をつける。ウイスキーの味がした。普通の、ウイスキーの味。
グレイが満足そうに煙草に火をつけた。
「では、教えて差し上げましょう」
一回吸って、煙草を灰皿に置いた。立ち上がった。
ゆっくりと、私の方に近づいてきた。急がない。威圧しない。ただ近づいてきた。
「動かないでくださいね」と彼は言った。
「動いてない」
「そうですね」
私の横に立った。
「あなたは、私のことが怖いですか」と彼は言った。
「怖くない」
「そうですか」
一拍。
「 」
彼は何かを言った。
短い言葉だった。日本語ではなかった。英語でもなかった。
聞き覚えがあった。
どこかで聞いた。知っている言語だった。でも何語かわからなかった。
その言葉が耳に入った瞬間。
何かが、落ちた。
頭の中で、何かが。
気づいたら、涙が出ていた。
わからなかった。なぜ涙が出ているのか、わからなかった。怖くなかった。痛くなかった。でも涙が出た。
体が震えていた。小さく。止められなかった。
「……なに」と私は言おうとした。声が、震えていた。「何を、して」
「静かに」とグレイは言った。
ゆっくりとソファの前にしゃがんだ。私と目の高さを合わせた。穏やかな目だった。怒っていない。責めていない。ただ、見ていた。
息が上がる。呼吸が自分の意志とは別の形で押し寄せてくる。
泣きたくないのに、涙が出てくる。
グレイはしばらく、何も言わなかった。
あの言葉のせいなのか、グレイのせいで自分はおかしくされているのか。
全部声に出したいのに、出てこなかった。
「大丈夫ですよ」と彼は言った。
違った。大丈夫じゃない、とわかっていた。でも体が止まった。
「……やめて」
「可哀想に」
彼の左手が、静かに動いた。
右耳に触れた。
軽かった。力がなかった。ただ触れただけだった。
体が硬直した。
「…っ」
息が吸えなかった。
「ごめんなさい」
自分の声だった。
無意識だった。なぜそう言ったのか、わからなかった。でも出た。唇が、勝手に動いた。
「ああ、可哀想に」とグレイは言った。
穏やかだった。憐れんでいた。それが、何より気持ち悪かった。
「誰が」と言おうとした。誰がこんな仕掛けを作った、と聞きたかった。声がそこまで出なかった。
グレイに意図は通じたようだった。
「それを知りたければ、また来てください」と彼は言った。
息が戻ってきた頃。
最初に気づいたのは、指先の違和感だった。
温度がなくなった。
次に、視界が揺れた。
立ち上がろうとする。足に力が入らない。ソファから立てない。体が重い。鉛を飲んだみたいだった。
「……何、これは」
「あなたが、自分で飲んだものですよ」
グレイの声が近くなった。気づいたら、隣に座っていた。さっきまで向かいにいたのに。
「自分で、さっき選んで飲んだ。そうでしょう?」
「…カイを、呼ぶ」
端末を取ろうとする。手が震える。うまく掴めない。
グレイの手が、静かに上から重なった。
「焦っていますね」
「離して」
「その顔は初めて見ました」
「やめて」
声が、自分で思ったより小さかった。
「ほかの人間は、どうでもいい」
グレイが端末をこちらの手から取る。テーブルの上に置く。遠い。届かない。
「何がしたいの」
「話がしたい」
「もう、話した」
「あなたが逃げるからですよ」
煙草に火をつける。煙が上がる。目がこちらから外れない。
「動けない状態なら、聞いてくれると思って」
「最悪」
「そうですね」
否定しなかった。
時間が経つ。どれくらいかわからない。グレイはずっとそこにいた。煙草を吸っていた。
思えば、グレイは時計をしていなかった。部屋にも、ない。いつからこの部屋にいるのか、わからなかった。
気が遠くなる。思考にもやがかかる。
「寝ないでください」
声がする。
目を開ける。グレイがいる。近い。
「……」
頭が重い。体が熱い。
「苦しいですね」
「……うるさい」
「そういう顔をするんですね」
笑っていた。
離れなければ。身をよじると、ソファから落ちそうになる。落ちて、床に手をつく。このまま這ってでも扉まで行けば、と思った。
「そうですか」
グレイの声が上から降ってくる。見られている。すべて、視界に収められている。この部屋に入ってからずっと。逃げられない。
「可哀想に」
静かに言った。命令でも懇願でもない。ただの、事実みたいな声だった。
リヴァの頭に手を伸ばして、まるで子供にするように、撫でる。動けない。振り払えない。
「帰…して」
その言葉に、グレイが反論する。
「帰る場所があるんですか。あなたに」
言葉が詰まった。ある。あるはずだった。
グレイは撫でていた手で髪を一束摘み、親指と人差し指で弄んだ。
「アルカに、」
「助けに来ませんでしたね」
窓の外の夜景が、遠くて綺麗だった。こんな状況なのに、綺麗だと思った。
グレイが低く言った。
「あなたを、ここに置いておきたい」
所有欲だった。隠す気もなかった。
一束つまんでいた髪に、ゆっくりと口づけた。
「気持ち悪い」
「そうですね」
また否定しない。
時間が、ゆっくりと流れた。優しい声と、髪をなでる行為。恐怖と交互に襲ってきて、あたまがおかしくなりそうだった。
「でも、あなたは来てくれた。自分で選んで、ここに」
体の感覚が少しずつ戻ってくる。指が動く。足に力が入り始める。もう一度、立ち上がろうとする。今度はかろうじて、立てた。
グレイと距離を取る。
壁に手をつく。ふらつく。でも立っている。
「動けるようになったんですね」
「……」
扉に向かう。足が重い。一歩ずつ。
「終わっていませんから」
背後からグレイの声がした。笑っていた。
扉を開ける。廊下に出る。冷たい空気だった。
扉が閉まる音がした。
入るときにいた守衛はいなかった。
できるだけ扉と距離を取り、廊下の壁に背中を預ける。ずるずると、そのまま座り込んだ。膝が笑っている。手が震えていた。カーペットが無機質だった。
まだ、グレイに見られている感覚がする。
しばらく、動けなかった。
涙がまだ出ていた。理由がわからないまま。
「リヴァ」
通信だった。アルノの声だった。
答えようとした。声が出なかった。
「リヴァ、聞こえますか」
「……聞こえる」
かろうじて出た声が、自分のものじゃない気がした。
廊下の向こうでエレベーターの音がした。
扉が開いた。
カイだった。
スーツだった。今日のために着てきた、似合わなくもない黒のスーツだった。走ってきた気配があった。息が少しだけ上がっていた。
廊下の端で床に座っている私を見た。
一秒、止まった。
それから歩いてきた。走らなかった。走ったら、私が何かを察すると思ったのかもしれない。
私の前に、片膝をついた。
目線が同じ高さになった。
私の顔を見た。涙が出ていることを、見た。何も言わなかった。
「……カイ」と私は言った。
「ああ」
「帰りたい」
「わかった」
彼は私の背中に手を通し、抱き上げた。
歩き出した。エレベーターに向かった。
涙が止まらない理由をまだ考えていた。
体が覚えていた。
誰かがそう設計した、とグレイは言った。
誰かが。
エレベーターの扉が開いた。カイが乗り込んだ。扉が閉まった。
鏡張りの壁に、二人が映った。
カイは正面を向いていた。左手首のダイブコンピュータのベルトが、蛍光灯を反射していた。
私は自分の顔を見た。
涙が出ていた。震えていた。
自分の顔が、知らない顔みたいだった。
「カイ」
「ああ」
「カイ」
「ここにいる」
カイは少しの間、私を見た。
エレベーターが降りていった。
私はカイの胸に、少しだけ頭を預けた。
カイは何も言わなかった。
ロビーの光が、扉の隙間から見えた。
エレベーターがロビーに着いた。
扉が開いた。
カイが抱えたまま出た。
アルノが立っていた。
ロビーの端だった。壁を背にして、腕を組んでいた。ユキナガがその隣にいた。端末を持ったまま、画面を見ていなかった。
二人ともリヴァを見た。
カイは止まらなかった。
アルノの横を通り過ぎようとした。
「カイ」とアルノが言った。
カイが止まった。
振り返らなかった。
「説明します」とアルノは言った。「無線が途切れた時点で、私は——」
「聞こえてた」
カイの声だった。
低かった。いつもより低かった。抑えている声だった。
「全部、聞こえてただろ」
アルノが少し止まった。
「それでも止めなかった」
「突入すれば」とアルノは言った。「グレイは持っているものを使います」
「何を」
「神経薬理学の専門家が同行していました」アルノは声の温度を変えなかった。「密室で強行すれば、グレイはリヴァに何かを使う。どちらにしても、突入した瞬間に取り返しがつかない状態になる可能性があった」
カイが少し止まった。
「グレイはそれをわかった上で、あの部屋を選んでいます。逃げ場のない高層階、護衛なし、開けた場所に見せかけて、実際は密室と変わらない。突入のタイミングを、最初から奪いに来ていた」
「それが一つ」とアルノは続けた。「もう一つは情報です。グレイはリヴァの過去を知っている可能性があります。今夜それを確認する必要があった。突入すれば、グレイは二度と話をしない」
「それがお前の判断か」
「はい」
「リヴァを使って?」
「……リスクを取ると判断した。それは事実です」
カイが一歩、アルノに近づいた。
アルノは退かなかった。
「お前が聞いてた声は」とカイは言った。「情報か」
アルノが止まった。
正しかった。判断は正しかった。グレイはリヴァを殺さなかった。情報が取れた。全部、計算通りだった。
なのに。
眼鏡のブリッジに手をかけた。押し上げられなかった。手が止まった。
「……聞こえていました」と彼は言った。「全部」
「ならわかるだろ」
「わかっています」アルノは視線を外さなかった。「わかっていて、止めなかった。それが今夜の私の判断です。正しかったと今も思っています」
一拍あった。
「ただ」
カイが止まった。
アルノは前を向いたまま言った。
「……それだけです」
ユキナガが床を見た。
カイはアルノを見たまま、しばらく動かなかった。
それ以上何も言わなかった。
言葉が続かなかったのではなかった。
これ以上言ったら、取り返しがつかない何かを言う、とわかっていた。
リヴァを抱えたまま、カイは歩き出した。
出口に向かった。
車に乗った。
カイのスカイラインだった。後部座席にリヴァを乗せた。自分が運転席に座った。
エンジンをかけた。
アルノが助手席のドアを開けた。
カイは何も言わなかった。
アルノとユキナガが乗った。ドアを閉めた。
車が動き出した。
誰も何も言わなかった。
首都高の入口に差し掛かった頃、アルノが口を開いた。
「……リヴァ」と彼は言った。前を向いたまま。
「今夜のことは」一拍置いた。「あなたに負担をかけました」
リヴァは窓の外を見ていた。
「アルノ」
「はい」
「怒るカイの声、初めて聞いた」
アルノが少し止まった。
「……ええ」と彼は言った。静かに。「初めてでした」
カイはハンドルを握ったまま、何も言わなかった。
首都高の光が、フロントガラスを流れていった。
リヴァは後部座席で、膝を少し抱えた。
体がまだ、少しだけ重かった。
”Simon's Theme” / Jóhann Jóhannsson




