第2話 揺れ始める世界 ~夢見る少年~ [1/2]
白い光がゆっくりと薄れていく。
光がほどけた先に現れたのは——
10年前の、きおの家のリビングだった。
休日の午前。
カーテン越しの柔らかな光が、古い木造の部屋を静かに照らしている。
空気は少しひんやりとしていて、床板は歩くたびにかすかに軋む。
けれど今は、誰も歩いていない。
この空間に動きがあるのは、テレビの画面だけだった。
NLBワールドシリーズ最終戦の中継。
アメリカの巨大なスタジアムが映し出され、
観客の歓声が遠い世界の出来事のように響いている。
画面の中では、日本人の二刀流選手がマウンドに立っていた。
投げて、打って、走って——
そのすべてが、まるで物語の主人公のように輝いている。
幼いきおは、テレビの前で正座したまま息を呑んだ。
ホームランの弾道。
最後の三振。
紙吹雪の舞うフィールド。
仲間に抱きしめられる選手の笑顔。
その光景が、胸の奥に焼きつく。
「……すごい。」
その一言だけで十分だった。
この瞬間、彼の人生は静かに方向を決めた。
きおの胸の奥が、熱くなる。
心臓がドクン、と強く脈打つ。
身体の奥から、何かが湧き上がってくる。
——動きたい。
理由なんてない。
ただ、じっとしていられなかった。
きおは立ち上がった。
テレビの光が消えると、部屋は一気に静寂に包まれる。
さっきまで世界の中心だったスタジアムの喧騒が、
まるで夢の中の出来事のように遠ざかっていく。
胸の奥の熱は、消えない。
むしろ、どんどん強くなる。
——走りたい。
——振りたい。
——何かを掴みたい。
幼いきおには、その衝動の正体がわからない。
けれど、身体が勝手に動いていた。
玄関へ向かい、靴を履く。
扉を開ける。
外の空気は、家の中よりも少し冷たくて、
けれどどこか懐かしい匂いがした。
土と木と、朝の光が混ざったような匂い。
きおは走り出した。
家の前の細い道を抜け、
風を切りながら、ただひたすらに走る。
息が上がる。
けれど止まらない。
胸の奥の熱が、足を前へ前へと押し出す。
森が見えてくる。
木々が重なり合い、光が斜めに差し込んでいる。
その光の粒が、まるで空中に浮かんでいるように見えた。
きおは森へ飛び込んだ。
土の柔らかい感触。
木々のざわめき。
鳥の声。
遠くで流れる川の音。
森は、きおにとって“庭”のような場所だった。
誰もいない。
誰にも邪魔されない。
ただ、自分の呼吸と自然の音だけがある。
きおは地面に落ちていた細い枝を拾った。
軽く振ってみる。
右手ではしっくりこない。
左手に持ち替える。
——こっちだ。
理由はわからない。
ただ、左手で持った瞬間、
枝が“道具”になった気がした。
きおは、ゆっくりと素振りをした。
ヒュッ——。
空気が切れる音がした。
枝の軌道が、驚くほど綺麗だった。
幼い子どもが振ったとは思えないほど、
無駄がなく、自然で、流れるような動き。
きお自身は気づいていない。
ただ楽しくて振っているだけ。
もう一度、振る。
ヒュッ——。
光の粒が、枝の軌道に沿って揺れたように見えた。
胸の奥の熱が、さらに強くなる。
もっと振りたい。
もっと動きたい。
きおは、もう一度振ろうとした。
その瞬間——
森の音が、ふっと消えた。
鳥の声も、風の音も、川の音も。
すべてが一瞬で止まった。
きおは動きを止める。
空気が、固まったように感じた。
光が揺れる。
視界の端が白く滲む。
——何だろう。
きおがそう思った瞬間、
世界が“巻き戻った”。
ほんの一秒。
ほんの一振り分だけ。
きおの腕が、元の位置に戻っていた。
「……え?」
きおは、自分の手を見つめた。
何が起きたのか、理解できない。
けれど、確かに“何か”が起きた。
森の音が、ゆっくりと戻ってくる。
風が木々を揺らし、鳥が鳴き始める。
胸の奥の熱は、まだ消えていない。
むしろ、さっきよりも強くなっている。
きおは枝を握りしめたまま、
しばらくその場に立ち尽くした。
怖いような、嬉しいような、
よくわからない感情が混ざり合っていた。
きおは枝をそっと地面に置き、
森の出口へ向かって歩き出した。
家へ帰ろう。
けれど、さっきの“揺れ”は、
ずっと頭から離れなかった。
幼いきおの一日は、
静かに、しかし確実に変わり始めていた。




