第8話 契約・入団
スマートフォンが震えたのは、朝のランチを食べ終えた頃だった。
知らない番号。アメリカの国番号。
「……もしもし?」
緊張で声が少し上ずった。
電話の向こうから聞こえてきたのは、昨日トライアウトで見かけたスカウトの声だった。
『きお君。昨日の投球、球団として非常に高く評価している。契約の話をしたい』
その瞬間、胸の奥が熱くなった。
夢みたいな言葉だった。
『今日の午後、球団事務所に来られるか?』
「……はい!」
返事は即答だった。
電話を切ったあと、しばらく動けなかった。
手が震えていた。
昨日の投球が、本当に評価されたのだ。
(……俺、プロになれるのか?)
実感はまだなかった。
でも、胸の奥がじんわりと熱くなる。
ホテルのロビーで待っていると、迎えの車が来た。
運転席のスタッフは気さくな人で、道中ずっと球団の話をしてくれた。
「うちはね、強くないよ。はっきり言うけど」
「……あ、そうなんですか」
「でも、だからこそチャンスがある。
上の球団みたいに金でスターを買えないからね。
拾える才能は全部拾うんだ」
弱い球団。
その言葉に、きおは少しだけ肩の力が抜けた。
(……俺みたいなのでも、必要としてくれるんだ)
車は球団本部に到着した。
建物は思ったよりも古く、壁の色は少し褪せていた。
入口の自動ドアも、動きがぎこちない。
「まあ、見た目はこんなもんだよ。中身で勝負する球団だから」
スタッフが笑って言った。
きおもつられて笑った。
案内された会議室は、昨日ラクランが座っていた場所だった。
そこに、数人の球団幹部が待っていた。
「きお君。まずは来てくれてありがとう」
幹部のひとりが立ち上がり、手を差し出した。
握手を交わすと、契約書がテーブルに置かれた。
「これが契約書だ。内容はシンプルだよ。
ドラフト外だから、契約金はほとんど出せない。
でも、うちは君を本気で育てるつもりだ」
紙の束をめくると、そこには英語でびっしりと文字が並んでいた。
正直、ほとんど読めない。
(……これ、サインしていいのかな)
不安が胸をよぎったそのとき——
「大丈夫だ。難しいことはない」
後ろから聞き慣れた声がした。
振り返ると、ラクランが立っていた。
「ラクランさん……!」
「契約内容は問題ない。俺も確認した」
ラクランはきおの隣に座り、英語の文章をひとつひとつ説明してくれた。
その丁寧さに、きおは胸が熱くなった。
(……この人、本当に優しいな)
ラクランは淡々としているが、どこか安心感がある。
昨日のトライアウトでも、ずっと落ち着いていた。
説明が終わると、幹部がペンを差し出した。
「きお君。サインしてくれるか?」
きおは深呼吸をした。
そして、ペンを握り、名前を書いた。
——その瞬間、胸の奥が熱くなった。
(……俺、プロになったんだ)
サインを終えると、幹部たちは満足そうにうなずいた。
「ようこそ、我が球団へ」
「期待しているよ」
「すぐにマイナーに合流してもらう」
「……すぐ、ですか?」
きおは思わず聞き返した。
「もちろんだ。君の球は、すぐにでも試したい」
ラクランが補足するように言った。
「マイナーは明日からだ。俺も一緒に行く」
「えっ、ラクランさんも?」
「捕手が必要だろ」
その言葉に、きおは胸が熱くなった。
昨日のトライアウトで受けてくれた捕手が、これからも一緒にいてくれる。
(……心強いな)
契約が終わると、球団施設を案内された。
ロッカールームは狭く、壁には古いポスターが貼られている。
トレーニングルームも、最新設備とは言い難い。
「……思ったより、質素なんですね」
きおがつぶやくと、ラクランは少し笑った。
「弱い球団だからな。金はない。でも、悪い場所じゃない」
「はい」
きおは素直にうなずいた。
豪華さよりも、必要としてくれる場所があることが嬉しかった。
施設を回りながら、ラクランはきおに細かく説明してくれた。
ロッカーの使い方、トレーニングの流れ、球団スタッフの名前。
(……こんなにしてもらっていいのかな)
きおは胸がいっぱいになった。
夕方、ホテルに戻ると、明日のスケジュールがメールで届いていた。
——マイナー合流。
——初ブルペン。
——翌週には実戦登板の可能性あり。
(……本当に、始まるんだ)
不安もある。
英語もまだ不自由だし、アメリカの生活にも慣れていない。
でも、それ以上に——
(……楽しみだ)
胸の奥が熱くなる。
昨日の揺れのことは、まだよく分からない。
あれが何なのか、どうして起きるのか。
ただ、ひとつだけ分かる。
——あの球を投げたとき、自分は確かに“何か”を掴んでいた。
その感覚を信じて、きおはベッドに横になった。
明日から、プロとしての生活が始まる。




