第1話 最高到達点 ~最後の舞台~ [2/4]
実況席の声が、震えを帯び始めていた。
『試合開始から、まもなく5時間!
この点差ですからね、ここまで長引くと
駐車場の混雑を避けて帰る観客も多いんですが……
今日は誰も帰りません!
この球場全体が、
“最後の一球”を見届けようとしているんです!』
その言葉どおり、スタジアムは異様な熱気に包まれていた。
36対0。
9回裏、2アウト、ランナー無し。
誰もが理解していた。
——これは、ただの試合ではない。
観客席のざわめきは、期待と恐怖が混ざり合った複雑な音を奏でていた。
その視線はすべて、マウンドの男“きお”へと注がれている。
きおは、静かにキャッチャーのラクランの構えを見つめていた。
背筋は伸び、呼吸は深く、動きに一切の無駄がない。
まるで巨大な劇場の中心に立つ役者のように、
その存在だけで空気を支配していた。
観客席のあちこちで、誰かがつぶやく。
「あと一人……」
「本当に……やるのか……?」
「これ、歴史じゃなくて……伝説だろ……」
そのざわめきは、波のように揺れ続ける。
「キーオー! キーオー! キーオー!」
敵地であるはずのスタジアムが、
完全に“きおの舞台”へと変貌していた。
実況席が声を落とす。
『さあ……9回裏、ツーアウト、ランナー無し。
きお選手、あと一人で前人未到の領域へ到達します。』
スコアボードの巨大な数字が、夜空に浮かぶ碑文のように光る。
【9回裏 2アウト ランナー無し】
そのときだった。
相手ベンチで、監督がゆっくりと立ち上がった。
帽子のつばを指で押し上げ、ベンチ奥へ視線を送る。
「ロペス。行け。」
その一言で、ベンチの空気が変わった。
ロペスが立ち上がる。
ヘルメットを深くかぶり、バットを握りしめる。
その表情には、覚悟と恐怖が入り混じっていた。
実況席が反応する。
『……おっと、ここで動きがありました!
相手ベンチが代打を告げています!
最後の打者として選ばれたのは——』
ロペスがベンチ前に姿を現す。
『代打のロペス選手です!
今季の代打成績は打率.412!
勝負強さには定評がありますが……
今日のきお選手を前に、どう戦うのか……!』
ロペスは打席へ向かう前に、
バットを肩に乗せ、軽く素振りを始めた。
ブン……
ブォン……
その一振りごとに、
ロペスの肩と背中の筋肉がわずかに波打つ。
重く湿った空気を切り裂くような音が、
観客席のざわめきを一瞬だけ押し返す。
ロペスは一度深呼吸し、
足元の土を軽くならした。
その動作ひとつひとつが、まるで儀式のようだった。
観客席のざわめきが、さらに大きくなる。
「キーオー! キーオー! キーオー!」
敵地なのに、完全に“きおの舞台”になっていた。
実況席が声を震わせる。
『さあ……ロペス選手がゆっくりと打席へ向かいます。
この球場全体が、まるで息を呑んで見守っているようです……!』
ロペスは、バットを肩に乗せたまま歩き続ける。
その背中に、数万人の視線が突き刺さる。
きおは、静かにその姿を見つめていた。
表情は変わらない。
ただ、淡々と“最後の打者”を迎える準備をしている。
解説者が低くつぶやく。
『……ロペス選手、まだ打席には入っていません。
ここからが、本当の勝負です。』
ロペスは打席の手前で立ち止まり、
バットを握り直した。
その瞬間——
キャッチャーのラクランがミットを抱えたまま立ち上がった。
実況席が叫ぶ。
『おっと……ここでラクラン選手がマウンドへ向かいます!
今季から“1イニングに1度だけ”許されるマウンド訪問……
この場面で使ってきました!』
きおはマウンドで静かに待っている。




