第5話 トライアウト ~スタートライン~ [1/4]
アメリカの空港に降り立った瞬間、きおは思わず立ち止まった。
湿度の低い乾いた空気。
耳に飛び込んでくる英語のざわめき。
見慣れない標識、見たことのない人の流れ。
——本当に来たんだ。
胸の奥がじんと熱くなる。
でも同時に、足が少し震えた。
入国審査の列に並ぶと、係員が早口で何かを言った。
きおは一瞬固まる。
——聞き取れない。
さりげなくスマホを起動し、翻訳アプリに音声を拾わせる。
意味を理解した瞬間、きおは数秒だけ戻った。
戻った世界では、
きおはスマホを出していない。
ただ、自然にパスポートを差し出すだけ。
係員は淡々とスタンプを押し、
きおはアメリカに入国した。
* * *
公開トライアウトまでは三日あった。
時差ボケで頭がぼんやりし、
夜中に目が覚め、
朝になっても身体が重い。
それでも、きおは外に出た。
町を歩き、店に入り、英語を聞いた。
聞き取れない単語が出るたびに、
スマホでこっそり翻訳し、
理解してから数秒だけ戻る。
戻った世界では、
きおはただ自然に頷いているだけ。
英語はまだ怖い。
でも、逃げるほどではない。
——三日で慣れた。
いや、慣れたことにしてしまった。
そんな感覚だった。
* * *
トライアウト当日。
朝の空気は乾いていて、日差しはすでに強かった。
球団施設の前に立つと、
きおは思わず息を呑んだ。
巨大な建物。
整備されたグラウンド。
選手たちの声が響く。
日本では見たことのない規模だった。
受付の前には、
体格のいい選手たちが列を作っていた。
ラテン系、白人、黒人。
年齢もバラバラだ。
きおは列の最後尾に並んだ。
前の選手たちがスタッフと英語でやり取りしている。
早口で、癖が強く、聞き取れない単語が多い。
——やばい。
胸がざわつく。
でも、逃げるわけにはいかない。
きおはスマホをポケットの中で握り、
翻訳アプリを起動した。
スタッフの声を拾わせ、
意味を理解してから数秒だけ戻る。
戻った世界では、
きおは自然に書類を受け取り、
質問に答えているだけ。
周囲の選手たちは「英語できるのか」と驚いた顔をした。
ただ一人、
ブルペンの奥で準備をしていた捕手だけが、
きおをじっと見ていた。
金髪で背が高く、無駄のない動き。
その目だけが異様に鋭い。
ラクラン・リード。
マイナー所属の捕手で、今日はトライアウトの手伝いとして呼ばれているらしい。
きおが戻るたびに、
ラクランの視界に“数字の揺らぎ”が跳ねた。
——今、世界がズレた。
ラクランは眉をひそめた。
他の選手には見えない“何か”が、
きおの周囲だけで揺れている。
「……あいつ、なんだ?」
きおはまだ気づいていない。
自分の存在が、
すでに一人の捕手の視界を乱していることに。
* * *
受付を終えると、
きおはブルペンへ向かうよう指示された。
通路を歩くたびに、
スパイクの音、ボールの音、選手の声が響く。
日本の高校野球とはまったく違う。
ここは“競争の場所”だった。
ブルペンに入ると、
投手たちが順番に投げていた。
球速を測るレーダーガンの音。
捕手のミットが弾ける音。
コーチの短い指示。
きおの心臓が早くなる。
——ぼくも、ここで投げるのか。
緊張で手が汗ばむ。
胸の奥がざわつく。
でも、そのざわつきは恐怖ではなかった。
——ここから始まる。
ずっと積み重ねてきた努力が、
ようやく“未来”に触れる瞬間だった。
「次、君だ」
スタッフに呼ばれ、
きおはマウンドへ向かった。
その瞬間、
ラクランがマスク越しにきおを見た。
その視線は、
まるで“世界の揺らぎ”を測るように鋭かった。
きおは気づかないまま、
マウンドへ足を踏み入れた。
土の感触。
乾いた空気。
遠くで響く英語の声。
——ここが、ぼくのスタートラインだ。
きおは深呼吸をし、
ゆっくりと足を上げた。
少年期の終わりと、
新しい人生の始まりが、
静かに重なり始めていた。




