第4話 旅立ち
高校の卒業式の日、きおは校庭の隅で一人、空を見上げていた。
友達は進学や就職の話で盛り上がっている。
誰もが未来へ向かって歩き出している。
でも、きおの進路欄には「未定」とだけ書かれていた。
——本当に、このまま終わっていいのか。
胸の奥に、ずっと小さな熱が残っていた。
あの日テレビで見た二刀流の選手。
森で何度も投げたボールの感触。
そして、自分だけが持っている“戻れる時間”。
きおは卒業証書を握りしめながら、
「昨日には戻れない」という事実だけが、
妙に重く感じられた。
* * *
きおの通っていた高校には野球部はあった。
けれど、甲子園を目指せるような学校ではない。
部員は少なく、練習環境も整っていない。
限界集落の高校にとって、野球は“部活動”であって“競技”ではなかった。
それでも、きおは辞めなかった。
勝てなくても、試合に出られなくても、
野球を続ける理由は別にあった。
——夢を諦められなかった。
中学の頃から、海外の野球動画を見るたびに、
聞き取れない英語をノートに書き写していた。
授業で習わない表現は辞書で調べ、
それでも分からなければ何度も巻き戻して聞いた。
英語の勉強は“始めた”のではない。
ずっと続けていた。
ただ、使う場所がなかっただけだ。
そして、もうひとつ。
きおは高校に入ってからずっと、
放課後と休日にバイトをしていた。
コンビニ、農家の手伝い、配達。
村にある仕事は限られている。
それでも、きおは3年間で少しずつお金を貯めた。
——いつか、アメリカに行くために。
誰にも言わなかった。
夢を笑われるのが怖いわけではない。
ただ、言葉にした瞬間に“壊れてしまいそう”だった。
高校卒業という節目が来たとき、
きおの中で止まっていた歯車が、ようやく動き始めた。
森での自主練も、ずっと続けていた。
川沿いでシャドーピッチングをし、
夜は海外のトライアウト情報を調べる。
「アメリカの公開トライアウト……7月か」
画面に映る日付を見て、きおは息を呑んだ。
「行けるかもしれない」
ではなく、
「行くしかない」
に変わった。
きおはパスポートを取り、航空券を買った。
ずっと積み重ねてきた努力が、
ようやく“未来に向かう形”になった瞬間だった。
* * *
出発前夜。
家族が寝静まった家の中で、きおは一人、荷物を確認していた。
部屋の片隅には、小さな左利き用のグローブが置かれている。
ただ、飾りのようにそこにあるだけだった。
思い出としては大切だけれど、
アメリカに持っていく“荷物”ではないと思っていた。
——これは、もう過去のものだ。
そう自分に言い聞かせて、きおはスーツケースを閉じた。
* * *
空港へ向かう車の窓から、見慣れた山の稜線が遠ざかっていく。
夏の強い日差しが差し込むたびに、
きおの胸の奥がざわついた。
村を出るのは初めてだった。
いや、正確には——“戻れない距離”に行くのが初めてだった。
どれだけ時間を戻せても、
この道を逆走して家に帰ることはできない。
「……本当に、行くんだな」
運転席の父がぽつりと言った。
きおは頷くしかなかった。
信号待ちのとき、父が紙袋を差し出した。
「きお。これ、持っていけ」
きおは受け取り、中を覗いた瞬間、息を呑んだ。
——グローブだ。
部屋の片隅に置いてあったはずの、
あの小さな左利き用のグローブ。
「……なんで、これ」
父は前を向いたまま、少し照れくさそうに言った。
「お前、持っていかないと思ってただろ。
でもな……これは、お前が一番最初に“野球って楽しい”って言った日のグローブだ。
数年前に全国の小学校に寄付されたセットのやつ。
右が二つ、左が一つで届いたんだが……
この村じゃ左利きはお前だけだったからな。
ずっと、お前の相棒みたいになってた」
きおは言葉を失った。
自分にとっては“飾り”になっていたものが、
父にとっては“息子の原点”だった。
「使えなくてもいい。
持ってるだけで、きっと思い出すだろ。
お前がどこから来たのか」
父の声は静かだった。
きおはグローブを胸に抱えた。
持っていくつもりはなかった。
でも、今は——手放せなかった。
空港が近づくにつれ、
胸の奥のざわつきは、少しずつ熱に変わっていった。
——ぼくは、行くんだ。
戻れない未来へ。
まだ見ぬ世界へ。
自分の力がどこまで届くのかを確かめるために。
車が空港のロータリーに入ったとき、
きおは小さなグローブをぎゅっと握りしめた。




