第1話 最高到達点 ~静かなる異常値~ [1/4]
20XX年11月。
NLB(National League Baseball)ワールドシリーズ第7戦。
アメリカ全土が固唾を飲んで見守る、年に一度の頂上決戦。
その最終戦が、今まさに歴史の境界線を越えようとしていた。
19時ちょうどにプレイボールが告げられたこの試合。
誰もが「接戦になる」と信じて疑わなかった。
両チームの戦力差はほぼ互角。
シーズン中の対戦成績も五分。
専門家の予想も、ファンの期待も、すべてが拮抗していた。
——少なくとも、試合が始まるまでは。
だが、現実はすべてを裏切った。
スコアボードには、
36 – 0
という数字が、冷たいLEDの光でくっきりと刻まれている。
まるでバグのようなスコア。
少年野球でも滅多に見ない点差。
まして、ワールドシリーズ第7戦で——。
普通なら、アウェイでここまで点差が開けば、観客は帰り始める。
駐車場の混雑を避けるために、終盤で席を立つ観客も多い。
子ども連れの家族は眠気に負け、大人たちは明日の仕事を思い出す。
だが——
誰ひとり席を立たない。
売店はすでにシャッターを下ろし、
ホットドッグの匂いも、ポップコーンの甘い香りも消えている。
それでも観客は帰らない。
むしろ、誰もが席にしがみつくようにして、フィールドを見つめていた。
時刻は、まもなく日付が変わろうとしている。
11月の夜風は冷たく、スタンドの上段では吐く息が白く揺れた。
それでも、球場は満員のままだった。
球場全体が、巨大な生き物のようにうねり、
ひとつの名前を呼び続けている。
「キーオー! キーオー! キーオー!」
敵地であるはずのスタジアムが、
まるでホームのような熱狂に包まれていた。
相手チームのファンですら、スマホを構え、
この瞬間を逃すまいと身を乗り出している。
実況席も異様な熱気に包まれていた。
『信じられません……!
ワールドシリーズ第7戦、スコアは36対0!
これはもう、歴史の目撃です!』
『いや、歴史どころじゃないですよ。
これは……伝説の瞬間です!
きお選手、今日だけで満塁ホームランを九本!
そして今、27人目の打者を迎えています!』
解説者は何度もメガネを外し、汗を拭いながら言葉を探していた。
『……これは、野球という競技の枠を超えていますね。
もう、何を見ているのか分からない……。
ただ、目を離せない。』
スタジアムの照明が夜空を切り裂くように輝き、
観客の歓声が波のように揺れ続ける。
マウンド上の“きお”は、静かにキャッチャーのサインを見つめていた。
その姿は、まるで巨大な劇場の中心に立つ役者のようだった。
スコアボードの数字が、夜空に浮かぶ巨大な碑文のように光っている。
【9回裏 2アウト ランナー無し】
実況席が状況を噛みしめるように声を落とす。
『さあ……9回裏、ツーアウト、ランナー無し。
この打者が、きお選手にとって“最後のバッター”となるのでしょうか……』
観客席でも、状況を確認するようにざわめきが広がる。
「あと一人……?」
「マジで……最後のバッターじゃん……」
「これ決めたら……本当に伝説だぞ……!」
敵地のファンでさえ、手に汗を握りながらスコアボードを見上げていた。
球場は、ただひとりの投手のために呼吸していた。
その名を呼び続けるために、声を枯らし続けていた。
「キーオー! キーオー! キーオー!」
その声は、もはや応援ではない。
祈りに近かった。
そして——
代打ロペスがゆっくりとベンチから姿を現す。
物語は、静かに次の段階へと進んでいく。




