神の手
寺さんが定年を迎えた。愁眉社編集デスクから引き上げていく偉大なる先輩に、私はその日一日ほとんどついて回っていた。
「これは、君が引き継いでくれないか」
そう渡された封筒には、茶色を縁に帯びた紙の束が無数にまとめられて、ずっしりとした重みに思わず中身を問うた私に、頭に霜の置かれた面のながい顔をしわくちゃにほころばせて、
「たまに来るだろう?小さい子が漢字帳なんかに彼らなりの一編を持ち込んだり、賞に出してきたり…ノートからジグザグに切り取られたそれを、なんだか捨てられなくて…長いことこの仕事をやっていると、本人に返せることがあるんだ。受賞作と旧作を見比べたりしてね…新人とこの中の作品の作者名とを見比べるのがちょっとした楽しみだったんだが…よければ君が代わってくれないか」
送別会の終了直後にしたそれが、私が寺さんと交わした最後の会話だった。
それから三日程は、寺さんとの別れや、心温まるエピソードのおかげで受け取った封筒の中の作品に目を通し、名前を覚えたりもしていた。
しかし仕事に忙殺され、いつか読めばいいと思いながら、結局三つ、四つほどしか稚拙なそれらは読まれないままに、ごちゃごちゃとしたデスクに根を張るようにどっしりと構えるようになった。二年ほど前のことである。
再び封筒の中身に目を通したきっかけは、当時私がまとめていたExelを偶然に見つけてしまったからだ。名前と、持ち込まれた年代が記されているそれを見て、ふと気が付いたことがあった。年代が、しっかりと順繰りになっているのだ。
わずかな母数では全体の事は分からないと思って、自分が封筒からその紙の束を取り出した順番を思い出しながら、最後尾に位置するはずの一束を引き抜く。その裏には、二〇一九年四月十九日と書かれていた。その一つ前の束を引き抜く。多少飛んではいるが、二〇一七年八月二日。恐らく正しい…ここまで几帳面だとは。寺さんへの畏敬を深めつつ一番後ろと一番前の作品を見比べてみると、面白いことに気づいた。
二つの作品で主人公だと思われる両者は、古いものにあったマッシブさが新しいものにはなくなっていた。これは正に漫画史の変遷をなぞっているかのようだ。
劇画の最盛期から、より軽さ・明るさを求めるように…子どもと言うのはやはり作品を模倣する。こんな仕事をしているだけあって、私も一端の漫画好きだ。となると、頭から読んでいって「この作品は〇〇の影響を受けていそうだから何年のものでは?」と推論を当てる遊びに没頭した。時代順とはいえ、スパンが違う。中々に味のあるクイズだった。
「それ」に出会ったのは、わざわざ自宅にまで封筒を持ち帰るようになって五日目、封筒内は千九九五年五月一日の直後だった。前例のない奇妙な作品—子どもらしい稚拙な筆致で描かれているものの、模倣先が分からない。どころか、薄っすらとしたストーリーライン、なんなら主人公の存在すらも分からない。
読み飛ばしてさっさと年を確認しようかと思うほど難問だった。とある一ページを読むまでは、はっきり言って退屈をしていた。
何気なくめくって、そのページを見た瞬間に私の脳には郷愁と呼ぶには強烈すぎる衝撃が加えられた。
ボロボロと流れる涙を拭おうともせず、鏡も見ずに鋏を手に取ると、ガッシと髪の毛を掴んで張り、その上に掴んだ鋏をジグザグに走らせた。
鋏を置くと、私は素手による親知らずの抜歯を試み、両の親指を開放骨折した。依然折れた指に力は加えられ続けていたが、それ以上に酷いことにならなかったのは、脱水症状によるめまいで壁に頭をしたたかに打ったおかげだ。
手から離れて、床にひらりと落ちたそのページには、ただ前後と変わりない稚拙なタッチで田園風景が描かれているだけだった。
折れた親指が治るまでの二週間に、余った有休を吐き出して、私は列車に乗り込んだ。行き先はあの作品の作者(恐らく私と同い年だろう)が書き残していた住所だ。奇しくも、私の生まれと同じだ。とはいえ幼少の頃を過ごしたに過ぎず、育ちは都心だ。
丁度、あの絵のような村だった。当時の私にはそれなりに愛着もあり、泣き喚きながら引っ越した覚えがある。
両の親指に包帯を巻いているものだから、スマホを弄ろうにも本を読もうにも億劫で、景色ばかり見ていた。積み上げた土の上を走る電車からみる青々とした景色は、郷愁を抜きにしたって綺麗だ。
次の駅で降りてから、30分ほど歩かなければ目的地にはつかない。道中で作者のことを聞きながら、一度、田舎らしい大型デパートにでも寄ってランチにしようかと考えながら、一束だけ抜き出してきたあの作品を眺めていた。もう一度あのページを見ても、同じような衝動に襲われることは無かった。
それでも、あのページに差し掛かると胸の狭まるような郷愁に襲われる。
何故、こんな絵に心動かされてしまうのか。
目は肥えている。新人の時分には賞の一次審査を通しすぎだと怒られたこともあるが、最近はむしろ搾り過ぎたと言われた。
別に拙い絵が感動を生まないとは言わないが、絵単体にその力は通常ない。自分の生んだ子が描いた絵なら、どれだけ拙くとも輝いて見えることだろう。
しかし、これを描いた子供と私にはなんの関係性もない。下駄を履かず、純粋な絵のみの力で私を感動させたのだ。これまでみてきたどんな絵より強く。
この作品は珍しく賞の応募作だ。だから住所も分かったのだが、名前までは本名、ペンネームの両方とも掠れて読むことができない。
電車の窓から望む畦道で戯れる男の子と女の子を、私の目が追って、窓枠の額縁がその景色を連れ去った。
目印のない土地は、文明の利器たる電子地図をも跳ね除ける。道すがら、たまに会う人に道を聞きながら、なんとか大型デパートにはたどり着いた。余白を持って想定したスケジュールを80分上回ってのことだった。こんな土地を、幼い頃は思うままに駆けていたなんて信じられない。
その疲労に加え、自転車に乗ったお母さんに聞いた話によると、応募作の住所には既に家などないらしい。
「なんだかなぁ…」
ため息をつきながら、ご飯を食べようとデパートを歩いていると、珍しいものを見かけた。
机を一枚挟んで、男が二人、向かい合っている。片方の男はペンらしきもの(それも漫画に使うようなGペンだ)を手にとって、紙に何やら書いている。
対して、もう一人の男は、死に物狂いで紙に食らいつくようにして、嗚咽混じりに座っている。
一見すれば似顔絵屋のようだけれど…何枚も何枚も、机の上には紙が折り重なっている。目を動かせば、粗末な看板が目に入った。
『漫画や』
…それが、そのペンを走らせる彼の主張らしかった。編集者、そして何より漫画好きとしての私の好奇心が、しばしの間空腹を忘れさせた。
「並んでも、いいですか」
客らしき、泣いている男のやたら大きい背中越しに、漫画やさんに話しかけた。…しかし、返事は帰ってこない。所在なくバッグを持つ手を組み替えながら、漫画やさんの顔を見る。
汗をびっしょりかいて、一心不乱にペンを叩きつけるように振るっている。寝間着のようなねずみ色の服も、元は何色か分かったもんじゃない。
「最後のページです…」
漫画家さんが、客に言う。客はまるで独房で飢えきった囚人のように、漫画家さんの手から紙を奪い取った。自然と、私にもその紙が見える…がその絵の訳は分からない。コンテクストの問題じゃない。セリフもなく、何が書かれているのかも意味不明だ。
「う、うぉ、おぉ……」
それでも、何故か客はその巨躯を丸めて、おいおいと泣く。
「…お姉さん、誰?」
漫画やさんは、やっと私の存在に気づいたらしかった。名刺を出そうとしたとき、目前の巨躯がヌッと動いた。
「うあぁぁ、あぁぁ…!」
彼は素早く机の上の、役目をおえたGペンを手中に収めると、自分の頬に突き刺した。
「え…?」
Gペンの位置が、背中越しにじわじわと上がっていくのが分かる。彼は、何を…
ついにGペンが眉間のあたりまでゆき、肉による抑えを失ったGペンが天高く掲げられ、血飛沫を上げる。
「ヒ…!」
男がのっそりと立ち上がるも、私はとうに腰が抜けて動けそうもない。下から眺めて、初めて男の白髪がそっくり頭の上から消えているのに気がついた。カツラがずり落ちたのだ。
頬から、目にかけての大きい傷に、禿頭…そしてそこにあるタトゥー。見覚えがある。
「二、二半億円事件の…!」
二億と五千万を、現金輸送車から強奪した事件。その犯人の、推定似顔絵に瓜二つだった。
男は、私にまるで構わずに、涙と血を流しながら、出口へと歩いていった。
「…この際誰でもいいや。一緒に原稿拾って、ついてきて」
漫画家さんは、まるで動じる様子なく、地面に屈んで散らばった紙を拾っていた。
「それで…今から何を?」
紙拾いを手伝い、名刺を渡すと、私はいつの間にか乗せられて電車で来た道を電車で戻っていた。
「自分で描いた漫画の、聖地巡礼にね。なにせ、料金をもらっていないから…」
そう言うと、漫画家さんは紙を取り出し、私に見せてきた。
「この原稿、どう思う?何もかもがわからないだろう。だが、しっかりと物語がここにある」
およそつながりさえ見えない絵…前衛芸術とか言い出したら次の駅で降りようと思いながら相槌を打つ。
「率直に言えば、俺の腕には特殊な力がある。人生を書き取る力だ。眼の前にいる人間自身の人生を、腕が勝手に漫画という形でこうやって紙に写すことができる。ただし、見ての通りわかりやすい形じゃない…だが、本人にはよく分かる。例えば、俺達は梅干しの画像を見れば自然とつばが口の中に湧く。しかし、当然外国人に梅干しの画像を見せてもなにも起こらないだろう。それと同じように、ここにあるのは一個人の抽象化された人生だ。それを見た瞬間、つい人は泣いてしまう…俺にだけ分かる、生まれ育った町並み、俺にだけ分かる、あの日の失敗…俺にだけ分かる、ずっと突っかかっていた後悔……そして、俺にだけ分かる、強盗した金の隠し場所。あいつはきっと自首でもしに行ったんだろう」
やっと、彼の言っていた言葉の意味が分かる。
「次の駅さ。一億も残ってれば上等だけど…」
「…泥棒をするつもり?」
「俺は料金としてもらうだけさ。金は天下の回り者。汚い金だろうと、俺が警察に返してやる義務はないね」
窓の外を見ながら、屁理屈を平気で言ってのける…
「随分変わったね、高森省吾くん?」
目つきを鋭くして、彼が私を睨む。
「好きじゃないな、勝手に詮索されてるのは…」
構わずに、懐から名刺を取り出す。
「遅ればせながら…名前はまだでしたね、水岸英美里と申します」
口を半ば開けて、間抜け面の彼に追い打ちをかける。
「久しぶり、ショーゴくん?」
彼は顔を片手で覆い、目をきゅっとつむんだ。指の隙間から、少し赤らんだ頬が見える。
「…似合って無いぞ、ショートカット」
「私が引っ越したんだよね、小学二年生くらいに」
彼はますます、目をつむんで深い溜め息をついた。
「なんでここが?」
「うちに、こんな原稿があって…」
そう言って、大先生の原稿を取り出すなり、彼は大慌てで私の手から原稿の入った封筒をひったくろうとした。
「か、返せ…!」
それを、手を高く上げて阻止する。
「新人賞に応募した原稿の権利は基本的に当社に帰属しま~す…ふむふむ、丁度私の引っ越しぐらいの時期に応募してたんだぁ~…どれだけ幼くても、応募規約読まないとだめだぞ~?」
彼は立ち上がって取るほどは無理やりする気になれなかったらしく、ますます不機嫌に頬杖をついて顔をしかめる。
「話を聞いてる限り…君は、君自身の人生を漫画にしたんだね。そして、私と君は、随分一緒にいたから…同じ思い出が、1ページあってもおかしくないか」
彼が、頬から手を離し、聞く。
「その怪我…漫画で?」
「そうだけど?…君のせいで傷物になったんだから、私に対する謝罪も必要だよねぇ…そこで良い提案があるんだけど…もし今から言うそれを呑んでくれたら原稿も返すし、怪我もチャラにしてあげる…最高じゃない?」
彼は依然としてブスッとした顔をやめない。
「どうせ、金を警察に届けろとか言うんだろ?くだらない…あいつはきっと強奪した金を生活費に使ってる。飲食店やら大家だって金を返さなきゃいけないだろ」
「他人が返さないからって君が返さない理由にはならないでしょ」
彼は鼻から息を吐くと、窓の外に見入ってしまった。
「それと、まだ条件を全て伝えてないうちからムスッとするのはどうかと思うなぁ」
彼は、目だけをこっちに向ける。
「私が、君を漫画家にしてあげる」
私が身を乗り出して言ったのに対して、彼はむしろ背もたれに背中の全面を付けた。
「な…何いってんだ」
「つきっきりで指導したげる。現役編集者だよ?有料級だよ?」
「…いや、コネじゃないか」
「デビューはちゃんと賞や持ち込み、私以外の人の審査を受けてもらいます」
彼はしばらく見開いていた目を閉じて、再び窓に視線を向けた。
「断る」
「…漫画家になりたいんじゃないの?」
「もう漫画家だろ。漫画で立派に食っていけてるし、収入に限れば、世の中の漫画家の上澄みも上澄みだ」
「でも、書いてるのは君の作品じゃない」
「…自分の書きたくない作品で稼いでる漫画家は漫画家じゃないとでも?」
「でも、評価されたい作品が、みんなの前で表現したい作品があるんじゃないの?」
「………」
随分、彼は車窓の外を見ていた。私も彼を待って、停車駅が近づきつつあるなか随分無言だった。
「…描けないんだよ」
「…何が?」
「…自分の漫画が」
彼の目は、まだ外の景色を見ている。
「一人になると、俺の腕は俺の人生を書きとるんだ。絵は描けても…漫画は描けない。漫画のことを意識した瞬間…手が勝手に、あの時賞に送ったのとおんなじタッチで、続きを書き始める…書き取る人生を送っている人間の精神が成熟していれば成熟しているほど、タッチは劇画調になったりするけれど…俺のタッチはその原稿から変わっちゃ無いんだ。お前は、俺のこの手でなんとか荒稼ぎできないかと思ってるんだろうが…お生憎様だったな」
「…何かがこの原稿を描いたときで止まってるから、だから腕による絵柄が変わらないんじゃない?条件を呑んでさえくれれば、手伝うよ。君の時を、現代に引き戻すの」
彼は今日見た中で一番難しい顔をして、窓枠を睨んでいた。
「…本当に?」
「うん。なんでもする」
顔を赤くして、彼はまた黙り込んでしまった。
「少なっ…楽なのはいいけど…」
彼の荷物を見て、ついそんな言葉が出る。段ボール箱一つ分なんて…
「そんなことより…他の同居人は?」
彼が変なことを聞いてくる。
「…?いないよ?」
「い…いないって…!俺はてっきり、シェアハウスだと…!」
彼がまた顔を赤くしている。
「言ったっけ?そんなこと…」
「言っては…なかったけど…二人だとは思わないだろ!」
「とりあえず上がって?何言ったって、今から田舎に帰るわけにはいかないでしょ?」
彼が口をつむんで、ぎこちなく靴を脱ぐ。
「はい、おかえり~じゃ、部屋案内するから」
彼の才能であり、呪いでもあるという腕。それをコントロールするための当面の目標として、精神が絵柄に影響するという彼の経験則が本当なのか、ここを確かめることにした。
腕に影響を与えることが可能か調べるためだ。
彼の心の中にある引っかかりが、彼の腕の時を止めている…これについては、簡単に済むだろうと思っている。
愁眉社のデータベースにアクセスすると、彼の応募歴もしっかり記録されていた。掠れて読めなかったペンネームも…
「エミリだいすき」くんに、いつペンネームが分かったことをバラそうか、ここのところそればかり伺っている。




