第16話 勇者は、剣を置く
勇者は、その夜も眠れなかった。
私室の壁に掛けられた聖剣は、相変わらず淡い光を放っている。だが、その輝きは以前よりも弱く、どこか頼りなかった。
――剣を抜けば、奇跡は起きる。
それが、今までの“正解”だった。
噴水が止まった時も。
町が混乱した時も。
人々が不安に声を荒げた時も。
剣を抜きさえすれば、すべては片付いたはずだ。
(……それでも)
勇者は、目を閉じる。
昼間に見た光景が、まぶたの裏に浮かぶ。
桶を抱えて走る子ども。
文句を言いながらも水を運ぶ商人。
転びそうになった老人を、誰かが支える姿。
不格好で、効率が悪く、争いもあった。
だが――待ってはいなかった。
「……俺が、やらなかったから」
ぽつりと、声が漏れる。
剣を抜かなかったから、町は動いた。
奇跡が来なかったから、人が動いた。
それが、正しいのかどうかは分からない。
ただ一つ、はっきりしていることがあった。
(俺が剣を抜けば……)
(あの光景は、なかった)
勇者は、ゆっくりと立ち上がった。
聖剣の前に立つ。
何度も握ってきた柄。
世界を救った感触が、まだ残っている。
「……女神よ」
勇者は、静かに呼びかけた。
返事はない。
以前なら、即座に届いたはずの声。
正しさを保証する、あの響き。
だが、今は――沈黙だけだった。
勇者は、深く息を吸い、吐いた。
「……俺は」
剣を握る。
だが、抜かない。
「もう、“勇者”でいることを、選ばない」
その言葉と同時に、剣の光が揺らいだ。
祝福が消えたわけではない。
だが、応えなくなった。
まるで、剣のほうが問い返しているようだった。
――それでも、いいのか。
「……ああ」
勇者は、頷いた。
そして。
剣を、壁から外した。
床に置く。
乱暴ではない。
丁寧でもない。
ただ、置いた。
その瞬間、胸の奥にあった重さが、すっと消えた。
代わりに残ったのは、不安だ。
これから、どうすればいいのか。
何をすればいいのか。
何も、分からない。
だが。
それでいいと、思えた。
***
翌朝。
勇者は、町に出た。
腰に剣はない。
兵士たちが、ざわつく。
「……勇者様?」
「剣は……?」
勇者は、立ち止まり、答えた。
「置いてきた」
一瞬、沈黙。
「……冗談を」
「冗談じゃない」
勇者は、はっきりと言った。
「俺は、もう奇跡を起こさない」
人々の間に、不安が広がる。
怒りも、恐怖も、期待も。
勇者は、それを真正面から受け止めた。
「だから」
一拍置いて、続ける。
「自分で決めてくれ」
ざわめきが、さらに大きくなる。
「無責任だ!」
「勇者の仕事だろう!」
「そうだ」
勇者は、否定しない。
「無責任だ」
その言葉に、誰も言い返せなかった。
「俺は、今まで責任を引き受けすぎた」
勇者は、静かに言う。
「選ぶ責任も、迷う責任も、全部だ」
視線を上げる。
人々を見る。
「……もう、それは俺の役割じゃない」
誰かが、何かを言いかけ――やめた。
答えが、用意されていないからだ。
勇者は、町を歩き出す。
誰も止めなかった。
止められなかった。
その背中を、路地の奥から英雄が見ていた。
案内役の少女が、小さく息を吐く。
「……やったね」
「いいや」
英雄は、首を振る。
「ここからだ」
勇者は、剣を置いた。
だが、世界はまだ剣を求めている。
選ばせる世界は、始まったばかりだった。
そして。
女神は、まだ何も答えていない。
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