第15話 奇跡を待たなかった町
朝になっても、噴水は動かなかった。
水を讃えるはずの石造りの噴水は、乾いたまま広場の中央に立っている。勇者の町アルセイアでは、ここ数日、それが当たり前になりつつあった。
「……まだ、か」
商人の一人が、空を見上げて呟く。
女神に祈れば、聖女がいれば、勇者が動けば。
そうすれば、奇跡は起きる。
――起きない日が来るなんて、誰も想像していなかった。
英雄は、少し離れた路地から広場を眺めていた。
案内役の少女と、聖女候補の少女が隣に立っている。
「ざわざわしてるね」
案内役の少女が言う。
「不安、期待、苛立ち。全部混ざってる」
「待つことに、慣れすぎた」
英雄は、低く答えた。
広場の端で、言い争う声が上がる。
「聖女様はどうした!」
「勇者様は何をしている!」
「祈りが足りないんじゃないのか!」
怒りは、誰かに向けられることで形を持つ。
だが、向ける先が見つからない怒りは、宙を彷徨う。
そのときだった。
「……あの」
控えめな声が、怒号を縫うように響いた。
井戸の前に、一人の若い女性が立っていた。
商人の妻だ。いつもは、祈りの場から動かない人物。
「……噴水が止まってるなら」
彼女は、少し震えながら続ける。
「井戸の水を、運べばいいんじゃないでしょうか」
一瞬、静寂が落ちた。
「……何を言ってる」
「そんなの、手間が――」
「でも、水は必要でしょう」
彼女は、視線を逸らさなかった。
「奇跡が来ないなら……自分たちで、やるしか」
沈黙。
それは、正論だった。
あまりにも当たり前で、だからこそ誰も言わなかった言葉。
最初に動いたのは、子どもだった。
「……ぼく、運ぶよ」
小さな声。
だが、確かに。
次に、老人が杖を突いた。
「若いころは、こうして水を運んだもんだ」
少しずつ、人が動き始める。
桶を手に取り、井戸へ向かう。
秩序はない。
効率も悪い。
水は途中でこぼれ、喧嘩も起きる。
「もっと早くしろ!」
「重いんだ、手伝え!」
不満も、怒声も、確かにある。
だが。
誰も、空を見上げなくなっていた。
英雄は、その光景を黙って見つめていた。
(……これが)
選ばせた結果。
美しくはない。
正しくもない。
だが、確かに――生きている。
「……助けなくて、いいの?」
聖女候補の少女が、小さく尋ねる。
彼女の手は、無意識に組まれていない。
祈りの姿勢ではなかった。
「今は」
英雄は、首を振る。
「邪魔になる」
少女は、しばらく考え――頷いた。
「……はい」
広場の隅で、勇者が立っているのが見えた。
剣は腰にある。
だが、抜かれない。
人々が水を運び、言い争い、協力する姿を、ただ見ている。
英雄と、勇者の視線が、一瞬だけ交わった。
何も言わない。
だが、互いに理解していた。
ここで剣を抜けば、奇跡は起きる。
だが、それは――この光景を壊す。
やがて、噴水の底に水が溜まり始めた。
誰かが歓声を上げる。
「見ろ! 水が!」
拍手が起きる。
だが、それは奇跡への賛美ではない。
自分たちへの、驚きだった。
英雄は、静かに息を吐いた。
町は、救われていない。
問題は、何も解決していない。
それでも。
奇跡を待たなかった町は、
確かに一歩、前に進んでいた。
その一歩が、
世界にとってどれほど危険なのかを――
この時、まだ誰も知らなかった。
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