曼珠沙華
巨大な頭が黒雲のように太一を覆い、魔剣は鋭い牙となって心臓めがけて食らいつこうとする――
その刹那。
金色の剣気が丹田から炸裂した。
劍光が空を切り裂き、虹のごとく日輪を貫き、渦巻く暗雲を一瞬で粉々に引き裂く。
「……ああっ!」
黒い「血」が飛び散り、飛頭蛮は裂けるような絶叫をあげた。
巨頭は一気に縮み、よろめきながら後退する。そのまま斗鬼と激しく交錯し、数合のうちにようやく体勢を立て直す――
普通の男の姿へと戻り、魔剣を手にしつつ、顔には驚愕と憤怒が浮かんでいた。
「……さすがはお嬢様。最初からこの小僧の丹田に潜み、俺が本気で喰らいにかかった瞬間、牙を剥くとは。」
重傷を負った飛頭蛮は苦笑し、皮肉混じりの声を漏らす。
「外の敵には目を光らせていたが、破滅の種は内にあった。やはりお前は冷静で賢い。どんな逆境でも必ず突破口を見出す。」
だが、その言葉尻が凍りつく。表情は歪み、憎悪に満ちる。
「……だが、何度も同じ失敗はしないぞ。」
その瞬間、霊気がざわめき、地獄の門が開かれたかのように黄泉の濁流が巻き起こる。
鬼たちの咆哮、怨霊の叫び、あたりは地獄絵図と化す。
太一は「斬魄」の死の静寂からようやく目覚めたが、気が付けば足元には血のような黄泉の流れが広がっている。
冷気が骨の髄まで沁みわたり、波間から怨霊がにらみつけ、屍鬼たちが太一の苦しみを嘲笑う。
斗鬼は言葉を発する間もなく、剣光で河水を斬り払おうとする。
しかし太一が神元を運ぼうとした瞬間、それが黄泉の流れに触れるや否や、まるで溶けて消えるように力を失っていく。
「はははは!」
飛頭蛮の声が黄泉を震わせる。
「無駄だ!黄泉の河では、神でさえも身を引き、仙人すらも掟に従う場所――ましてや、お前ごときが抗えるはずもない!」
「だが心配するな、お前は俺のごちそうだ。雑魚どもには絶対に譲らん。」
斗鬼はなおも剣を振るい続けるが、事態は好転しない。
そんな中、飛頭蛮の口元が冷たい笑みに歪む。
この時、斗鬼はようやく魔剣に彫られた無頭屍の紋が全て消えていることに気づく。
「お嬢様……これが、お前のために用意した“ごちそう”だ。」
断ち切られた刀身から、無数の無頭の屍神が現れ、群れをなして魔剣を貪る。
瞬く間に刃は粉々に砕け散り、残骸は黄泉の水面へと花びらのように舞い落ちていく。
「斗鬼――!」
「焦るな。次はお前の番だ!」
黄泉の流れは太一の胸元まで押し寄せ、波涛は彼を飲み込まんとする。
斗鬼の守りを失った瞬間、飛頭蛮は太一の眼前に現れる。
深く息を吸い込み、魔剣は牙となって、頭が再び膨張していく。
その力は先ほどほどのものではないが、なおも圧倒的な威圧感を保っていた。
先ほどの一撃でほぼ力を使い果たしたものの、黄泉の冥力と魔剣を融合させて辛うじて太一を飲み込もうとする――
飛頭蛮は突然、太一の首筋に噛みついた。
神元が毒蛇のごとく注ぎ込まれ、巨頭は急速に縮み、ついには太一の頭と一体化する。
――
「……ああ、五百年……ようやく自由の身だ!ついに肉体を得た……あはははは!」
彼は歓喜に満ちて黄泉の流れを収め、肉体を完全に乗っ取ろうとした――
だが、次の瞬間、異変に気づく。
術が解けない。肉体の支配も、次第に希薄になっていく。
最初から、この体の深部に“何か”が潜んでいたのだ。
今になって初めて、自分が身体の隅に追いやられているのを実感した。
「……あり得ない……!」
恐怖に駆られ、魂だけでも逃げ出そうとする。
だが、既に霊魂は見えざる蜘蛛の糸で縛り上げられ、逃げ道は絶たれていた。
神元に意識を向けると、そこには蜘蛛の巣に絡めとられた己の魂と、そのすぐ傍らに、確かな意志を持つもう一つの魂が佇んでいた。
「飛頭蛮……これが本当のお前への“網”だ。」
太一の声が、身体の奥底から響く。
飛頭蛮が激しく怯えているのを感じながら、太一は静かに、しかし決然と言い放つ。
「これは裂口女と斗鬼、そして僕――三人で張った、あなたへの罠だ。裂口女の復讐でもある。」
「脱出したら逃げればいいものを、復讐にこだわって重傷のまま俺の身体を狙った。最初の『貪』が刺さった時、標的はずっとお前だったんだ。」
飛頭蛮は完全に錯乱し、無我夢中で抗う。
「僕はあえて蜘蛛女の神元を完全には煉化しなかった。だからこそ“神罰”は起こせなかったけれど……
戦いで消耗しきったお前の判断を、貪欲が鈍らせたのさ。」
「こうしてじっくり話してやっているのも、お前に最後の足掻きを許すためさ。だが今となっては、身体の奪い合いすら諦めた……もう、生き延びたいだけだろう?」
「お前は――もう負けている。」
太一の言葉とともに、冥界に鐘の音が響き渡る。
「ゴォォォン……!」
すべてが静まり返る。
苦しみも、嘆きも、絶望も――波が引くように、全て消えた。
その時、久方ぶりのその姿が、空の高みに静かに舞い上がる。。
深紫の和服を纏った斗鬼が、黄泉の上に静かに立ち、一方の手で剣を天に向け、もう一方で鋭く刃を撫でる。
その剣光が渦となって太一の中の魔へと向かう。
「冥府を渡り、彼岸の花が咲く。」
言葉とともに、曼珠沙華が太一の内と飛頭蛮の魂の狭間に咲き誇る――彼岸の導標だ。
黄泉の流れが高波となって魔を呑み込み、やがて波は静まり、
ただ一人だけが、彼岸に立っていた。
蜘蛛の巣に絡めとられた魔は、黄泉の奥深くへと沈んでいった――。




