斬魄
塵封された記憶を歴史の彼方から呼び覚ましながら、飛頭蛮はゆっくりと魔剣を引き抜いた。
その動きは恐ろしいほどに遅く、一寸一寸と刀身が露わになるたび、鋭い金属音が空間を切り裂き、あたりの空気さえも重く沈む。
周囲の空気が凍りつき、太一は自身の神元も思考も、まるで泥沼にはまり込んだかのように重く、動きが鈍くなったのを感じた。
耳元を生ぬるい血が伝い落ちる。
心の中で警鐘が激しく鳴り響く――この剣が完全に現れれば、何かが『終わる』。
それなのに、いまは指一本動かすこともできない。必死にわずかな意識だけを保ち、正気を繋ぎ止めるので精一杯だった。
「お嬢様のせいでこうなったが――本来ならこの剣、今ごろ世に轟いていたはずだ。」
飛頭蛮は感慨深げにそう呟きながらも、その眼差しにはどこか狂気が浮かんでいた。
「この記憶を呼び戻すだけで、ここまで神元を消費するとは……やれやれ、いくら『兵主』でも時の重みには勝てないか。」
その瞬間、彼自身も相当に消耗していることが明らかだった。
そして、ようやく刀身全体が引き抜かれると、あの圧迫感もわずかに和らいだ。
刀には柄も鞘もなく、全長は一尺ほど、幅は指二本分。
どんな金属で造られたのか判然としない。
刀身には無数の首なし死体の文様が刻まれ、半透明で幻のような鈍い輝きを放っている。
しかしその冷気は、見る者の背筋を氷でなぞるように鋭かった。
「限界は――この程度か」
「だが、それで充分だ。」
言葉が終わるより先に、刀光が弾けた!
反応する間もなく、太一の死生はすでに紙一重だった。
本能だけで体をよじり、神元で急所を防ぐ。
だが鋭い刃は容赦なく太一を裂き、飛び散った血と金色の光が、まるで刀に吸い込まれていく。
刀は血と神元を啜りながら、より一層実体を増していき、刀身の屍紋が真紅に色づく。その姿は、まるで金属から血肉が生えてくるようだった。
飛頭蛮はその刀を見つめ、呟くように呼びかける。
「お嬢様……まだ姿を見せぬか? あの男にそれほど信頼しているか。」
「次は容赦しないぞ?」
その目が太一に向き直ると、声色は一転、嘲弄に染まる。
「今さら後悔しても遅い。お前の味――この刀はすっかり気に入ったようだ。」
太一は激しく咳き込み、胸が焼けるような苦しみに顔を歪める。
『今の一撃、明らかに手加減があった……奴は斗鬼を誘き出したいのか? あるいは単なる様子見か……どちらにしても、雷池の神元がなければ、今ので間違いなく終わっていた』
痛みを堪えて呼吸を整えつつ、太一は必死に体勢を立て直す。
全身は傷だらけ、喉は露出し、首は半ば裂け、左胸から右腹にかけて刀傷が走る。
左手の半分は消え失せ、残りは血肉が滲む塊にしか見えない。
魔剣はまるで餓鬼のように小刻みに震え、次の血肉を欲しているかのようだった。
刀光が再び瞬く。
次は一切の逃げ道を許さぬ死の連撃。
「はぁっ――!」
太一は両手を組み、掌に金色の梵光を集める。巨大な『卍』が虚空に浮かび上がり、烈しく飛び出していく。
「――轟ッ!」
紅塵が舞い、梵光が天地を揺るがす。太一は寸分も退かず、立ち向かう。
刀と仏印が激突し、殺意と慈悲が激しく衝突する。金属音と読経が重なり合い、戦場は混沌に満ちた。
飛頭蛮の刀は嵐のごとく。
太一は負傷を重ねながらも、執念で一歩も譲らず立ち続ける。
傷は増える一方だが、かえって太一の動きは冴えていく。致命傷は――避けられている。
もう一度、雷鳴が轟く――
死地を越え、再び生還。
だが今度は、飛頭蛮が追撃をやめた。
「パチパチパチ……」
魔剣を地面に突き立て、彼は微笑み、太一へと拍手を送る。
「いや、まさか、まさかこの時代に……お前のような逸材がいるとはな!」
「凡人から、ほんの一歩で彌生まで到達し、怪異まで退けた。その執念、その才覚、まさに『法』の極致。」
「だが……」
その笑みが氷のように凍りつく。
「どれほど天才だろうが、最後はすべて――私の腹の中だ!」
飛頭蛮は姿勢を正し、静かに腰に手を添え、再び抜刀――
「斬魄!」
刀から発せられる冷気は、屍の瘴気そのもの。
あたり一面の命が凍りつき、草は枯れ、土は割れ、生の気配が消え去っていく。
太一はふたたび印を結ぶが、今度ばかりは――“死”の風は無音で忍び寄る。
どれほどの命も、どれほどの英雄も、最後は朽ち果てる。
神元の流れは尽きぬはずなのに、太一は本能で悟る。
――これは『死』そのもの。傷ではなく、生命の終焉。
何もかもが遠のき、魂が肉体から遊離していく感覚。
これが――
斬魄。魂魄を断ち切り、心神が彷徨う隙に肉体と記憶を飲み干す恐ろしい技。
数多の命を喰らい、無数の術を盗み取った、飛頭蛮最大の秘奥義。
呆然と立ち尽くす太一。
巨大な首が魔刀を顎に見立てて迫る。
鳥籠に囚われた獲物は、ただ呑み込まれるのを待つばかりだった――。




