表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
扶桑再現  作者: 頗梨
弥生
7/20

虫落

烈火が幾重にも重なる怨みと憎しみを燃やし、迸る火光が愛も恨も、ありとあらゆる情念を揺らめかせていた。


太一は業火の中を歩く。幾千もの苦しみ、不満、悲しみ、執念が重く絡みつき、その一歩一歩を鈍く、だが確かに進ませる。彼はただ黙々と、千手人面の蛛の亡骸へと近づいていった。


炎の中心、怪物は地に横たわる。焦げた無数の手足、天を仰ぐ千の瞳――まるでそのすべてで、己が味わった悲劇と不条理を無言で訴えかけているようだった。


太一は静かに見下ろし、心の中でひとつ深いため息をつく。


「もともと男女の情念から生まれ、怪異と化してなお、さらに他者に利用されるばかり。


怨みから生まれた感情体は、一度として歓びを知ることなく、誕生の瞬間から絶え間ない苦しみの中にあった。


願わくば今、せめて一時の安らぎを得て、この俗世の苦海から解き放たれますように。」


囁くような祈りとともに、太一の眉間の梅花が淡く光を放つ。

さきほどまでの雷鳴の威容も、修羅の怒りも、その柔らかな光に溶けて消え、

太一はまるで塵世に舞い降りた仙人のような静けさを纏っていた。


彼はそっと手を伸ばし、蛛女の顔を撫でる。閉じきれなかった瞳を、優しく指先で閉じてやる。

その瞬間から、蛛女の身体は足元からゆっくりと崩れ、春風に乗った灰燼が静かに空へと舞い上がる――まるで、すべてがこの世へと還っていくかのように。


仏典の梵唱がかすかに響き、春風が全てを撫でていく。

死さえも、どこか安らぎを纏ったような静けさが満ちていた。


だが――身体が頭部に差しかかり、もうすぐ完全に消え去ろうとした、その瞬間。


蛛女は突如として目を見開き、跳ね起きざまに、太一の左手の付け根に思い切り噛みついた!


「……ああ――!」


今度ばかりは、かつて感じたことのない激しい痛みが太一を襲った。

それは肉体どころか、魂の奥底を切り裂くような苦痛。

自分自身が一寸一寸喰われていく錯覚。

意識は霞み、理性が砕け、何もかもが暗転していく。


朦朧とする中、太一の目には、蛛女が最後に――

すべての想いと執念を込めて、自分をじっと見つめる姿が焼きついた。


そして、烈火が一気に爆ぜ、火光の中で全ての塵と怨念が渦巻きながら、太一の傷口へと集まり吸い込まれていく。


貪・瞋・痴――三毒の業火に焼かれ、蜘蛛の身体はついに完全に消滅する。

あとに残ったのは、一つだけ――巨大な毒牙だった。


清らかな月明かりの下で、血と炎、恨みと愛が絡み合う。

そして毒牙は静かに、太一の傷口から体内へと沈み込んでいく。


冷たい神元が全身の血脈を流れ、通り過ぎるたびに体の芯まで凍え、

その一瞬一瞬が刃で斬られるような鋭い痛みに変わっていく。


毒牙は丹田を抜け、六腑を走り、五臓を縦横に駆け抜け、

やがて心臓で一瞬だけ留まり、最終的には意識の海の奥深くへと消えていく。

だが、焼け付くような痛みだけが右目の端にいつまでも残り、まるで呪いの痕を刻まれたかのようだった。


『……一体、何が起きている?』


太一は無意識に右目に手を伸ばす。

何が起きたのか理解しきれないうちに、

脳内で斗鬼の声が切迫した調子で響き、耳元では空気を裂く音が迫ってくる。


「シュシュッ――!」


無数の攻撃が弾幕のように押し寄せ、太一は本能的に身をひねって初撃を避ける。

だが完全には避けきれず、いくつもの傷が体に刻まれる。


続く攻撃に、もはや躱す余力はない。

このままでは、致命傷は避けられない――。


そのとき――


一振りの宝剣が金色の梵光をまとい、凄まじい勢いで飛来した。

黒い刀身には彼岸花が密やかに咲き、剣芒が光の網となって迫る攻撃を全て防ぐ。

剣は太一の目前で静かに止まり、彼の盾となった。


見上げれば、かつて空を覆っていた妖鬼の黒雲はすでに消え、

ただ一つ、巨大な首が宙に浮かぶのみ――

さきほどの弾幕は、その妖気の吐息だった。


「まったく、あの女には感謝しないとな。今夜は二度も助けてもらった。」


首が独りごとのようにそう呟くと、その大きさが徐々に縮み、同時に首元から肉体が形作られていく。

「もし彼女がいなければ、お嬢様の封印を破るのにも、もっと手間取っただろうな。」


そう言い終わるころには、大魔はすでに先ほど見た通りの男の姿に戻っていた。

だが今度、太一ははっきりと気づく。――その瞳には、黒くぽっかりと空いた虚ろだけが漂い、瞳孔はどこにも存在しなかった。

その目と視線が合うだけで、底知れぬ虚無に心が吸い込まれていくような感覚に襲われる。


「気をつけろ。こいつは――飛頭蛮だ」


斗鬼の冷静な声が、太一の脳内に響いた。

太一が神元を通じて力を供給していたことで、二人はようやくこのように意思疎通できるようになった。

だが、そのせいもあって先ほど太一が攻撃を受け、神元の流れが途切れた隙をつかれ、大魔に封印を破られてしまったのだ。


「元々、飛頭蛮という妖怪は知性が高いが……こいつは別格だ。

かつて人間になりすまし、人間の知識も記憶も盗み取り、ついには上位の者――大名の座すら乗っ取ったことがある」


斗鬼の表情は見えないが、太一にはその声色の奥に、かつてない緊張を感じ取れた。


『もともと並の相手じゃなかったが、今や群れごと呑み込んだ……想定内だとしても、内心は穏やかじゃないな』


そんなことを思いながらも、太一の唇にはかすかな微笑が浮かぶ。


「東雲太一」


飛頭蛮は上から二人を見下ろし、

その裏で密かに会話をしていることにも気づいているのに、なぜかすぐに攻めてこない。

余裕なのか、何か別の思惑か――。


「俺の目的はお嬢様だけだ。彼女を渡せば、すぐに立ち去ってやる。この地にも二度と手は出さない」


「それは奇遇だな。

俺も彼女が欲しいが、おまえに譲る気はない」


言葉が終わるか終わらないかのうちに、

太一の全身がふたたび金色の梵光に包まれ、剣芒が空を切って飛頭蛮へとまっすぐ放たれた。


さきほどの蜘蛛女の毒牙は太一の体に未知の変化をもたらし、激しい痛みを残したが、

神識で調べても明確な異常は見つからない。むしろ、三毒の力は神元に変換され、消耗を補った。

完璧ではないが、蜘蛛女を浄化する前よりははるかに力が満ちている。


「若いな、まだまだ焦りが先走る。」


飛頭蛮は少しも怒る様子を見せず、ただ一つ深く息を吸い込むと――

次の瞬間、大口を開き、蒼い烈火を噴き出した。

怨霊が悲鳴を上げ、鬼たちが嘆きの声を響かせる。


太一はその炎と陰風の中を、舞うように身をかわし、時に強引に切り込んでいく。

『遠距離では勝負にならない。近づいて一撃――たとえ倒せなくても、斗鬼に隙を作らなければ。』


幾度もの火炎と死霊の奔流を潜り抜け、ついに太一は大魔の懐、一歩の距離まで肉薄する。


右拳を振り抜き、神元を込めた羅漢の一撃――妖邪を討つための拳だ。


だが、飛頭蛮はあっさりとそれを受け流す。

右脚が鋼の鞭のように唸りを上げて横薙ぎに襲いかかる。


太一は攻めを止めず、左手で印を切り、正面から迎え撃つ。

二人がぶつかり合うたび、空気がびりびりと震え、戦意がぶつかり合う。


「お嬢様、まだ姿を見せないのか? このままじゃ、間に合わなくなるぞ。」


重い掌打で太一を弾き飛ばしながら、飛頭蛮の顔からはついに笑みが消えた。


彼は一度深呼吸し、左手を虚空の腰に添え、右手をゆっくりと近づけていく。

そして――


抜刀!



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ