虫落
烈火が幾重にも重なる怨みと憎しみを燃やし、迸る火光が愛も恨も、ありとあらゆる情念を揺らめかせていた。
太一は業火の中を歩く。幾千もの苦しみ、不満、悲しみ、執念が重く絡みつき、その一歩一歩を鈍く、だが確かに進ませる。彼はただ黙々と、千手人面の蛛の亡骸へと近づいていった。
炎の中心、怪物は地に横たわる。焦げた無数の手足、天を仰ぐ千の瞳――まるでそのすべてで、己が味わった悲劇と不条理を無言で訴えかけているようだった。
太一は静かに見下ろし、心の中でひとつ深いため息をつく。
「もともと男女の情念から生まれ、怪異と化してなお、さらに他者に利用されるばかり。
怨みから生まれた感情体は、一度として歓びを知ることなく、誕生の瞬間から絶え間ない苦しみの中にあった。
願わくば今、せめて一時の安らぎを得て、この俗世の苦海から解き放たれますように。」
囁くような祈りとともに、太一の眉間の梅花が淡く光を放つ。
さきほどまでの雷鳴の威容も、修羅の怒りも、その柔らかな光に溶けて消え、
太一はまるで塵世に舞い降りた仙人のような静けさを纏っていた。
彼はそっと手を伸ばし、蛛女の顔を撫でる。閉じきれなかった瞳を、優しく指先で閉じてやる。
その瞬間から、蛛女の身体は足元からゆっくりと崩れ、春風に乗った灰燼が静かに空へと舞い上がる――まるで、すべてがこの世へと還っていくかのように。
仏典の梵唱がかすかに響き、春風が全てを撫でていく。
死さえも、どこか安らぎを纏ったような静けさが満ちていた。
だが――身体が頭部に差しかかり、もうすぐ完全に消え去ろうとした、その瞬間。
蛛女は突如として目を見開き、跳ね起きざまに、太一の左手の付け根に思い切り噛みついた!
「……ああ――!」
今度ばかりは、かつて感じたことのない激しい痛みが太一を襲った。
それは肉体どころか、魂の奥底を切り裂くような苦痛。
自分自身が一寸一寸喰われていく錯覚。
意識は霞み、理性が砕け、何もかもが暗転していく。
朦朧とする中、太一の目には、蛛女が最後に――
すべての想いと執念を込めて、自分をじっと見つめる姿が焼きついた。
そして、烈火が一気に爆ぜ、火光の中で全ての塵と怨念が渦巻きながら、太一の傷口へと集まり吸い込まれていく。
貪・瞋・痴――三毒の業火に焼かれ、蜘蛛の身体はついに完全に消滅する。
あとに残ったのは、一つだけ――巨大な毒牙だった。
清らかな月明かりの下で、血と炎、恨みと愛が絡み合う。
そして毒牙は静かに、太一の傷口から体内へと沈み込んでいく。
冷たい神元が全身の血脈を流れ、通り過ぎるたびに体の芯まで凍え、
その一瞬一瞬が刃で斬られるような鋭い痛みに変わっていく。
毒牙は丹田を抜け、六腑を走り、五臓を縦横に駆け抜け、
やがて心臓で一瞬だけ留まり、最終的には意識の海の奥深くへと消えていく。
だが、焼け付くような痛みだけが右目の端にいつまでも残り、まるで呪いの痕を刻まれたかのようだった。
『……一体、何が起きている?』
太一は無意識に右目に手を伸ばす。
何が起きたのか理解しきれないうちに、
脳内で斗鬼の声が切迫した調子で響き、耳元では空気を裂く音が迫ってくる。
「シュシュッ――!」
無数の攻撃が弾幕のように押し寄せ、太一は本能的に身をひねって初撃を避ける。
だが完全には避けきれず、いくつもの傷が体に刻まれる。
続く攻撃に、もはや躱す余力はない。
このままでは、致命傷は避けられない――。
そのとき――
一振りの宝剣が金色の梵光をまとい、凄まじい勢いで飛来した。
黒い刀身には彼岸花が密やかに咲き、剣芒が光の網となって迫る攻撃を全て防ぐ。
剣は太一の目前で静かに止まり、彼の盾となった。
見上げれば、かつて空を覆っていた妖鬼の黒雲はすでに消え、
ただ一つ、巨大な首が宙に浮かぶのみ――
さきほどの弾幕は、その妖気の吐息だった。
「まったく、あの女には感謝しないとな。今夜は二度も助けてもらった。」
首が独りごとのようにそう呟くと、その大きさが徐々に縮み、同時に首元から肉体が形作られていく。
「もし彼女がいなければ、お嬢様の封印を破るのにも、もっと手間取っただろうな。」
そう言い終わるころには、大魔はすでに先ほど見た通りの男の姿に戻っていた。
だが今度、太一ははっきりと気づく。――その瞳には、黒くぽっかりと空いた虚ろだけが漂い、瞳孔はどこにも存在しなかった。
その目と視線が合うだけで、底知れぬ虚無に心が吸い込まれていくような感覚に襲われる。
「気をつけろ。こいつは――飛頭蛮だ」
斗鬼の冷静な声が、太一の脳内に響いた。
太一が神元を通じて力を供給していたことで、二人はようやくこのように意思疎通できるようになった。
だが、そのせいもあって先ほど太一が攻撃を受け、神元の流れが途切れた隙をつかれ、大魔に封印を破られてしまったのだ。
「元々、飛頭蛮という妖怪は知性が高いが……こいつは別格だ。
かつて人間になりすまし、人間の知識も記憶も盗み取り、ついには上位の者――大名の座すら乗っ取ったことがある」
斗鬼の表情は見えないが、太一にはその声色の奥に、かつてない緊張を感じ取れた。
『もともと並の相手じゃなかったが、今や群れごと呑み込んだ……想定内だとしても、内心は穏やかじゃないな』
そんなことを思いながらも、太一の唇にはかすかな微笑が浮かぶ。
「東雲太一」
飛頭蛮は上から二人を見下ろし、
その裏で密かに会話をしていることにも気づいているのに、なぜかすぐに攻めてこない。
余裕なのか、何か別の思惑か――。
「俺の目的はお嬢様だけだ。彼女を渡せば、すぐに立ち去ってやる。この地にも二度と手は出さない」
「それは奇遇だな。
俺も彼女が欲しいが、おまえに譲る気はない」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、
太一の全身がふたたび金色の梵光に包まれ、剣芒が空を切って飛頭蛮へとまっすぐ放たれた。
さきほどの蜘蛛女の毒牙は太一の体に未知の変化をもたらし、激しい痛みを残したが、
神識で調べても明確な異常は見つからない。むしろ、三毒の力は神元に変換され、消耗を補った。
完璧ではないが、蜘蛛女を浄化する前よりははるかに力が満ちている。
「若いな、まだまだ焦りが先走る。」
飛頭蛮は少しも怒る様子を見せず、ただ一つ深く息を吸い込むと――
次の瞬間、大口を開き、蒼い烈火を噴き出した。
怨霊が悲鳴を上げ、鬼たちが嘆きの声を響かせる。
太一はその炎と陰風の中を、舞うように身をかわし、時に強引に切り込んでいく。
『遠距離では勝負にならない。近づいて一撃――たとえ倒せなくても、斗鬼に隙を作らなければ。』
幾度もの火炎と死霊の奔流を潜り抜け、ついに太一は大魔の懐、一歩の距離まで肉薄する。
右拳を振り抜き、神元を込めた羅漢の一撃――妖邪を討つための拳だ。
だが、飛頭蛮はあっさりとそれを受け流す。
右脚が鋼の鞭のように唸りを上げて横薙ぎに襲いかかる。
太一は攻めを止めず、左手で印を切り、正面から迎え撃つ。
二人がぶつかり合うたび、空気がびりびりと震え、戦意がぶつかり合う。
「お嬢様、まだ姿を見せないのか? このままじゃ、間に合わなくなるぞ。」
重い掌打で太一を弾き飛ばしながら、飛頭蛮の顔からはついに笑みが消えた。
彼は一度深呼吸し、左手を虚空の腰に添え、右手をゆっくりと近づけていく。
そして――
抜刀!




