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扶桑再現  作者: 頗梨
弥生
6/20

修羅

スッ――!


墨のように濃く、呪詛を孕んだ毒液が、心臓めがけて太一へ先んじて撃ち出される。


瞬きの間に、千手人面の蛛が突進していた。巨刃、牙。怒りは天地を呑む勢いで、覆いかぶさるように太一へ殺到する。


太一はわずかに笑み、瞳に恐れはない。両掌を合わせ、そっと目を閉じる。まるで仏法に沈潜して参ずる僧のように。生死も外界も、遠くへ退いていく。


毒液の双刺が、心を穿たんと迫る――


その刹那、紅霧のただ中から鋼の刃が斜めに閃き、空気を裂いて毒刺を正確にはじいた。次の瞬間、刃影は幻のように風へ解ける。


攻めを遮られた千手人面蛛は、喉まで込み上げる殺意に身を灼かれながらも、無理やり身を捻って着地した。油断はない。獲物を値踏みするような、冷たい警戒の目。


鐘楼の周囲で、紅い霧が墨を泉に落としたように広がり、瞬く間に太一を包む。

霧の向こう、太一の影は濃淡に揺らぎ、時折、背丈も体格も異なる影たちが、手には様々な武器を携え、霧を切り分けて行き過ぎる。どの気配も、紅霧とともに虚ろへと溶け、幻のように掴みどころがない。


怪異に堕ち切った千手人面蛛の胸に、一瞬だけ、獲物は自分だという錯覚が芽生える。


だが、根づくより早く、脳内を荒れ狂う怒りが呑み込んだ。残るのは――殺だ。


「アオォ――――!!」


哭き、吠え、怒鳴る。千の顔が一斉に鳴いた。

泣き声に紅霧が波打ち、太一の影がふっと浮かぶ。だが、その佇まいは揺るがない。


つづく瞬間、毒が再び――今度は全力で解き放たれる。


主脳からは太い黒刺が撃ち出され、残りの千面は無数の細毒を一斉吐出。驟雨のごとく降りそそぐ。


毒雨が覆い、紅霧の外、触れるものは尽く腐蝕した。石は割れ、草は枯れ、空気さえ粘つきを帯びる。


紅霧のなか、太一は巍然として動かない。

毒が迫ると、霧がうねり、形なき烈風が吹き抜けて、毒液をことごとく散らし、解かす。


攻めがここまで相殺されるのを、どうして耐えられよう。千手人面蛛は咆哮し、身を躍らせ、紅霧へ突入した。獲物が悠然と目の前にある――もう容赦できない。


突進が風を牽き、紅霧が一時、かき混ぜられて散る。そこで露わになる異相――


口から業火を噴く、面色青黒い男。

骸骨を握る童子。眼窩に陰火が燃え、顎を開閉する。

逞しき肥満の男は、半ば砕けた死体を抱え、噛み千切っては肉を甦らせる。

そして、国色天香の女。ひとつ笑えば、人の心を蠱す。


――修羅護法。


短い静寂の後、激突は爆ぜた。


千の顔が吠え、毒が万の泉のように湧く。四修羅と太一を圧倒する。


男は大きく息を吸い、口から滾る業火を吐き、毒雨の広範を蒸し上げる。


童子が骸骨を差し上げる。窩に陰火が灯り、顎が大きく開き、蒸騰する毒霧を丸ごと呑む。


女が薄く紅を押さえ、ふっと笑う。千手人面蛛の心が一瞬だけ凍り、攻めが鈍る。


肥満の男は太一の前に立ち、身を盾に毒を受ける。腐食が肉を剥ぎ、骨が白む。だが死体をひとかじりすると、すぐさま肉が芽吹く。


――怒、怒、怒。


これほどの嘲り、どうして耐えられよう。


千の顔が同時に泣き、雨のように涙が落ちる。


千手人面蛛だけではない。四修羅の胸にも理由なき悲哀があふれ、頬を灼く。


抱えた死体の裂け胸からも、すすり泣き声が漏れる。


涙の雨の下、千手人面蛛が再び躍る。


敵は迫る。修羅たちはそれぞれ別れがたさに絡め取られ、一瞬、足が鈍る。


火は練り切られない。巨刃が火壁を裂き、男を吹き飛ばす。毒が続く。


女が最も早く悲嘆の幻を抜け、毒が童子へ襲うのを見て、三人を叱咤して引き戻す。


だが、間に合わない。童子は傷を重ね、形が崩れかけても、骸骨を駆って余毒を吸い、陣を死守する。


肥満の男が吼え、退かずに出る。

抱えた死体と巨刃が真正面から激突する。


つい先ほどまで齧られていたはずの肉が、魔刃と当たり、金鉄の音を散らす。


死体が風を切る。隙間なく振り回し、巨刃の連撃を一つひとついなす。


三修羅は破れた縦を立て直そうと背を返すが、なお涙の余韻に引かれ、毒が間断なく散り、動きは縛られる。ただただ、じりじりと。


しばし――拮抗。


そして、血と肉の苛烈な交換。


……


――パリン。


甲高い音を立てて、骸骨の頭蓋が砕ける。童子の気が一気にしぼみ、胸のあたりに裂痛が走る。


より悪いことに、頭蓋という盾を欠いた毒が、遮るものなく押し寄せる。童子は避けきれず、毒霧に焼かれ、更なる傷を負い、かろうじて立つ。


だが、その間隙を見切った肥満の男が、半身の死体を渾身で叩き込む。

紅白が飛び散り、直後、男の炎が全身を焼き上げ、悲鳴と哭きが交錯する。


女が微笑み、童子の散り際の身がふわりと整う。男の火勢はさらに増し、肥満の男の腹の底で呪がうねる。戦場はふたたび混沌に沈む。


炎と血、毒と刃。

響き合い、噛み合い、交わり合う。


……


女が無言でほほえみ、女が声なき悲鳴をあげる。


太一は目を閉じたまま、すべてを心の底へ沈めて見ている。


紅霧の渦のなかで、巨大な千手人面蛛は、笑いと哭きの狭間でもがく。

自ら編んだ蜘蛛の巣に絡まり、欲と苦に縛られ、底へ底へと引かれていく。


もがくほどに、沈む。


――修羅などいない。

いや、修羅とは、彼女の心に自生した悪鬼にほかならない。


やがて、巣の中心、紅霧の奥で、千手人面蛛はどさりと倒れた。


力は尽き、怒りは尽きず。

だが、ぶつける先はない。残るのは、無窮の無力と哀。


太一は目を開く。瞳にめぐるのは、感慨と、わずかな自嘲。


「――君も、僕も。同じ無間にいる」


ボ――!


怒が爆ぜ、空いっぱいの毒雨と血霧に火が移る。

炎は巣を伝い、狂ったように拡がり、ついに千手人面蛛をまるごと呑み尽くした。

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