修羅
スッ――!
墨のように濃く、呪詛を孕んだ毒液が、心臓めがけて太一へ先んじて撃ち出される。
瞬きの間に、千手人面の蛛が突進していた。巨刃、牙。怒りは天地を呑む勢いで、覆いかぶさるように太一へ殺到する。
太一はわずかに笑み、瞳に恐れはない。両掌を合わせ、そっと目を閉じる。まるで仏法に沈潜して参ずる僧のように。生死も外界も、遠くへ退いていく。
毒液の双刺が、心を穿たんと迫る――
その刹那、紅霧のただ中から鋼の刃が斜めに閃き、空気を裂いて毒刺を正確にはじいた。次の瞬間、刃影は幻のように風へ解ける。
攻めを遮られた千手人面蛛は、喉まで込み上げる殺意に身を灼かれながらも、無理やり身を捻って着地した。油断はない。獲物を値踏みするような、冷たい警戒の目。
鐘楼の周囲で、紅い霧が墨を泉に落としたように広がり、瞬く間に太一を包む。
霧の向こう、太一の影は濃淡に揺らぎ、時折、背丈も体格も異なる影たちが、手には様々な武器を携え、霧を切り分けて行き過ぎる。どの気配も、紅霧とともに虚ろへと溶け、幻のように掴みどころがない。
怪異に堕ち切った千手人面蛛の胸に、一瞬だけ、獲物は自分だという錯覚が芽生える。
だが、根づくより早く、脳内を荒れ狂う怒りが呑み込んだ。残るのは――殺だ。
「アオォ――――!!」
哭き、吠え、怒鳴る。千の顔が一斉に鳴いた。
泣き声に紅霧が波打ち、太一の影がふっと浮かぶ。だが、その佇まいは揺るがない。
つづく瞬間、毒が再び――今度は全力で解き放たれる。
主脳からは太い黒刺が撃ち出され、残りの千面は無数の細毒を一斉吐出。驟雨のごとく降りそそぐ。
毒雨が覆い、紅霧の外、触れるものは尽く腐蝕した。石は割れ、草は枯れ、空気さえ粘つきを帯びる。
紅霧のなか、太一は巍然として動かない。
毒が迫ると、霧がうねり、形なき烈風が吹き抜けて、毒液をことごとく散らし、解かす。
攻めがここまで相殺されるのを、どうして耐えられよう。千手人面蛛は咆哮し、身を躍らせ、紅霧へ突入した。獲物が悠然と目の前にある――もう容赦できない。
突進が風を牽き、紅霧が一時、かき混ぜられて散る。そこで露わになる異相――
口から業火を噴く、面色青黒い男。
骸骨を握る童子。眼窩に陰火が燃え、顎を開閉する。
逞しき肥満の男は、半ば砕けた死体を抱え、噛み千切っては肉を甦らせる。
そして、国色天香の女。ひとつ笑えば、人の心を蠱す。
――修羅護法。
短い静寂の後、激突は爆ぜた。
千の顔が吠え、毒が万の泉のように湧く。四修羅と太一を圧倒する。
男は大きく息を吸い、口から滾る業火を吐き、毒雨の広範を蒸し上げる。
童子が骸骨を差し上げる。窩に陰火が灯り、顎が大きく開き、蒸騰する毒霧を丸ごと呑む。
女が薄く紅を押さえ、ふっと笑う。千手人面蛛の心が一瞬だけ凍り、攻めが鈍る。
肥満の男は太一の前に立ち、身を盾に毒を受ける。腐食が肉を剥ぎ、骨が白む。だが死体をひとかじりすると、すぐさま肉が芽吹く。
――怒、怒、怒。
これほどの嘲り、どうして耐えられよう。
千の顔が同時に泣き、雨のように涙が落ちる。
千手人面蛛だけではない。四修羅の胸にも理由なき悲哀があふれ、頬を灼く。
抱えた死体の裂け胸からも、すすり泣き声が漏れる。
涙の雨の下、千手人面蛛が再び躍る。
敵は迫る。修羅たちはそれぞれ別れがたさに絡め取られ、一瞬、足が鈍る。
火は練り切られない。巨刃が火壁を裂き、男を吹き飛ばす。毒が続く。
女が最も早く悲嘆の幻を抜け、毒が童子へ襲うのを見て、三人を叱咤して引き戻す。
だが、間に合わない。童子は傷を重ね、形が崩れかけても、骸骨を駆って余毒を吸い、陣を死守する。
肥満の男が吼え、退かずに出る。
抱えた死体と巨刃が真正面から激突する。
つい先ほどまで齧られていたはずの肉が、魔刃と当たり、金鉄の音を散らす。
死体が風を切る。隙間なく振り回し、巨刃の連撃を一つひとついなす。
三修羅は破れた縦を立て直そうと背を返すが、なお涙の余韻に引かれ、毒が間断なく散り、動きは縛られる。ただただ、じりじりと。
しばし――拮抗。
そして、血と肉の苛烈な交換。
……
――パリン。
甲高い音を立てて、骸骨の頭蓋が砕ける。童子の気が一気にしぼみ、胸のあたりに裂痛が走る。
より悪いことに、頭蓋という盾を欠いた毒が、遮るものなく押し寄せる。童子は避けきれず、毒霧に焼かれ、更なる傷を負い、かろうじて立つ。
だが、その間隙を見切った肥満の男が、半身の死体を渾身で叩き込む。
紅白が飛び散り、直後、男の炎が全身を焼き上げ、悲鳴と哭きが交錯する。
女が微笑み、童子の散り際の身がふわりと整う。男の火勢はさらに増し、肥満の男の腹の底で呪がうねる。戦場はふたたび混沌に沈む。
炎と血、毒と刃。
響き合い、噛み合い、交わり合う。
……
女が無言でほほえみ、女が声なき悲鳴をあげる。
太一は目を閉じたまま、すべてを心の底へ沈めて見ている。
紅霧の渦のなかで、巨大な千手人面蛛は、笑いと哭きの狭間でもがく。
自ら編んだ蜘蛛の巣に絡まり、欲と苦に縛られ、底へ底へと引かれていく。
もがくほどに、沈む。
――修羅などいない。
いや、修羅とは、彼女の心に自生した悪鬼にほかならない。
やがて、巣の中心、紅霧の奥で、千手人面蛛はどさりと倒れた。
力は尽き、怒りは尽きず。
だが、ぶつける先はない。残るのは、無窮の無力と哀。
太一は目を開く。瞳にめぐるのは、感慨と、わずかな自嘲。
「――君も、僕も。同じ無間にいる」
ボ――!
怒が爆ぜ、空いっぱいの毒雨と血霧に火が移る。
炎は巣を伝い、狂ったように拡がり、ついに千手人面蛛をまるごと呑み尽くした。




