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扶桑再現  作者: 頗梨
弥生
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金剛破我執

「待っていたよ!」


怪異の身形がひらりと閃き、瞬きの間に肉薄する。太一は避けない。巨刃を敢えて受け、身を貫かせた。


怪異がほくそ笑むより早く、太一の傷口から金の血矢が噴き上がり、一直線に男の心窩を射抜く。


「……何っ!」


言葉で伝えることはできず、理解が唯一の希望となる。


傷口から噴射された鮮血は、再び傷口へと還っていく。


――以傷制傷。


信と策、そして二人の無言の合図。


もとより「彼」は、斗鬼が負傷し神元を吸収した隙に、他の妖鬼を一時的に抑え込んでできた仮初の主体。消化はまだ終わっていない。


虚を衝かれた反撃は、「彼」のリズムを乱すのに十分だった。


もともと斗鬼の血はこの群れを押さえる枷だった。ただ傷により効き目が薄れ、付け入られたに過ぎない。

今、太一に錬られた斗鬼の血に、仏法の神元が重なる。姿を現すのは――


破魔の血。


金の矢が体内に入った途端、溶け合っていた怪異が再び分離しはじめる。


なかでも激しく軋みを上げるのは――裂け女。


裂け女は最初、「彼ら」に惹かれて来た。のちに器として使われ、「初生の神」を依代に、群妖の再生母体に仕立て上げられた。


だが裂け女は現世に端を発する有形の神。

破魔の矢でも、地に墜とし、身に巨裂を穿つのがせいぜい。


しかも、裂け目は目に見えるほどの勢いで癒えていく。瞬きのうちに――


元の貌へ。


――――――


空では、黒霧が潮のように翻り、さまざまな妖鬼の姿がうごめく。


黒霧の外側を、残破の古剣が旋回し、高速で編まれた金の光網が、妖鬼を囲い込む。刀身のひびは密に走るが、なお光は織り重なる。


黒霧の中核。さきほどの長身の男が、他の妖鬼を裂き、呑み、貪る。今はただ少しでも多くの神元を奪うこと――咀嚼の余裕などない。


前には剣網、背後には大魔。進退は地獄。


背に印を刻まれた身。逃げ延びたところで、いずれ狩られる。


だから――生きるために、妖鬼たちは手を結ぶ。

封を破って逃げるためではない。元の「主宰」を狩るために。


咆哮が重なる。残った執念と悪意を燃料に、彼らは一斉に大魔へ踊りかかった。


――――――


穿たれた巨大な裂け目は金光を瞬かせ、神力の循環とともにゆるやかに癒えていく。


弥生の境。名のとおり――生機はよみがえり、万物は新たに。


太一は背に手を組み、ゆるやかに降りる。鐘楼の頂に軽く降り立ち、下の裂け女を見下ろす。


「『苦海』の初生の神――だから破魔が通らない、というわけか」


「おまえは人の意識に孕まれたもの。妖魔を斬る斗鬼の力が、逆に打ち消される」


「だからこそ、『彼』はおまえを取りこもうとした?」


「殺せない概念。散っても、数日で**『認知の海』**から再生する」


――ガアァッ!


狂化した裂け女は、もはや太一の分析に耳を貸さない。巨刃が空を割き、再度の突進。


「――いいだろう」


太一の瞳から憐憫が消える。両手を結び、低く唱える。


「降魔聖功・金剛――破我執」


背後に巨大な仏印が立ち、すぐさま鐘身へと溶け込む。


――カァン。


第一声。青銅色がはらりと剥げ、無数の衆生の貪が相をなし、金光を映してひとつの大字に凝る。


「貪」。


字は鐘の震えに乗って放たれ、裂け女の両眼へ突き刺さる。


鐘の牽引に囚われ、裂け女は痛みに歩を止め、横たえた刃を鏡に見立てる。乱れた顔を整え、髪を撫で、身についた汗の匂いを慌てて嗅ぎ取る。


――カァン。


第二声。貪の相が霧散し、鐘のまわりに淡い灰霧が立つ。揺らぐ人影――ただし見えるのは二つの耳のみ。鼻も口も目もない。


浮かぶ次の字は――


「痴」。


誰かが耳へ囁く。裂け女は瞬時に息を止め、眼差しが定まる。

やがて合点したように、手術刀を縦に掲げ、全身を映す。


さっきの囁きを反芻しているのか。

鏡の自分を審き直しているのか。


そして――決した。

掌の刃を剣のように構え、胸へ突き立てる。


――ブシュ。


血臭が弾け、肋が二本、音を立てて飛んだ。


まだ足りない。


――ギチギチ……。


両脇を抱え込み、己を圧搾する。骨が砕け、血が噴き、耳を裂く音。身はさらに細く、歪に。


『ここまでで、もう充分――彼の期待どおり』


『でも、まだ足りない。もっと驚かせる。みんなの中でいちばん特別で、いちばん優に――』


ためらいなく、縫ったばかりの口を裂き直す。手術刀を犬歯に当て――。


『あ、あああああ――――!』


未踏の痛みが下顎から全身へ奔る。

身が震え、地に膝を抱えてうずくまる。巨刃がなければ倒れていた。


刃にすがり、どうにか立ち直る。ふたたび鏡を――見つめる。


それは献身への満足か。

彼が喜ぶ顔の幻影か。

血を滴らせながら、唇が笑みに割れる。


「ハ、ハ、ハ、ハ! ハ! ハ! ハ!」


「ハ……ハ、ハ、ハ……」


笑いはやがて止み、彼女はゆっくりと跪座し、映る影に見入った。


頬に触れ、からだを眺め、ふと気づく。――自分を、もう識別できない。


これは、私?

この姿で、彼は本当に振り向く?

あの薄情な彼に、そこまでの価値がある?

みんなが言った「欠点」を直せば、もういじめられない?

「長所」を増やせば、仲間になれる?


……


「お嬢さん、このプランがおすすめよ。みんなこれでモテモテ。玉の輿も夢じゃない」


「咲さん……そんな本気だとは思わなくて……」


「やっぱりお姫様抱っこがしたいの。真人くんの身長じゃ、ちょっとね」


「佐々木さん、手術で少しだけトラブルが……大丈夫、すぐに直しますから!」


「いくら整形したって代わりにはならない。気持ち悪いだけだ」


……


思えば思うほど、憎しみが膨れ、怒りが滾る。

胸の内で獣が吠え、理性を食い破ろうともがく。


裂け女の胸が大きく上下する。からだの奥で何かが膨張し、彼女を内側から引き裂こうとしている。


動きが止まる。生の力が、これから生まれる怪物のために吸い上げられていく。


――ブシュウゥ!


胸の古傷から血が噴き、ついで肉が爆ぜ、飛沫が散った。

肝、脾、胃――内臓が次々と口から這い出る。


――グルル、グルル……。


肝も脾も胃も、両腕へと変じ、

吐き出された肋は、鉤爪の脚へと折り曲がる。


自らを引き裂くたび、憎しみと暴が増幅し、

怒は理を喰い尽くし、ついに――異形となる。


新たな肢に支えられ、彼女はよろめきながら立つ。


同時に、元の頭もゆっくり瞼を上げた。いや、瞼はそこだけではない。

腕にも、胴にも、見えるところすべてに顔が芽吹き、

どの顔も世界を睨み据え、怒と怨に満ちる。


最初の頭は、もはや原形を留めない。


頬を突き破って牙が生え、剛毛が狂ったように伸びる。


もはや裂け女ではない。


千手百面の蛛。


「ガアアアア――!」


怒号が谷を震わせ、樹々を鞭のように揺らす。


眠る者にも醒めた者にも、胸の底から鈍い怒りが湧き上がる。世界全体が彼女の怨嗟に呼応したかのようだ。


咆哮の下、痴の顔が変容する。


額に鬼角が萌え、牙が顎を貫く。


夜叉の相。悪鬼の意が漏れ出す。


悪鬼の恨、夜叉の怒が、灰霧を朱に染めた。


――カァン。


業火、鐘を焼く。三毒のひとつ――


「嗔」。

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