他化真我
怪物の咆哮は遠のき、耳許をかすめてははじける水泡の音だけが、頭蓋の内側で幾重にも反響した。
まただ――無力。
大切な人が、目の前から一人また一人と消えていくのに、太一は何もできない。父、母、司、そして――彼女。
太一は目を閉じる。さっきの光景が脳裏を閃き、胸の中央を素手で裂かれたような痛みが走る。――いっそ死ぬのが自分ならよかった。そうすれば、これほど苦しまなくて済むのに。
池の水が鼻口へ流れ込み、塩辛く刺す。彼は体の主導権を手放し、かすかな生存本能を押し込めた。浅い池のはずなのに、つま先は底に触れない。ゆっくりと別の世界へ引きずり込まれていくようだ。意識は水に溶け、伸び、白んでいく。
すべてが散りかけた、その直前。遠いどこかから、懐かしい呼び声が届き、そっと心を叩いた――
「太一」
それは荒れ地に吹く一筋の春風のように、瞬く間に生命の色を広げる。
重く沈んでいた思考にも、驚くほどの澄明が差した。
『だめだ。まだ終われない』
『彼女の犠牲を無駄にしない』
『詩織を、俺が看なきゃ』
『父さん、母さん……』
鈍かった歯車が回り始める。太一は身体の主権を奪い返そうと――徒労に終わる。手足はおろか、「自分を感じる」ことすら難しい。思考さえ再び鈍っていく。
『どう……なってる』
『溺れてるせいか?』
『違う!』
『さっきの“温い流れ”のあと、頭は戻った』
『――なら、これも何か“神秘”のせいか』
『どうする』
思考は乱れていくのに、太一の心はむしろ静まっていく。
さきほどの少女の動きが脳裏で巻き戻る。
『土壇場で彼女は俺をこの池へ投げた。ここに活路がある。ただ危険が大きい――だから最初からは選べなかった』
巨刃が貫いた瞬間、肌に散った血の温度、最後に舞った飛沫――
『血の流れを感じて。風の軌跡を掴んで』
思考に呼応するように、止まっていた温流がまた眉間から湧き出す。太一は心をすべてそこに注ぎ、思いをその温流に載せて経絡をゆっくりと巡らせた――
初めは髪の毛ほどの微温。一本の線が眉間から差し入り、背骨に沿ってゆっくり引かれていく。胸がときに「どん」と鳴り、すぐ沈む。冬の川のようだ。薄氷の下で水は動いているのに、溶けない。
啓識海、通じる脊椎、五臓を過ぎ、四肢を行き、心へ還る。
『この眉間の生気が心臓に火を継いでくれてなきゃ、とっくに息は絶えてた。……でも足りない』
『絶えず巡らせて、死局を反転させなきゃ』
太一は残った意識をかき集め、《降魔聖功》を回し始め、唇にかすかに《金剛壽命真言》をのせた。
『Om vajra ayushe svaha』
東雲寺が奉ずる降三世明王。幼いころ虚弱だった太一に、父は日々この真言を唱えた。歩けるようになってからは《降魔聖功》が日課となり、全快してなお続けてきた。
十年の修行、目に見える果はなかった。だが今は、他に道がない。
聖功がひと巡り、またひと巡り。体に溶けていた温流が支えを得たように、鼓動と歩調を合わせて再びはじける。微かだ。だが確かだ――心火を点じ直すには、十分。
熱は脈とともに遠くへ飛ぶ。経路はいつもと違う。本来は心へ還るはずが、心脈でひとつ震え、さらに全身へ溶け、体内で濾され、ついに丹田へと集まった。
『足りない!』
名は丹田といえど、今は荒れた原、涸れた地。油断すれば、せっかく集めた力がまた散る。
このままでは、やっとの思いで固めた力もいずれ霧消する。
ふと、目覚めの直後、池の生き物が矢のように散ったことを思い出す――
『ここで無酸素でも死なない……“弥生”の機は、この池に、そして俺の眉間と丹田の間に隠れてる』
『――っ!』
功が引いたのか、意志が押し出したのか。数えきれない試みの果てに――
ついに。
『開――』
『――眼』
――轟。
天穹が内から打ち鳴らされたように、見えない高みで大鐘が鳴る。波紋のような衝撃が四極へひろがり、死んだ闇をきらめく粒に砕いていく。
ひとつの影が浮かぶ。金色の海が四方から押し寄せ、生き物のように肌をよじのぼり、骨へ沁みる。無数の梵字が水底に灯り、星々が海で息をしている。
梵海は鏡ではない。だが法相を映す。
――彼が“自分を見る”のではない。天地が彼を心とし、万象が同時に「東雲太一」を呈したのだ。
開きかけの梅が、太一の眉間の影にそっと脈打つ。花弁の内側には細やかな梵の紋。深淵の方角では雷光が這い、咆哮が群獣の突撃のように響く。万象は見えない中心へと流れ寄り、臨界で、その花に音もなく遮られ、また返される。錠と、鍵が、同時に在る。
太一の胸がふっと空になり、どこかの答えに貫かれた気がした。
『……そうか』
『やはり――そうか!』
細く長い息を吐き、瞳の光を一条に絞る。
『はぁ――っ』
聖功――逆行。
『他化真我、自在天功』
静かな金海が、一瞬で沸騰した。四極から集まる無数の梵文が光の矢となり、眉間の蕾に吸い込まれていく。海水は身の周りで巨大な金の渦となり、四方の「養分」を巻き込む。蕾は貪るように吸い、力を潮のように丹田へ返す。
枯れた内域にまず雷鳴が落ち、ついで谷へ春風が入り、霧の雨が細やかに降る――
荒原が緑に変わり、土脈に潤いが満ちる。芽吹き、茂る。まさに――
弥生
深淵の雷が再び震え、丹田がそれに呼応する。
太一は梵海に沈み、梵の光は呼吸に合わせて上下する。目に映るすべての流速が、心拍と拍を揃えた。
眉間の蕾の鼓動は次第に安定し、何かの律を掴んだようだ。
瞼が開閉するたび、宝華はほころび、
唇が開くとき、天罰はそこに含まれる。
「はぁ――っ」
ひときわ長い喝。沛然たる大波が巻き起こり、太一を抱えて天へと押し上げる。勢いは衰えず、一直線に、穹を衝いた。




