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扶桑再現  作者: 頗梨
弥生
21/22

日常

校舍の最果て。陽光さえも入るのを躊躇うような、薄暗く打ち捨てられたコーナー。太一は、忘月影が口にしていた「例の部活」をようやく見つけ出した。ここは学園の一部というより、忘れ去られた絶海の孤島のようだ。


「――コン、コン」


太一がドアを叩き、しばし待つ。しかし、返ってくるのは死のような静寂のみ。 溜息を吐き、背を向けようとしたその時――「パリッ」という乾いた包装袋の裂ける音と、重苦しい足音が近づいてきた。


二年生の制服を着た、丸々とした体型の男子生徒。彼は機械的な動作でポテトチップスを口に運びながら、うつむき加減で歩いてくる。太一の存在に気づいた瞬間、彼は目に見えて震え上がり、チップスの袋を落としそうになった。その瞳に浮かんでいるのは、一年生に対するものとは思えない、命を狙う刺客でも見るかのような滑稽なまでの恐怖だ。


「え……あ、う……」


しどろもどろに手を振り、居心地悪そうに身を縮める。 太一はその「熱演」を無言で見つめた。単なる人見知りではない。この先輩は、長期にわたって何らかの強烈なプレッシャーに晒され続けた結果、神経が摩耗しきっているのだ。


「あの! これ、これは自腹で買ったやつだから! 部費じゃないからっ!」 踏まれた猫のように、彼の口から言葉が爆発する。 「佐藤君が学生会に説明したはずだ、無駄遣いなんてしてないって! 成果は……成果は出てるんだ! まだ検証段階なだけで……っ!」


太一はその「裏帳簿」については知る由もなかったが、彼の名札にある「齊藤」という名を確認すると、あえて冷徹なトーンで話を合わせた。


「新学期だ。学生会は各部活の存続について、改めて審査を行う必要がある」 平淡な口調。だが、そこには学生とは思えないほどの威圧感が宿っていた。


「あ……うう……」 齊藤の張り詰めていた糸が切れ、手に持ったチップスまでが元気を失ったようにしなびた。


「――ギィィ」 鍵はかかっていなかった。


ドアを開けた瞬間、古い紙が放つ濃厚な香りに包まれる。 視界を埋め尽くすのは、本。書棚、椅子、絨毯、あらゆる隙間を埋め尽くすように積み上げられた文献の山。 『神道』『地獄詳解』『福音書』『古世紀』――そこにあるのは、神秘学という名の狂気を体系化した硬派な典籍ばかりだ。


そして何より目を引いたのは、壁に刻まれた力強い筆致の狂草だった。


『日常とは、神魔鬼怪の中で生き残り、成り上がるまでの物語である』


その一文を凝視した瞬間、虎穴での生死を潜り抜けてきた太一の瞳孔がわずかに収縮した。 これは中二病の妄想ではない。血の通った、冷徹な「経験談」だ。


「一年A組、東雲太一だ」 適当な一冊――『宗教概論』を手に取り、太一は静寂を破った。 「齊藤先輩、楽にしてくれ。俺は借金の取り立てに来たわけじゃない」


「あ、ああ……」 齊藤は電源を再投入されたロボットのように、ぎこちなく鞄を下ろしたが、背筋は依然として鋼のように直立したままだ。


「齊藤先輩。ここで何を研究しているのか、聞かせてもらえますか?」 太一は本を閉じ、深淵を覗くような視線を向けた。 「正直に言えば、『日常社』なんて名前を聞いたのは初めてだ。この部屋の空気とは……似つかわしくない」


齊藤の胸に、疑念と焦りが走る。


『こいつ、カマをかけてるのか? 学生会の回し者か、それとも弱みを握るつもりか?』


恐怖と怒りが入り混じり、齊藤は奥歯を噛み締めた。 この生意気な後輩を、最も強力な「専門用語」で追い払ってやろうと決意する。


「……僕たちは、『神』を研究しているんだ!」


太一の指が止まった。「蟾宮」の降臨を、虎鬼の復活を目の当たりにした彼にとって、その一文字はあまりにも重い。


「神?」太一は眉を上げる。「神学か? それとも宗教史か?」


「いや……」齊藤は言葉に詰まりながらも、不気味なほどの狂熱を瞳に宿した。 「神がどこから来るのか。それを研究し……『新しき神』を追っている」


「新しき神……?」


「我々が探求しているのは――『神様になった道』だ」


背後、部屋の陰から、感情の欠落した低く掠れた声が響いた。


太一の背筋に冷たいものが走る。反射的に振り返ると、そこには墓標のような本の山に埋もれるように一人の男が座っていた。 分厚い黒縁眼鏡。長い前髪が顔の半分を覆い、周囲の闇に完全に同化している。彼が自ら声を出すまで、太一の鋭敏な知覚ですら、その存在を完全に捉えきれていなかった。


「……佐藤、あとは頼んだ……」 齊藤は重荷を下ろしたように、椅子へと崩れ落ちた。


佐藤と呼ばれた先輩は、わずかに頷き、指先で眼鏡のブリッジを押し上げた。その針のように鋭い視線が太一を貫き、静かに、重く問いかける。


「東雲君。君は――『神』とは、いかなる過程を経て生まれるものだと思うかね?」


太一はしばし沈黙した後、優等生らしい回答を口にした。 「神の起源……それは人類の信仰と希求によるものでしょう。集団意識が生み出した象徴、それが神の正体だ」


「一つの正解だな」 佐藤は頷き、その瞳に微かな賛辞を宿した。 「人々がある現象や理念に共通の期待を抱く。そうして『旧神』は生まれる。だが、それ以外はどうだ? 東雲君、君は『新しき神』をどう見る?」


「新しき神……?」 太一は脳内の情報を検索し、探るように答える。 「近現代において神格化された人物……例えば、徳川家康のような存在のことですか?」


「その通りだ。徳川も元は凡人に過ぎなかった。だが生前の功績により、後世において神として祀られた。――『語り継がれることで神に成る』。これもまた、神に至る道の一つだとは思わないか?」


「なるほど……」太一は目を細めた。「つまり先輩方の研究は、普通の人間が『神』へと転化するプロセスに及んでいる、と?」


佐藤は直接答えず、別の問いを投げかけた。 「日本に現存する宗教がいくつあるか知っているかね?」


「十五……いや、それ以上でしょう」


「正確には、想像を絶するほど多種多様だ」 佐藤の瞳に意外そうな色が走る。 「中には伝統的なキリスト教を遥かに凌ぐ信者数を抱える新興宗教すら存在する」


太一は思索に耽りながら問いを重ねる。 「それらの新興宗教も……新たな『神』を造り出せる可能性がある、ということですか?」


佐藤は意味深な笑みを浮かべた。肯定も否定もせず、ただ低く囁く。 「それこそが我々の研究範疇だ。『神様になった道』は、君が思うよりずっと複雑で、泥臭いものだよ」


この時、太一は直感した。佐藤の語る「成神」とは、退屈な学術論などではない。それは、具体的かつ実行可能な『システム』の話だ。


「……つまり。それら宗教の『存在』は、信仰を収穫することで強制的に神を造り出そうとしている、と?」


「然り!」


佐藤が猛然と手元の本を机に叩きつけた。重い衝撃音が、周囲の書積を微かに揺らす。その表紙には、禍々しくも力強い二文字が刻まれていた。――『扶桑』。


「扶桑の道こそが、神に至る道なのだ!」


部屋に死のような沈黙が落ちる。齊藤がチップスを咀嚼する微かな音だけが空気に溶け、窒息しそうなほどの圧迫感が場を支配した。


「……根拠は、その本一冊ですか?」 太一は眉をひそめる。 「他の左証データは?」


その問いが、佐藤の逆鱗に触れた。彼は弾かれたように顔を上げ、制御不能なほどの激情を爆発させる。 「凡夫がいかにして神に成るかを説いているんだぞ! 修行者の話を! 君は、私が冗談を言っているとでも思うのかね!?」


「修行者? 何を以てそう呼ぶのです」 太一の困惑は深まる。 佐藤は深く息を吐き、狂乱しそうな意識をどうにか繋ぎ止めた。ようやく自分の研究を真剣に聴く者が現れたからか、その口調には脆い理智が戻ったが、語速はさらに加速していく。


「修行者とは、成神の道に踏み出した者たちのことだ! 私の知る限り、現在最も成功率が高いとされるのが『扶桑の道』だ」


「そして、先ほど言った信仰によって神に成る者。彼らは『尊神者』と呼ばれる」


太一は静かに耳を傾けた。


「『尊神者』はある種的神性実体を崇める。己の修為に頼るのではなく、神との繋がりを通じて恩寵を受け、位格を引き上げるのだ。浄土教における『他力本願』に近い」


「だが、『神修者』――すなわち扶桑の道を歩む者は、決定的に異なる」 佐藤の声は低く、熱を帯びていく。 「彼らは己自身を神と見なし、自身を仙に擬するのだ」


「――修練を以て苦海に墜ちず、修行を以て再び扶桑を見ん」


佐藤の顔面は病的な紅潮に染まり、血走った目が乱髪の隙間から不気味に覗く。


「先ほどの新興宗教の『神』は……尊神者の範疇ですか?」


「そうだ。だが詳細は知らん。私の目的はあくまで『扶桑』にあるからな」


「扶桑とは、一体何なのです」


「『扶桑』は神修者の根幹だ。扶桑を修めることで、体内に『神元』が生じる。それこそが神への扉を開き、扶桑の道を往く唯一の証明なのだ!」


太一は彼の妄想を遮るように問いかける。 「具体例はあるのですか? 経典や道法、あるいは霊薬の類が必要なのでは?」


佐藤は不敵に鼻で笑った。 「根拠ならある。数千の書物から拾い集めた断片だけではない。何より――私はこの目で見たのだ。本物の神修者を!」


彼は壁の「生き残り、成り上がる」という文字を指差し、声を震わせた。


「彼女は私に、その力の一端を見せてくれた……欠損した肢体が再生する奇跡をな! その時の彼女は、まだ『弥生』の境に至ったばかりだったというのに」


「弥生……?」


「生機綿延として絶えず、神元流転する。これこそが弥生の境地だ」


太一の胸中に、激しい衝撃が走った。――あの虎鬼との戦いで、彼が感じた感覚。 「その……『弥生』の方は、今どこに?」


「死んだよ」 佐藤は、無関係なニュースでも読み上げるような平淡な声で言った。


「死んだ……?」


「ああ」 佐藤は無表情だったが、激しく震える四肢と、吊り上がった口角が、その内側にある極限の恐怖と歪みを露呈させていた。


「――『暴君』の旨あらば、『懐風』ですら止める。ましてや芽吹いたばかりの弥生など、一捻りよ」

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